夜天剣舞外伝 『吉野家リベリオン』
原作:Kanon ©VisualArt's/Key
Written by あると
夜天剣舞外伝 吉野家リベリオン 〜牛丼復活編〜
初めに丼(どんぶり)があった――――。
灼熱の丼は冷えて、
大盛りとねぎだくとギョクを創った(=タマネギ多め、肉少なめ)。
牛丼に対する情熱。日進月歩のたゆまぬ努力。
時が無数の牛丼を育んだ。
ある時には神と褒め讃えられ、
ある時には魔と忌み恐れられた。
いつしか牛丼屋が大地を支配した。
牛丼の調理技術が絶頂を向かえ、宇宙を目指したころ。
その異変は起こった……。
――――俺は昨夜の晩、そんな悪夢に魘されていた。
『朝〜。朝だよ〜。朝食を食べる前に私をお……』
毎度毎度。お馴染み恒例の目覚ましのアラームが聞こえてくる。ふああ。
妙にアツい夢を見ていたせいで目覚めがすこぶる悪い。名雪の声が吹き込まれた目覚ましのアラームは相変わらずだ。目覚ましになるどころか、逆に気合を入れないと即二度寝をキメてしまいそうな、眠気を催すニュアンスの声音。のっけから起きる気になって起きないと、逆にさらに深い眠りの中に囚われてしまう。
その意味において、名雪のアラームは最高の目覚ましになるのかもしれないのだが。
…………。
…………。
……zzz。
不覚。
コンコン。
「祐一。起きてる〜?」
コンコン。コンコン。
「起きてるなら返事をして〜」
コン。コンコン。コンコンコン。
「うー。いないのかな……」
……ガチャ。
「祐一? 入るよ〜?」
てくてくてく。
「うー。もう朝の9時を過ぎてるのにまだ寝てるよ祐一〜」
ゆっさゆっさ。
「起きて起きて〜」
ゆっさゆっさゆっさゆっさ。
「全然起きてくれないよ。困ったよ〜」
ゆっさゆっさゆっさゆっさゆっさゆっさゆっさゆっさ。
「うー。世話が焼けるよ祐一は〜……」
「朝だよ……祐一……早く……よ〜……」
ったくうるさいな……。目覚まし時計相手に八つ当たりしても仕方ないんだけど。
あんな夢を見て寝覚めが悪かったせいか、妙に意識が覚めない。それに心なしか、俺の身体が揺さぶられているような気がするんだが、それほど気になるレベルでもない。
ベッドから起きようとする気合よりも、泥の中に沈んでいくような眠気のほうが勝っているからな。
そう。あと五分……。五分でいい。
もう少しだけ俺を寝かせておいてくれないか。
「………うーうー……起きて……早く〜……」
本当にうるさいな。目覚まし時計のくせに。そんなに俺の身体を揺らすな。
……もっとも、鸚鵡返しに同じ音声を繰り返すだけの機械にいちいち文句を言っても始まらないが。
ループする何巡目かの声で俺は、目覚ましに向かって物ぐさに手を伸ばした。
ごそごそ……。……ふにっ。
「……あ」
伸ばした手が柔らかなしこりに触れる。
なんだろう、この掌に跳ね返る手触りは……柔らかいが、妙に張りのある感触だ。
「ゃ……ぁっ……」
立体的な質感を帯びた弾力に手の力を加えて動かすたび、甘い声が断続的に漏れ聞こえてくる。俺の部屋の中に、こんな柔らかい物体なんてあったっけ。
……それにしても、目覚ましのスイッチはどこにあるんだ……?
ここか?
ふにゅっ。
「あふっ」
うん? じゃあここか……?
むにゅむにゅっ。
「……ふぁっ? あっあっやっ」
ここでもない。おかしいな。
ふにふにっ。
「ちょ、祐一。やぁそこ違……んっ!」
違うのか。じゃあ目覚ましのスイッチはどこにあるんだ。
ここでもないな、ここでもない。
「そんなに、ぁ、ひぁっやっうっうぅん。あっ激しく……やっあはっ。うぅ動かさない、で……ぇ……ぁぁ。ひゃふんっ」
もう完全に手探り状態だ。
眠くて目が開かないから、こうして虱潰しに探り当てるしかない。
くそ……。マジでスイッチはどこだ……。
「はぁっ、はぁっ。はぁ……祐一ぃ……」
しかしなんだろう。さっきから断続的に聞こえてくる息切れみたいなのは。……はぁはぁ?
