『秋子さんのジャム騒動』
〜The Panic of Minase Family Episode2〜
原作:Kanon (c)VisualArt's/Key




 ――水瀬家。

 朝。
 カーテンをつきぬけて、燦々とあたたかな日差しが降り注ぐ。
 チュンチュンと、小鳥達のさえずりの声が聞こえてくる。
 俺はゆっくりとした意識の目覚めとともに、静かに重い目蓋を開けた。

「ふあぁぁぁ……」
 俺はベッドから身体を起こすと、名雪と真琴を起こして一階の食卓へと向かう。
 それが俺の朝の日課。
 階段を降りていき、食卓のある部屋のドアを開ける。
「おはようございます。秋子さん」
 俺はちょうど朝食の支度を終えたばかりの秋子さんに挨拶をする。
 そこにあるのは、いつもの水瀬家の食卓…のはずだった。

「みんなおはよう。今日、新しいジャムを作ってみたの。さっそくみんなで食べてみてくれないかしら?」
「………」
 秋子さんの放ったその言葉を聞いた瞬間。何かがひび割れる音とともに、俺達の中にある何かが凍り付いた。
 …以前にあのような事があって以来。
 秋子さんが新しく作ったジャムというものに、どのような意味が籠められているのか。
 それを俺達は三人とも、身をもって思い知らされている。

「今度はちゃんと味見もしたし、腕によりをかけた自慢の味よ」
 そういって秋子さんはにこやかに微笑みを洩らす。
 確かにジャムの味こそ絶品かもしれない。
 しかし問題は違う。
 以前のあの前科を考えれば、この秋子さんの言うことを完全に信用しろという方が難しい、いや不可能に近い。
 名雪は小脇を抱きかかえて震え、真琴は両手で頭を抑えてうずくまり、目の前にあるこの現実から逃れようとして必死の状態だ。
 俺達はこの時を失った空間の中で、ただただ放心を繰り返していた。

「あらあら、みんなどうしたの? はやく朝ご飯にしなさい?」
 秋子さんの不敵な笑みを前にして俺達の取るべき選択肢は、もはや1つしか残されてはいなかった。
 そして俺達はしぶしぶ席に着かされることになる。
「何種類か作ってみたから、どれでも好きな物を食べてちょうだい」
 食卓のテーブルの上には、所狭しと並べられている色とりどりのジャムの瓶、瓶、瓶。
 そして試食用にスライスされた食パンが程よく湯気を立てながら、大皿の上に山盛りに積まれていた。
「さあ、たくさん召し上がれ」
 秋子さんのその視線を前に俺達は、まるで心ここに在らずといった表情でジャムの瓶に手を伸ばす。
 かちゃかちゃと、機械的な手つきで瓶からパンへとジャムを塗っていく音が食卓中に響きわたっている。
「お母さん…祐一…。わたし、先に行って待っているからね……」
 その目には涙を浮かべ、しかし努めた笑顔を俺に向けながら、名雪は震える手でジャムの塗られたパンをかじった。
 真琴もこの世に最期のお別れの言葉を告げると、涙を飲んだ表情でパンのひと口めをかじる。
 俺もそれに続いて、決死の覚悟で今日の日の朝食に挑むことにした。







 …それからしばらくの間の記憶は、はっきりとは覚えていない。

 気がつけば俺は、どういうことか身体が小さくなってしまった名雪を制服の胸ポケットに入れて、授業日数に響くといけないからと名雪の格好に変装した秋子さんとともに学校への通学路を歩いているところだった。
「ふふふ。こうして学校の制服を着て登校するのって何年ぶりかしら?」
 ほんのりと朱くなった頬に手を当てて、くすくすと照れ笑いを浮かべる秋子さん。
 …それは俺達が普段では見ることのできない、秋子さんのもうひとつの笑顔。
 そういえば秋子さんって、結った髪を降ろすと名雪にそっくりだよなぁ…いや、それ以上に……
 ふとそんなことを思う。
 朝露のにじむ、そんな朝の日の小径。
 風が心地よくなびいてゆく中。
 俺の隣を歩く秋子さんの横顔がとても綺麗に輝いて見えて、迂闊にも俺の心はドクンと音を鳴らしてしまう。
 ……って。

