――今日もボクは、たい焼き屋のおじさんから逃げていた。

 おじさんに捕まらないように、精一杯にダッシュしながら街道を駆けている。
 ボクがおじさんから逃げなければいけない理由は…そう、ボクが両手に抱えているこの紙袋。
 中にはできたてのたい焼きが4匹入っている。
 おじさんのお店でたった今作られたばかりのたい焼き。
 紙袋からは、とても美味しそうな匂いがあふれ出していた。

 すごく分かりやすく言うと、今日もボクは食い逃げをしているんだよ。

「待てー、今日こそは許さないからなー!!」
 おじさんは丸めた新聞紙を片手に、息を切らせながらボクのことを追いかけてきていた。

 ボクだって、食い逃げはやっちゃいけないってことぐらい分かってる。
 けど…どうしても、たい焼き屋さんの前にやってくるとその香ばしい匂いに釣られて、条件反射で食い逃げをしちゃうんだよ。
 …だって美味しいんだもん。
 今日こそちゃんとお金を払って買おうと思ってたい焼き屋さんの前にやってくるんだけど、だけどポケットにはいつもお財布が入ってなくて。それでもボクはこの食欲を抑えきれないから、ついつい食い逃げをしてしまう。

 たい焼きが食べたくなって、でもお金がなくて、おじさんを騙して、たいやきの袋を持って逃げ出して。
 すっかりそれがボクの習慣になっていた。
 これで何度目なのかも分からなくなるくらい、ボクはこんなことを繰り返していた。



 たったったったったっ――――

 2つの足音が、慌ただしく商店街の喧噪の中に響いている。
 おじさんに捕まらないように逃げているボクと、ボクを捕まえようとして追いかけてくるおじさん。
 すごく、目立っていた。
 商店街を歩く人、みんながボク達のそんな姿に振り向いている。
 中にはボク達のことをすっかり憶えている人もいて、「またあの二人か」って顔をしながら、くすくすと笑われている。
 …うぐぅ、すごく恥ずかしいよ。
 でも、おじさんはもうすぐそこまで来ている。
 とてもそんな事を心配している余裕なんてなかった。

「…あっ」
 ボクは道端の石に躓いてしまった。
 弾みで身体のバランスを崩して、そのまま顔から地面に向かって激突してしまう。
 うぐぅ、痛いよ。お鼻がじんじんするよ〜。
 そうやってボクが真っ赤になったお鼻をさすっていると、そのすぐ後ろには――

「ようやく捕まえたぞ。おとなしく観念するんだな、この食い逃げ娘」
 ――とうとうボクは、たいやき屋のおじさんに捕まってしまった。



「うぐぅ…このままボクを警察に突き出しちゃうの…?」
 おじさんに捕まってしまったボクは、ふるえる声でそんなことを訊いていた。
 正直言って、おじさんの顔を見るのが怖かった。
 おじさんの返事を待つボクは、思わず警察の牢屋の中でひとり泣いているところを想像してしまう。
「…いや、それより先にお嬢ちゃんにやってもらいたいことがあるんだ」
 そう言って、次におじさんがボクに向かって言った言葉は、ボクをとても驚かせることだったんだ。






たい焼き屋、あゆ
 

原作:Kanon ©Visualarts/key






「ということで、さっそくだが…」

 ――いつもおじさんがたい焼きを作っている屋台。そこにボクは連れてこられた。

 ボクの目の前には、小麦粉や卵といった材料や、たい焼きを作るための道具が一式、並べられていた。
「まずは、この小麦粉とベーキングパウダーを水で溶いてから…」
 おじさんはたい焼きを作りながら、ボクにその作り方の手順を説明している。
 いったいボクに何をしろって言うんだろう?
「ほらお嬢ちゃん、なにをモタモタしてるんだ。おじさんと一緒にやりな」
 今度はボクの手をとって、たい焼きを作る道具を手渡してくれる。
 言われるままに、小麦粉が溶けたボールの中に卵を落としてかき混ぜているボク。
 カシャカシャカシャ……

「…ねぇ、おじさん」
「なんだいお嬢ちゃん?」
「…これって、ボクにたい焼きを作れって言うことなの?」
「ん? ほかにどういう意味に聞こえるんだ?」
 どうやらそういう事らしかった。



「衣を泡立てないように、そーっと流し込んで…」
「そうそう、その調子だ」
 おじさんの教え方に従って、ボクはたい焼きの衣を型に流し込む。

 ――型にコンロで火を通しながら、そうして待つこと数分間。
 ボクはおじさんに言われたとおり衣の上に餡を乗せ、両開きになっていた金型を閉じて、また待つこと数分間――

「…よし、そろそろ出来上がりの時間だ。お嬢ちゃん、型を開けてみな」
「う、うん…」
 ボクはおそるおそる型を開けてみる、すると。

 …あれ?
 たい焼きがすっかり黒くなっていて、所々が焦げ付いてしまっていた。
 中には形が崩れて中身がボロボロになってしまっている物もある。
 あれ? あれ?