漏れ聞こえる声と一緒に熱っぽい吐息が吹きかかってくる。最近の目覚まし時計には息切れする機能でもついているのだろうか。いったい何のために……? この時計を作ったやつの意図が俺には理解できそうにないぞ。
「ダメだよ。もうこれ以上……あんっっ」
それは激しくありながら、なにかをこらえるような声音。
目覚まし時計のクセにやけに扇情的なそれ。
確かにアラームの音声は結局最後まで聞いたことなんて無かったが、寝惚け眼にくわえ胡乱にまどろんだ頭では、その真意を汲み取るにはおおよそ不十分だった。
「だめ。だめぇ……」
時計のアラームとしてセットしてあるのは名雪の声だ。なぜならばこの目覚ましは名雪から直接手渡された物なのだから。そして俺の耳に聞こえている声もまた……名雪のもの。
スイッチを押すコトさえできれば。名雪の声を発するあの物体は完全に沈黙する。
それは間違いない。その瞬間に到達したその時こそ、俺は完全なる勝利を収めるコトができる。
今日という日の朝を勝ち取る。勝ち取ってみせる。ならば持てる力の全力を以って俺は、清々しく布団から起きてみせよう。よし。
そのためにもまずは目覚まし時計のスイッチの位置を正確に探り当て、完全に沈黙させてみせよう。それこそが本作戦の意義の基礎にして究極の集約。
眼前の目的を達成するために自ら費やす峻厳なる努力に、いったい何の問題があるというのか。いやない(反語)。
「あぁ、はぅ……いや、ぁ。らめぇ……わたし、もう…………」
なおも鳴りやむことを知らない目覚ましの音。むしろさっきまでに増して一段と酷くなっている。掌を動かすたび、熱を帯びた目覚まし音は艶かしく俺の耳朶を打ちつけている。
そんなに俺にスイッチを押されたくないというのか。
ふざけるんじゃないぞ。
そんな悩ましい声を出したところで、この俺が誤魔化されたりするものか。このやろう。
そう。俺は漢、相沢祐一。……よし。
こうなったらもう意地でもスイッチを押してやる。押して押して押しまくってやる。
しかし、敵はあくまで強硬姿勢だ……。埒が明かないので少し強めに力を入れてみる。
ぎゅむっ。
「ひぁ、あぁああぁあっああぁ…………っっんんんんん!!!!!」
会心の一撃。明らかにいままでとは手ごたえが違っていた。
敵はひときわ高く叫びをあげ、そのまま沈黙する。
その姿を肉眼ではハッキリと見て取れないが、目蓋の向こうにある目覚まし時計がビクンと大きく跳ねた気がした――――その時。
がしっ。
突如。目覚まし時計から伸びた二本の手に俺の腕はがっしりと掴まれた。とっさに振り払おうとするが、その両手は一向に解ける気配を見せない。目覚まし時計のクセに生意気だぞ。……そういえば目覚ましに手なんて生えてたっけ。などと気にする間もなく。
「…………」
目覚まし時計がやがて力を取り戻したように俺の腕に力を籠め、がっしりと掴まれた腕がゆっくりとある場所へと導かれていって。掌が何かの物体の上に被さり、そのまま下方向へと力が加わる。
カチリ。
と。聞きなれた硬質な音が耳に届く。
…………ふぅ。ようやく止まってくれた目覚まし時計。さっきまで聞こえていたアラーム音がまるで嘘のよう。
これでひと安心。作戦通り、完全勝利の瞬間だ…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
「ふぁあああ……」
ゴシゴシと目を擦り、かぶりを振りながら俺はゆっくりと身体を起こす。
「……祐一」
ん? ああ……。そこにいるのは名雪じゃないか。なんだ、わざわざ部屋まで俺を起こしに来てくれたのか。
どういう風の吹き回しか。最近になって名雪のやつ、俺が起きるより少し早い時間に起きてくるようになった。とはいっても。それと引き換えに夜の就寝時間がだいぶ早まってしまったらしく、差し引きマイナスになっているわけなんだが。
「ああ。おはよう……」
「……うにゅ」
俺は名雪に挨拶の言葉を口にする。だが当の名雪は目の前で気恥ずかしそうに真っ赤な顔を背けている。心なしか視線が遠く泳いでいた。
普段の名雪とはどこか違う、奇妙な違和感を感じた。
「むー……」
名雪はとても不機嫌そうな顔をしていた。胸元を両手で押さえ、まるで何かから避けるようにガードしているよう。名雪のヤツ。熱があるのなら布団でゆっくり休んでいればいいのに。
「……もう少し、優しくしてほしいよ」
ぼそりと聞こえた。
??
だが俺にはその意味がまったく解らなかった。
「…………」
些かの間逡巡していると、名雪はもっと機嫌そうに拗ねてしまった。その意味を汲み取ってくれとでも言うように。
うーん。そんな顔をされてもな。俺にはまったく身に覚えがないのだから仕方がない。
「気持ち……よかった?」
??