「なんで秋子さんが、こんな所にいるんですかっっ!?」
 通学路も残すところあと半分といった辺りで、ようやく正気に返った俺。
 今のトキメキは気の迷いだ、そう思うことにした。
 そうしてぶんぶんと首を振った後。
 俺は秋子さんに向かって、ごくごく当たり前の質問をぶつけていた。
「あら、たまにはこういうことも良いじゃないかしら? 私だって学生時代に戻りたいと思うときがありますよ?」
 しかしさらりと質問を流す秋子さん。
 たまにはって、あんた。
「なんか小さくなった名雪が俺の胸ポケットの中にいるし…」
「お母さん…わたし達にいったい何をしたの〜?」
 制服の胸ポケットから小さくなった名雪が顔を出して俺の質問に続ける。
「それは企業秘密よ」
 そこでそっと左手の人差し指を立てて、秋子さん。

 企業秘密って…秋子さんは一体、どんな仕事をしてるんだよ?
 と心の中で思うも、それははっきりと言葉として出すことができなかった。
 おそらくは本能がそう悟っていたからだろう。
 これ以上訊くと、お前の命に関わるぞ…と。











 ――そうして、なしくずし的に俺達は学校に到着した。

「おはよう相沢君」
 教室に入ると、そこにはすでに香里がいた。
 俺達も彼女に続いて挨拶を交わす。
「香里〜〜」
「っ、どうしたの名雪? それに相沢君の隣にいるのは…?」
 胸ポケットからひょっこりと顔を出している名雪の姿に驚く香里。それはそうだろう。
 俺はことの顛末を香里に話すことにした。
「…なるほど。そういうことね」
 うんうんと頷き、冷汗を垂れながらあっさりと納得する香里。
 どうやら俺の知らない過去にも似たようなことがあったらしい。

「おはよう♪ みんなおはよう〜♪」
 そんな俺達を後目に、教室内をるんるん気分でクラスメイト達に次々と挨拶をして回る秋子さん。
 …はぁぁぁぁ。
 そんな秋子さんの姿を見て、俺達は揃えて大きく溜め息をつくのであった。







 ――程なくして授業は始まった。

 秋子さんが教師に当てられると、非の打ち所のない程の答えをしてみせてクラスメイト達を驚かせる。
 まさにパーフェクトの言葉が似合うこの人。
 そうして驚いている連中に向かって、にこやかにVサインを決める秋子さん。
 そんな秋子さんの様子に、俺達はただただ呆れるばかりだった。





 ――休み時間になる。

 秋子さんのハッスルな姿に俺は呆れて机に突っ伏していると…どうやら廊下の方が騒がしいようだ。
 気になって教室を出ると、生徒達が何かを囲むようにして立っている。
 俺はそんな生徒達の喧噪の中に割って入り、彼らの視線の集まる先を覗く。すると……
 猫の鳴き声とともに現れたひとつ物影……それは真琴だった。

「にゃ♪」
 真琴は俺の姿を見つけると、瞬く間に飛びかかって抱きついてくる。
「にゃーにゃー♪」
「お、おい真琴!?」
 真琴は俺にしがみつくと、とても嬉しそうにして肌を擦り寄せてくる。
 いったいどうしたって言うんだ? なんか頭に猫みたいな耳が生えているし、それにしっぽが……
 なんだか様子が猫のそれっぽいし……
 そんなことを思っている俺の目線の後ろで、ぎらりと一筋の視線を感じた。

 瞬間。
 びくっと俺の身体を電撃のようにほとばしる戦慄。
 おそるおそる振り返ると、そこには秋子さんの立つ姿。
 その表情は俺の知っている秋子さんのそれではなく、そこはかとなく放たれる雰囲気はまるで別人のそれであった。

「猫化のジャム…真琴にもどうやら成功したみたいね……」
 上顎に手をあてながら、考え込んでいる様子の秋子さん。
 すでに確保を済ませた獲物を眺める獣のような視線をして、ぼそりとそんなことを呟く。
 その視線はゾッとするほどに鋭く冷たい。
 俺はまるで蛇に睨まれたカエルのような錯覚をおぼえていた。
「そういえば、祐一さんにはまだ効果が現れていないわね……」
 視線を横目に逸らし、秋子さんがそう言葉を続ける。
 えっ、今なんて……?
「調合は失敗だったのかしら…?」
 心底残念そうに舌打ちを鳴らし、秋子さんはそのままどこかへと去っていった。
 …あの、今のはすごく気になるんですが。秋子さん?