「おいおい、型にはちゃんと油をひいたのか?」
「え…?」
 言われてみて、はっと気がついた。
 そういえば、金型に油を引いてなかったっけ……
「あちゃあ…」
 おじさんは顔に手をやりながらすっかり呆れてしまっていた。

「ほらまた違う。お嬢ちゃん、ここはだなぁ……」
 おじさんの教え方は凄く厳しかったけど、それでも出ていけと言って投げ出さず、失敗するたびに何度も何度も熱心に、おじさん はボクにたい焼きの作り方を教えてくれていた。
 そしてやっと――
「…よし、上出来だ。これなら店先に出しても恥ずかしくないぞ」
 ボクはおじさんに褒めてもらうことができた。



 ――今日は、お昼からたくさんのお客さんがやってきていた。

「へい、たい焼き8匹追加だお嬢ちゃん!!」
「う、うんっ!」
 商店街の一角で、駅もすぐ近くにあることから街の中でも特に人通りが多く、たい焼きを作っても作っても次から次へとお客さんがやってくる。もう休む間もないくらい、忙しかった。
「――ふぅ、」
 陽が沈みかける時間になって。ようやくあの忙しさから解放された。
 ボクもおじさんも疲れてすっかりへとへとになっていた。

「よく見な、お嬢ちゃん」
 言っておじさんは、ボクに視線を促す。
 おじさんの向けている視線の先…そこにはたい焼きを美味しそうに食べている子供がいた。
 その子はたい焼きを食べながらとても嬉しそうにしている。
 …うぐぅ。
 お腹が空いたなぁと思いながら、ボクはその子がたい焼きを食べている姿を見ていた。

「お嬢ちゃん」
 声に視線をおじさんに戻すと、おじさんは不意に遠い目をしながらボクに話しを始めた。
「おじさんも子供の頃からたい焼きが好きでね。もらった小遣いでたい焼きを買って食べるのがあの頃の楽しみだったんだ」
「うん」
 ボクにその話をしている時のおじさんの顔は優しかった。
 まるで自分の夢を語る少年のように、その目が生き生きと輝いていた。
「でも子供のお小遣いだけじゃ、買えるたい焼きもほんの少しだけしかない。だから今のお嬢ちゃんみたいな事をしていたこともあったのさ」
「それって、おじさんも食い逃げをしてたってこと?」
「ああ、そうだよ。ある日その店のおやじさんに捕まったときは、それはもうこっ酷く叱られたもんさ」
 おじさんはいたずらっ子がそうするように、鼻柱を指先で掻いていた。
「その時を境に、たい焼きに対する思いが益々強くなってね。気がつけば、自分でたい焼きを作りたいと思うようになっていた」
「たい焼きを食べてくれる人がいる。食べてくれる人ひとりひとりが喜んでくれる顔が見たくて、おじさんはこのたい焼き屋を始めたんだ」
「……」

「どうだいお嬢ちゃん。おじさんがたい焼きを作っているわけがわかったかい?」
「うん…」
 おじさんの話を聞き終えたとき、ボクは自分のことが恥ずかしくなってうつむいていた。おじさんの顔をまともに見られなかった。
 どうしてボクはこんな事をしていたんだろう…って。
「ごめんなさい。ボク、今まで食い逃げばかりしていて、おじさんがたい焼きを作る情熱を踏みにじってしまってたんだね」
 ボクはひどく馬鹿なことをしていたんだ。
 いくらボクがお腹が空いていたからって、食い逃げばっかりしていて、たい焼きを作っているおじさんの気持ちを全然考えていなかった。今になってやっとそのことに気がついて、ボクは顔から真っ赤な火が出そうになっていた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい…」
「ははは、分かってくれれば良いんだよ」
 おじさんはそう言って、ボクの頭を優しく撫でてくれた。

「おじさん、今までボクが食い逃げしてきた分のお金は、後でちゃんと払うから…」
「なぁに、そいつの分はお嬢ちゃんのバイト料からきっちり引かせてもらってるよ」
「え…?」
「ほら、これはお嬢ちゃんが頑張ってくれたご褒美だ」
 言っておじさんはボクに一枚の封筒を渡してくれた。
 ボクはその封筒の中を開けてみる。
 いち、にぃ、さん、…
 と、千円札が5枚も入っていた。

「こんなに…いいの?」
「ああ、お嬢ちゃんのおかげで今日はここまで繁盛したんだ。何も言わずに受け取ってくれ」
「うん…」
 おじさんからの感謝の言葉。おじさんはボクの頭をもう一度撫でてくれた。
 目の前が滲んでよく分からなかったけど、その時おじさんがボクに向けてくれた表情は、きっととても暖かい笑顔だった気がする。

「…おじさん、今日は本当にありがとう」
「ああ。うちのたい焼きが食いたくなったらまたいつでも来てくれ。うまいたい焼きをごちそうしてあげるよ」
「うん、そうさせてもらうね」
 ボクはたい焼き屋のおじさんと手を振って別れた。





 ――夕暮れの空から差し込んでくる陽光が眩しかった。
 赤色に焼けた商店街の景色の中で、ボクは別れ際、おじさんからサービスでもらったたい焼きを頬ばりながら、おじさんと一緒にたい焼きを作っていたことを思い出していた。
 おじさん、もうボクは食い逃げなんかしないよ。本当にゴメンね。
 そしておじさんの作るたい焼きが、ボクはもっともっと好きになれそうだよ。

 今日食べるたい焼きは、いつも食べているたい焼きの味よりも何倍も美味しかった。


fin.


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