不意に変なことを訊ねてくる名雪。
言っておくが、俺には目覚まし時計のスイッチを押す行為を気持ちいいと感じるような趣味は無い。
だから俺はキッパリとそう断言した。
「うぅ……」
そのまま名雪は口を噤んでしまった。
俺はなにかマズいことでも言ってしまったのか。
…………。
…………。
しばらく考えてはみたものの、結局最後まで分からなかった。
「そ、それよりも祐一。川澄先輩が一階で待ってるよ?」
……ぐあ。そうだった。今日は舞とデートする約束をしていたんだっけ。
「せっかく家に来てもらったのなら、舞に起こしてもらえばよかったかもな」
「わわ。それはダメだよ祐一っ」
?
冗談のつもりで言っただけなんだが。
名雪は突然慌てたようにわたわたしている。いきなりどうしたんだ。
「だって……だって……うー」
「いくら祐一にいい人が出来たからって、毎朝祐一を起こすのはわたしの役目だもん……」
消え入るような声でぼそぼそと呟いていた。
「ん? 何か言ったか名雪?」
「……え? あ……なんでもないよ」
まだ少し眠気の残る頭で、どうしてそんなに慌てているんだろうと思った。
……そうだ。舞を一階で待たせているのなら早く着替えないとな。
俺は急いで身体を起こすと、寝間着をテレビで大活躍中の怪盗三代目よろしく、マッハの速度で着替えを済ませることにする。
「うぅ……」
「ん? どうしたんだ名雪?」
「どうしたじゃないよ……」
名雪は、まるで内圧の高まった内燃機関がいまにも高熱の蒸気を大気に向けて噴き出すような目で俺を見ていた。
「わたしがまだお部屋の中にいるのに、デリカシーがないよ祐一は」
別に。名雪と俺とは血の繋がったいとこ同士なんだし、ガキの頃から知ってる仲なんだ。
今更そんなに恥ずかしがるコトはないじゃないか。
「祐一にとってはそうでも。わたしにとってはそうじゃないんだよ……」
??? 名雪の言うことは時々要領を得ない時がある。
ちょうど今の名雪がそれに該当する。
いったい何がどう違うというのか。首をかしげていると。
「うー。祐一にはもう少し、女の子の気持ちを分かるようになってほしいよ……」
云って名雪は慌てるように部屋を出て行ってしまう。
……本当にワケが解らなかった。
着替えをすませ、階段を下りてリビングに向かうと、そこには牛丼づくしの夢なんてモノを見せつけてくれた元凶……いや俺の彼女。舞が家に迎えられ、ソファーに座ってゆったりとくつろいでいた。
…………。
改めて見ると、舞はとても綺麗な女性だと思う。
佐祐理さんの見立てなのか。おしゃれでありながら大胆に決まった服装は舞のよさをうまく引き出していると思うし、魔物との戦いの日々に追われてそういうことに気がつく余裕もなかった俺だけど、平和な日常を取り戻した現在になって見ると、あの頃とは色々と違った側面が見えてくる。……あの頃と比べて、舞も随分と魅力的になったものだ。
「よう」
「…………」
俺の姿を認めると、しゅたっと手をかざして目配せをしてくれるのは舞流の挨拶というものだ。
舞は黙々と、皿に盛られた柿ピーをボリボリと噛んでいた。これはあいつが水瀬家に遊びに来るたび、必ず食べている食べ物のひとつ。
「けっこう待たせてすまなかったな」
「……(こくこく)」
別に構わない。という意味なのだろう。
舞とは多くを語らずとも想いを通じ合わせることが出来る。
これも俺たちの長い付き合いの賜物、以心伝心というやつだ。
……。
「祐一〜っ!」
どしん。
間髪いれず。真琴がダッシュで駆け寄るとそのまま抱きついてきた。
構える準備も体勢も取れないままで抱きつかれたので、俺の足元が思わずよろめく。
「おいおい真琴。朝っぱらからいきなり抱きついてくるなよ」
「いいじゃないのよう〜! 秋子さんだって言ってたもん。こういうのが「すきんしっぷ」ってやつだって!」
スキンシップか。確かにこういうふれあいも、家族として大切なことだな。
……真琴については、こいつが一人前に成長するまで、俺に出来る限り面倒を見てやろうと思っている。いま正にそういう年頃だから仕方がないコトなのだろうけれど。俺の目から見ると、どうもそういう子供っぽさが抜けきってないようだ。最近になっても、夜になればたまに俺の寝ている部屋に悪戯をしにやってくるし。いつまでも抜け切らない幼稚さというのは、兄貴分としてはどうしても心配の域を出ないものだ。
しかし真琴ももう充分に女の子だ。そろそろ兄貴離れしてくれてもいいんじゃないか? などと思ったりもするわけだ。
「祐一は今日も舞さんとでーとするんでしょ? 真琴には全部お見通しなんだからねっ」
こんな感じで。
まだ俺たちが夜の学校の校舎で戦っていた頃。昼休みに屋上手前の踊り場で佐祐理さんが作ってくれた手作り弁当をつついていたり、二人っきりで過ごした夜のこと。俺と舞が何をしていたのかとか。
コトの次第を根掘り葉掘り訊いてきたりもする。