「にゃ〜♪ にゃ〜♪」
 ……とにかく、この真琴を何とかしないとな。
 俺は真琴の身体を引き剥がそうとする。
 が。強い力で抱きつかれていて一向に離れてはくれない。
 それに真琴を引き離そうとすると、真琴はうるうると涙を浮かべてくる。

 …結局。
 どこからともなく猫じゃらしを持って現れた天野が到着するまで俺は、この猫と化した真琴に為すがままにさせられていた。







 ――昼休み。

 俺はとぼとぼと力無く廊下を歩く。はっきり言って疲れた。疲れ切っているんだよ。
「あっ祐一さん。こんにちは」
 そういって俺に明るい挨拶をしてくれたのは栞だった。
「あ、ああ…」
 疲れ切った表情で挨拶を返す俺。

「…祐一さん? どうかなさったんですか?」
 そんな俺を気遣って、優しく言葉をかけてくれる栞。
 あぁ…この荒涼にすさんだ今の俺の心をあたたかく潤してくれるお前は、まるで天使のように見えるよ。
 OH、マイスィーティー。ユーアー、マイエンジェル。
「…けっして無理をしないでくださいね?」
 あぁありがとう。ありがとうさ栞っっ。
 栞の言葉に俺は、漢泣きにむせびながらこの意味不明な感動に打ちふるえていた。
 などと、俺はおバカなことをやっていると。



 …どくん。
 !?
 程なくしてひとつ、俺の心臓が爆ぜるような大きな音を立てて鳴り響く。
「くっ…?」
 心音がドクンドクンと、まるでその音が直接耳に聞こえるかのようにして高鳴っている。
 どう考えても、普通とは思えないこの状態。
 俺の身体は思わず、前のめりによろめき膝をついてしまう。
「だ、大丈夫ですか。祐一さんっ!?」
 突然訪れたこの立ち眩みに栞が慌てて俺の方にかけよってくる。
「あ、あぁ…大丈夫だぞ」
 栞を心配させまいと、空元気に返事を返す俺。
 その瞬間。
「ぁ……」
 くらりと、栞が一瞬よろめいた。
 倒れそうになる栞の身体を俺はとっさに抱きかかえる。
「おい、どうしたんだ栞?」
「………」
 俺は栞に問いかけるが返事はない。
 やがて絞るような声で栞は何かを呟きはじめる。
 それに俺は耳をそっと近づけてみると。

「…祐一さん、素敵です……」
 え?
 いきなり場違いなセリフを言い放ち、俺の胸に両手をまわしてくる栞。
「おい、いきなりどうしたんだ栞?」
「そんなことを言う人、嫌いです…私をこんなにしておいて……」
 どうも栞の様子がおかしい。
 上目遣いに俺の顔を覗き見る栞の表情が、それを如実に物語っている。
 その頬は紅く上気していて、途切れ途切れに伝う栞の荒い吐息が俺の胸に熱く吹きかかる。
「どこか具合でも悪いのか? それなら保健室に…」
「違うんです…でもダメなんです。どうしてそうなのか、でも私……」
 ???
 まったく訳の分からないことを言う栞。
 そんな彼女の様子に俺は狼狽えていると……
「…」
 廊下の奥から、二人の見知った女性が現れる。
 それは舞と佐祐理さんだった。

「…祐一。どういうこと?」
 最初に口を開いたのは舞だった。
 無理もない。
 成り行きとはいえ俺は今、ただならぬ状態の栞に抱きつかれ、互いの身体を密着させているのだ。
 俺の首筋にかかる栞の吐息。
 そんな現場を目の当たりにして、そのように思わないことこそ無理というものだろう。
 ただでさえ重いこの空気が、舞の言葉により一層の現実感を伴ってさらに重たくのしかかってくる。
 まさに絶体絶命。
 俺は目の前にいる舞に剣を抜かれ斬りつけられる姿さえ覚悟した。

「…その子だけ、ずるい」
 はい?
 舞から紡がれた次の言葉は、あまりにも意外な言葉だった。
 ずるい?
「…私もするの」
 そう言って舞は栞にならい、俺の腕をとって両掌で包み込むようにする。
「あははーっ。祐一さんはみんなのものですよ舞?」
 続いて佐祐理さんも何を思ったか、えいっと俺の首筋に手を回してだっこさんをする。
 あの…?
 今の3人は3人とも、どこか様子が普通じゃない。
 俺の胸の中で、夢見心地な目をして俺の顔を見つめる栞。
 俺の掌をじっくりと眺めながら、何かを呟いている舞。
 俺の肩にその躰を寄せて、ほぅと吐息を洩らす佐祐理さん。
 どのように呼びかけてもそんな3人の表情はうわの空、まさに心ここに在らずといった感じだった。