真琴が俺に甘えてくれる分には兄貴分として嬉しいコトには違いないけど、あんなコトからこんなコトとか男として答えにくい部分まで遠慮なく訊いてくるものだから思わず。
ごちん。
と。俺は真琴の頭を小突いてやった。
「痛ったーい。何するのよぅ!」
「お子様がマセたことを言うからだ」
「あたしはもう立派なオトナよう!」
「お前にはまだ3年早い」
「あぅーっ。見てなさいよ。今に祐一をギャフンと言わせるくらいイイ女になってやるんだから!」
「ははは。そんな日がくるのを楽しみに待っているぞ」
「う〜〜っ! 祐一ぃ、覚えてなさいよう!!」
うーうーと唸り声をあげている真琴の頭を俺はクシャクシャと撫でてやった。
「…………」
俺たちのそんなやり取りに舞が視線を向けていた。傍から見てもどこかピリピリとした感じを帯びた視線。
「な、なによう……」
その視線を受けた真琴は、恐る恐るも気丈に舞からかけられた視線を見返す。
「…………」
じぃ。と舞の視線は変わらない。
一度口を開けば、まるでマシンガンの如く怒涛のお喋りを展開する真琴――――そして、普段から口数は少なく寡黙で物静か。清流の如くあまり自分からは物事を語らない舞。
そんな二人のパーソナルスペースは、しかし双方の重い沈黙によって拮抗しあっていた。
空気がなんというか。重い重い重力を感じる。激しくグラビティ。
とでも言うかむしろ、交錯する視線と視線とが化学反応を起こして火花を散らしあっているかのようで。それはもう指先の挙動やら空気の振動から森羅万象津々浦々に至るまで、あらゆる一切の異物の介入をも許さないかのような絶対フィールド。――――その沈黙を、破るように。
「……何?」
先手を仕掛けたのは舞だった。
ぼそりと。
何気なく言ったはずの舞のそんな一言に、真琴のゲージは瞬く間にマックスの上限にまで跳ね上がる。
「な……な……な……」
いまの言葉の中に、真琴にとって何らかの琴線に触れるものがあったのだろう。導火線に火が灯りだすように、身体の裡にある何かを絞りだすように真琴は声を出す。
「……あたしは祐一のっ。祐一のぉおぉおおぉ…ッッ!」
「…………」
絞りだす声。
精一杯の想いを籠めて紡いだ言の葉は、それだけで自らをも奮い立たせるものだ。
真琴自身ここまで来たらもう。後に引くことなどできないのだろう。
根底に直情径行な気質を持つ真琴のコト。
言葉を継げるしかない。言い出した言葉には決着をつけなければならない。
そう。思っていたに違いない。
「……」
そういって声を絞り上げようとする真琴の表情を見、舞は些かの間を逡巡したあと。まるで興味を失くしたようにテレビに向き直りながら柿ピーを口中に放り込む。
二拍ほどの間を開けて。
「祐一の……可愛い妹さん」
「っ!」
瞬間。真琴が息を呑んだ。
“妹”という単語を真琴が耳にした瞬間。真琴を含む周辺の空間一帯がそこだけ摂氏マイナス196℃の液体窒素をかけられたように真っ白に凍りついて固まった。
「あ……あぅあぅあぅあぅ…………」
液体窒素に浸された中にあって、それでもなお激しき火気を欲する爆発物のように。真琴は返す言葉を探していたが、しかし相手は爆発物処理のプロも御用達の液体窒素。なまじ即席の爆弾程度では太刀打ちなど到底できようはずもない。
…………。
…………。
突然に訪れた修羅場の予兆だったはずの空気は――――こうしてあえなく決着した。
「……」
すっかり激情の捌け口を見失ってしまった真琴は、わんわんと泣きながら名雪に慰められていた。
「……ぽりぽり」
寡黙な性格の舞の事。
決して悪気で言った訳ではないはずだ。それは俺があいつの代わりに保証してやってもいい。
おそらくは言葉の続かない真琴にフォローを入れるつもりで言った一言だったに違いない。
ただ直感的に選んだ語彙によって組み上げられた必要最低限の言葉で物事を言うものだから、聞く相手によっては激しく誤解を招くことになる。もとい、正しくは「必要」の条件さえ満たしきれてないわけなのだが。
「くやしいっっ!!」
もともと何事にも熱くなり易い気性の真琴は、舞の言った言葉の意味を表面上でしか捉える事が出来ず、言葉尻の裏に隠された本当の意味をしっかり噛み砕くことなく意識だけがヒートアップしてしまう。
本人に直接言うと怒るのでまだ言わないままでいるが、はっきり言って真琴はまだ見た目も中身も子供で精神も幼く、自分自身の気性の制御の仕方というものを知らない。
自身その怒りの意味さえ解らず。激昂した意識だけに身を任せたまま、真琴は柑橘色のツインテールをふるふると揺らしながら、カーペットの上で地団駄を踏んでいた。
「……ぽりぽり」
熱の籠もった視線に対して一方。テレビを鑑賞しつつ澄まし顔のまま柿ピーを口々に放り込む舞。
そんな舞の姿を見た真琴はますます泣き顔を晴らしてしまい、より深く名雪の胸に縋りついた。
「ほら真琴。そんなに泣かないの。よしよし」
「あーん。あたしの気持ちを解ってくれるのは名雪と美汐だけだよう〜〜〜!!!」
「あらあら」
そんな彼女達の様子を見て、頬に手を遣りながら微笑む秋子さんだった。
しかし。真琴のヤツはどうしていつもいつも、舞に向かって喧嘩腰につっかかっていくのだろう。
少しは仲良くすれば良いのに。
俺は彼女達のそんな様子を見るまま。舞の座る向かい側のソファーに腰かけることにする。
「…………」
あふれんばかりの感情の渦に真琴は堰を切った。
ゆっくりと名雪の胸元を離れると、ゆらめく炎が突然燃え上がるように喧嘩腰になって舞に戦いを申し込む真琴だった。実力行使ときたか……過去、俺の寝首を掻きにきていた時のように舞に挑みかかる。
だが結果は歴然だった。
運動神経と反射神経において真琴では舞のそれに及ぶはずもなく、そのたびに舞に軽くあしらわれる真琴。
ひょいっ。ひょいっ。ひょいっ。ひょいっ。
そんな擬音が似合いそうであった。
…………。
無尽の攻防(?)の中。舞は真琴の隙を見ては口元に柿ピーを放り込んでいた。
なんていうか……余裕だ。
狩人の間合いで舞に向かっていく真琴。それを軽くあしらう舞。おろおろしながら二人の間に入ろうとする名雪。相変わらずマイペースな秋子さん。どっちも相手が憎くてやっているわけじゃないし、いつものことだとスルーを決める俺。
そんな俺達の様子を秋子さんは終始、「あらあら」「まぁまぁ」と。にこやかに微笑みながら朝のティータイムを楽しんでいた。
――――――――。
――――――――。
こうして慌しくも華やかな朝を迎えた俺達。
充分にくつろいだ所で俺は、舞と一緒にデートに出かけることにした。
――――外はすっかり残暑も麗らか。秋の訪れを感じさせる空だった。
静かで閑散とした小路をゆっくりと歩きながら、俺達は前もって約束していたある場所へと向かう。
「……本当は徹夜したかった」
即売会の徹夜組じゃないんだから。
「携帯食と寝袋も用意する」
しかも食料や寝ぐらも常備するとは装備も本格的だな。
野営準備はバッチリかよ。そんな無理に前日の徹夜をしてもかえって逆効果だと思うがな。
身体だってもたないだろうし、下手をするとスタッフからペナルティを課せられる事だってあるんだぞ。
最悪……以降の出入り禁止とか。
「徹夜で並ぶのって、いけないことなの?」
当たり前です。年頃の女の子が行列に徹夜で並ぶなんて無茶をするんじゃありません。
ホルモンが正常に行き渡らなくなるし、せっかくのイイ女が台無しになってしまう。
その上、どこの馬の骨とも知らない野郎どもの邪な視線に晒されて。それどころか柔肌に直接手を触れられる危険だってあるんだ。いくら腕に覚えのある舞だからといって。そんな暴挙は総合的に見て……というか、要素ひとつひとつを鑑みても、彼氏として絶対に認めるわけにはいきません。
「…………」
まったく。こんな舞を見ていると時々、あの日こいつと一緒に誓った星空に前言撤回を求めたいと思うことがある。過ぎ去った時間を巻き戻すことが出来るのなら、俺は舞と一緒に夜空を見上げたあの日に戻って――そう。それは魔物との戦いも終焉を迎えて数日が過ぎ、たった二人きりで語り合った夜のことだ…………。
「ようやく魔物との戦いが終わったな」
「……長かった」
「ああそうだな。本当に長かった……」
「…………」
いま思い返しても、あの夜のことは昨日のコトのように覚えてる。
「なあ……舞」
「……?」
「舞はこれから、やってみたいコトとかあるか?」
「牛丼が食べたい」
一秒で返ってきた。全然決まらないセリフだけれど、それがある意味でもっとも舞らしい返事。
……そこまではよかった。
――――。
ふたりで見上げるこの夜空は美しかった。
バイオレットのスクリーンに浮かぶ星々が燦然と煌めく、十六夜月夜(いざよいつきよ)。
若い恋人同士。
月夜の星空の祝福に彩られながら、愛や誓いを語らうにおあつらえ向のこの黄昏時に……遭えて食い気を詠う少女なんて。世界中どこを探しても舞くらいなモノだと思う。
よくもまあ俺も、舞の彼氏としてよくやっていると思うよ。……惚れた弱みってヤツなんだろうな。
…………。
まあ。
そんな弱みがあろうとなかろうと。舞にはどこまでもつきあってやるし、たとえ目の前で何が起こっても全力で守ってやるけどさ。
…………。
…………。
……そういえば舞って、普段は何をやってるんだろうな。
微妙に気になったりもした。
だがその問いに対する答えは、俺が言葉にして尋ねる間もなく返ってきた。
「吉屋常連ファンクラブ、華音町支部スレ」
……なんと舞がスレの住人だったとは衝撃の新事実だ。
「吉屋の歴史――――」
「…………」
創業以来の吉屋の系譜を熱を籠めて語りだす。普段は寡黙だが、得意分野の話になると途端に饒舌になる。舞のようなタイプによくある気質である。いわゆるカラオケとかで、なかなかマイクを手放さないタイプ。
しばらくの間、延々と聞かされた…………。
「吉屋ファンクラブ。祐一なら大歓迎」