 そこに、どさどさと菓子パンの包みを床に落とす音と共に現れた人物。
「相沢…」
 それは北川だった。
 奴はどこか達観した表情で俺達の姿を見つめている。
 やがて北川は俺の空いた方の肩にポンと手をやって。
「…達者でな」
 それだけを言い残すと、北川は落とした菓子パンをひとつひとつ拾い上げ、俺の眺める視界の奥へと消えていく。
 その時の奴の背中はとても儚く寂しげで、まるで親友と訣別し孤高に暮れる男のそれであるかのように見えた。

「…祐一さんに食べさせたフェロモン効果のジャムも、効果てき面だったようね……」
 ふと廊下の陰から聞こえる、そんな声。
 冷たく、透き通るように響いた。
 振り向いた先に揺れる青紫色のロングヘアーには確かに見覚えがある。
 だが俺は、その人物の正体を確かめる術を持てぬままに立ち尽くしていた。











 ――それから俺はこの状態の栞や舞達をやっとの思いで振り切り、教室まで逃げ帰ることに成功した。
 そして俺は、教室で待つ(ちび)名雪や香里に相談を持ちかけようとしたが、
 二人とも「今はダメっ!」と、終始頑な態度で俺と目を合わせようともしてくれなかった。
 これもあの秋子さんが作ったジャムの効果なのか。

 昼休みが終わり、午後の授業の間中。
 クラスメイトの女達から一点に注がれる視線に怖いものをおぼえながらも、なんとか無事に放課後を迎えることができた。
 そして誰にもつかまらないうちに俺は全速ダッシュで帰宅の途についたのだった。





「…今日は、とてつもなく疲れたぞ……」
 自分の部屋に戻り、どかっとベッドに身体をあずける。
 気がつけば、身体中汗まみれになっていた。
 身体をさっぱりさせようと俺は、シャワーを浴びることにした。

 たっぷりとシャワーを浴びてさっぱりしたあと、俺は浴室を出る。
 居間にやってくると、秋子さんや名雪、真琴が帰ってきているところだった。

「祐一さん、ただいま」
「お、おかえりなさい秋子さん」
 秋子さんの表情はとてもにこやかだ。
 反して俺の表情は何か恐ろしいものを見るような貌だったに違いない。
「うにゅう…」
「あうぅ…」
 ソファーの上でぐったりと横になっているのが2人。
 名雪は今にも死にそうな表情で倒れ込んでおり、真琴はマタタビのような物ですやすやと眠っているようだ。
 しかし。
 まったく…今度はどんなジャムを食べさせてくれたんですか? と秋子さんへの問いの言葉を思うが先か。
「大丈夫よ。そろそろ効き目は切れる頃だから」
 まるで俺の心を読みとったようにして秋子さんが先に言葉を繋いだ。

 効き目? その言葉に俺が首を傾げていると。
 ポロリと。
 真琴の頭に付いていた猫の耳のようなものが落ちる。
 それに続いて名雪の身体もぐんぐんと元のサイズを取り戻していった。
 さっきから俺の身体を襲っていた心音の高鳴りもようやく治まってくれたようだ。



 …ふぅ。
 とりあえずはこれで一段落といったところかな?
 と。
 ………。
 あれ?
 なんだか俺の身体が重い。まるで突然貧血でも起こしたかのように。
 座り込んだソファーから一歩も動けないようだ。
 …相当疲れがたまっていたのかな?

「…あらあら、どうやら今回は失敗だったみたいね」
 秋子さんが落胆した表情を零す。

 え…今なんと?
 そう思ったときだった。
「!!」
 元の大きさに戻ったかと思った名雪の身体がそこで止まることなく、さらにぐんぐんと大きさを増してゆく光景が目に飛び込んできた。

 …え? …え?
 俺も名雪も、この異常な事態をただ為す術もなく眺めることしかできなかった。
「……副作用のこと、すっかり忘れていたわ」
 はぁ。と大きく溜息をついて、秋子さんが居間を立ち去っていく姿。
「わわわ。なんなの、なんなの〜??」
 そして、名雪の身体のサイズが部屋全体を覆う大きさまで達したその光景を目に焼き付けた瞬間を最期に。

 ぷちっ。
 俺の意識は、そこで完全に途絶えるのであった。



−END−


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