真っ平御免こうむるぞ。俺は。
「意外と楽しい」
ああ。やってるうちは楽しいだろう。どんなコトにしたってな。
「いっぱい仲間もいる」
相手の顔も見えないのに仲間意識なんて成り立つんだろうか。と一時期思ったことがある。
お互いがお互いを認識し、話し相手や協力関係になれるというのなら、立派に仲間だと胸を張って言えるのはネットでも現実でも同様に言えることだが。
……しかし。こうして牛丼に対する熱い熱弁を語ってくれる舞の様子を見て、牛丼に対する熱い情熱はひしひしと伝わってくる。本当に舞は牛丼が好きなんだな。って。
だが。
ここまで牛丼の話ばかりをされると、どうしても訊いてしまいたいコトもある。
「しかし。ひとつ質問があるんだが……いいか?」
「……?」
ちょっと悪戯めいた問い。舞が悩む顔が見たかった。ただそれだけの軽い気持ちで言ってみた。
「俺と牛丼と、どっちが大事なんだ?」
ひと言にこめた悪戯心。それは彼氏としてのちいさなお茶目だ。
「……」
しかし。ほんの悪戯心で訊ねてみたそれを舞のやつはいとも容易く。
「牛丼も祐一も同じくらい大切」
断じた。
どうやら舞は、俺のことを牛丼と同じレベルで見てくれていたらしい。あまりの衝撃に魂が感銘に打ち震え、二の句を注ぐ言葉も出てこない。
…………。
あれ? ……なんでだろう。目の前が突然霞んで見えた。
いや、実際に霞んでいるんだ。まぶたをゴシゴシと擦っても、後から後から何かがどんどん溢れてくる。
あはは。俺としたことが。本当にどうしちゃったんだろうな。
目から汗がどくどくと流れているよ。俺。本当にどうしちゃったのかな。
教えてください秋子さん。
「…………」
そんな俺の表情を見。舞が何か気を利かせてくれるのかと期待した。
「……泣くほど食べたかった」
そうじゃないからな舞。
「よしよし。いいこいいこ」
慰められてしまった。舞の手がなでりなでりと、俺の頭を撫でてくれている。
いや……なんというか。
むず痒いとか、くすぐったいとか、そういう次元以前の話だ。
「……萌えたろ?」
「……」
月を見るたび思い出す――――。
あの夜のことは今でも大きなトラウマ……いや決して忘れることもない。
星空の下で舞と語らうために念入りにセッティングした、素敵な思い出の夜になるはずだったのに。不貞ぶてしくもこの女、舞の世界にまんまと引きずり込まれる形になってしまい、あまりにもあんまりな、なし崩し的な展開のまま過ぎ去った夜があった。
――――――――。
――――――――。
――――――――。
――――で。
そんなコトより聞いてくれよ。聞いてくださいよ。みなさん。
これが極々普遍的で一般的なカップルの営みとしてのデートなら、ここまで言いません。
今日び、どこぞの小姑みたいにね。細かいことでつべこべ言いたくないんです。
ふと商店街で秋子さんのおつかいの用があったから、吉屋の窓に張ってあるポスターを見てみたんですよ。
――――で。
そこにデカデカと。「100食限定復活」って書いてあったんですよ。
「100食限定」。
お前らな。牛丼屋の行列に朝早くから並んで、100食の中の一食にあやかるために折角のデートの一日をブチ壊しにさせるんじゃないよ。
ボケが。
――――で。
決して声に出すまいとひとり心で管まきつつも。なんとか商店街にたどり着いたらですね。そしたら人がいっぱいで入れないんです。長蛇の列。
店内から帯状に伸びる長蛇の列でいつ喧嘩が起こってもおかしくない。
刺すか刺されるか。
そんな雰囲気で。
こいつら全員吉屋のお客さん。お前らね。いったいいつからそこに並んでいるのですかと。
忙しい平日をあくせくしながら過ごし、セッティングを整えて、そうして漸く迎えた折角の休日だというのに、舞のヤツが「吉屋に連れていって」なんて頼みやがったんですよ。
そこでまたブチ切れだ。
――――で。
可愛い舞の頼みだから彼氏としては叶えてあげたいと思いますよ。当たり前ですよ。恋人なんだから。
けど何ですか。現実問題。
何が哀しくてデートの日にこんな長蛇の列に並ばないといけないんですか。
ボケが。得意げな顔して
お前は本当に牛丼の味を楽しみたいのかと、問いたい。
問い詰めたい。
小一時間問い詰めたい。
――――で。
怒り心頭に達するくらいの熱射に倒れそうになった頃にやっと店内に入れたんですよ。
ところが。
俺達の座る席の隣にやっていた客がいたんです。
店内に入るなりその客、Uの字テーブルの向こうから注文を取りにやってきた店員に牛鮭定食を頼んでたんです。
そう。
「牛鮭定食」。
普通。店に来た客が何を注文しようと自由じゃないですか。それが客の自由ってもんじゃないですか。
ところがですよ。
俺の連れ。そう、舞。舞がその場にいたのが不味かったんですよ。
と。
そのオーダーの言葉を聴いた途端、目つきがまるで人が変わったようになりやがりまして。
「素人が」
と吐き捨てたんです。
あの舞がですよ?
少なくとも俺は生まれてこの方、そんな舞の姿をただの一度も見たことがありませんでした。
そんな舞の殺気だった気配が、すぐ隣に座る客に伝わらないわけがないじゃないですか。
隣の客。
全身総毛立つくらい震え上がりながら、それでも頑張って、おそるおそる舞に視線を向けていたんです。
――――で。
とどめに一言。
「素人は、牛鮭定食でも食ってろってこった」
「……………!!」
もうね。
戦慄ですよ。
――――で。
なにトチ狂いやがったのか。
隣の客。
舞のことを「姐さん」とか「一生ついていきます」なんて叫んでやがったんですよ。
もうね。
アフォかと。ヴァカかと。
――――――――。
――――――――。
――――――――。
――――俺が再び正気を取り戻した頃には、吉屋のあれほどの大名行列を思わせる長蛇の列を抜け、店内に二席を取っていた。普通に考えて隣同士の席がこうして空くなんてコトは滅多にないのだが、俺たちは運がよかったようだ。
「吉屋の牛丼は、私の人生のおよそ3分の1の要素を占めている」
どうやら吉屋の牛丼とは、舞のアイデンティティの重要な要素として組みこまれているらしい。
いつだったか。ここまで熱狂的に牛丼を愛する理由について舞に一度訊ねてみた事がある。
舞いわく、エディプス期から潜伏期における過去の反動なのだそうだ。
何があったのだろうと具体的な内容を訊ねてみたが、舞は決して首肯することなく詳しい内容は教えてはくれなかった。彼氏の俺にも教えられないなんて、余程のことがあったんだろう。
だから舞の方から話してくれる気になるまでは。その事について俺から無理に訊かないことが互いにとっての暗黙の了解になっていた。
「大盛ねぎだくギョク。いつものやつ」
「あいよ!」
――自称・吉屋フリークス伝説のあのメニューか。
タマネギいっぱい。肉少なめ。卵ひとつ。
無闇に注文すると店員にマークされること請け合いのあのメニューだ。
……。
「ずずずずず……」
店員にオーダーを頼んで待つこと僅か10秒。お茶をひとすすりしているだけの幕間。
本当にあっという間のご到着だ。
出来立てホカホカの牛丼がふたつ、俺たちの座るテーブルに置かれた。
割り箸を真ん中から器用に割ってみせ、早速舞が牛丼を食べにかかる。
「早いの旨いの安っすいの〜♪」
いや。そのネタは最近の人にはわからないから。
「牛丼一筋三百年」
それでは歌詞が逆だ。
「解らないならぐぐる」
……ああ。それが今時の主流だな。
IT技術も見事ここまで進歩し、分厚くて重たい辞書を引き引きしてひとつひとつ言葉の意味を調べていく時代に比べたらもう、随分と便利な世の中になったものだ。
牛丼一杯で時代の移り変わりをひしひしと感じ、ここまでの感慨に浸ることができるなんて、ある種の感動すら覚えてしまう。
「ユーはショック」
それでは別作品だ。
それに、そんな歌詞を白昼堂々と唄っていると齢がバレるぞ。
「私は18歳」
……そうだな。じゅうはちさい。
全部をひらがなで書くと、こうも淫靡な響きに見えてしまうのは何故だろう。
法律的にはオトナとしての一応の権利と責任を認められ、お互い同意の上でならばあんなコトやこんなコトをしても許されるお年頃だ。そう。それこそが、じゅうはちさい。花も恥じらう神秘にして可憐なお年頃。なんて素晴らしい。嗚呼、じゅうはちさい。……………………。
「祐一。鼻の下が伸びてる」
勿論。あんなコトやこんなコトの具体的な内容については表現上ご想像にお任せしたい限りだ。
……つんつん。
俺がそんな妄想に浸っていると、人差し指で頬をつんつんと突っつかれていた。
「祐一。なんだかぼーっとしてた」
ああそうだな。すまなかった。
「そんなに牛丼を食べたかった?」
いや。いまさっき考えていたコトはそれとはまったく別のコトだ。
「……牛丼と私。どっちが好き?」
牛丼と俺を等価値だと公言したお前にそれを問う資格があるのかと小一時間問い詰めたい。
「……ごちそうさま」
そんなこんなしてる裡に、舞が牛丼を完食してみせていた。
おい舞。二年半ぶりの牛丼なんだからもっとゆっくりと味わえ……。
「丼ものは、温かいうちに食べてしまうのが通」
それはそうだけどな。
何にしても、念願の牛丼を食べられてよかったなぁ……と。おい。
「おかわり」
ちょっとまて。
今日の吉屋の牛丼は100食限定って話だろ。店の外ではまだ長蛇の列で待ち続けてるって客も大勢いるのに、さすがにそれは無理がないか?
「問題ない」
自信を持って言いきってピースサインを決める舞。
舞が視線で導いた先、さっき注文を取りにきた店員とガチで目が合うと、振り返りざまにグッと親指を立てていた。
「沢山作ってあるからどんどん食べてね」
「ほら」
厨房の暖簾をめくった向こう側……。蒸気を噴出する寸胴の数々。トロトロに煮込まれたそれらはすべて、牛丼の具だった。
1 0 0 杯 限 定 と 言 う 宣 伝 文 句 は 真 っ 赤 な 嘘 だ っ た の か 。
……あー、なるほど。
落ち着いて考えればそれも至極納得できる。
舞みたいに、天下御免で牛丼を何杯も喰らうフリークな客層に対応するため、店舗側が敢えて取らざるを得なかった緊急手段ということか。
それにしても、この寸胴の数は異常だ。2つや3つなんて話じゃないぞ。いったいどんな状況を想定していたんだ。
「すべて想定の範囲内」
……なにはともあれ。
俺も冷めないうちに牛丼をいただくことにした。
「いただきます」
むぐむぐむぐ――――。
――――吉屋の看板は、いまになってもなお伊達じゃなかった。
丼からあふれ出す香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、食欲を胸いっぱいに高めてくれる。
割り箸を手に取り、おつゆのしみたご飯をたっぷりの具に絡めて口の中いっぱいに頬張ると、コクのある旨味がひろがって。
じゅわっとしみでる芳醇な肉汁。豊かな風味と深いコク。
ああ、なんて暖かい。舌先に伝わるこの懐かしさ。
吉屋の味。
…………。
もうだいぶ前になるのか。舞と一緒に魔物と戦っていた日々のことを思い出す。過ぎ去ったはずの景色が走馬灯のように流れていく。あの頃は舞と一緒に肌寒い夜の校舎の中、よくこの吉屋の牛丼を食べてたっけ。いまになって思えば、それもまた良い思い出だ。
…………。
口の中で具を噛み砕く行程すらなんという冗長だろう。とろけるほどに柔らかく煮込まれた肉とタマネギ。肉を顎先で噛み砕くほどに。玉ねぎを舌先ですり潰すほどに。食欲を満たしつつ、更なる食欲を掻き立てるという無限のスパイラルに叩き込む。なるほど最高の味だ。
アメ色になるまでじっくり煮込まれたそれらから溶け出す旨味がつゆに極上のコクを与えていて、隠し味に加えられた林檎とホワイトワインの風味が最高のフレーバーを醸し出している。果てのない奥行きと広がりを演出するこの味わい深さは、他の何モノにも代えがたいものがある。
「吉屋はこうでないといけない」
その言葉には至極納得だ。
…………。
その起源(ルーツ)は江戸幕末の嘉永6年(1853年)。
泰平の世に長く眠っていた江戸湾浦賀沖に突如として現れた黒船に端を発する。
周知の通りその黒船来航から翌年。幕府は日米和親条約に署名することになる。その時に合衆国は条約の明記にある「寄港するアメリカ船舶に水・食料・石炭を供給すること」の権利として「牛肉を提供しろ」と言い出した。
アメリカ人にとって牛肉はとっくに主食のうちだが、それまで肉食の文化を持たなかった当時の日本人は仰天してしまう。
「我が国では、牛馬は重い荷を背負い遠くまで運んでくれたり、人助けをしてくれるから、その恩に報いるためにも肉は食べないのである。五穀、魚、野菜など私たちが持ているものなら何でも提供するから、牛肉は他所で調達して欲しい」
――幕府のこうした手紙が、アメリカの公文書館に現在もなお残されている。
そうした経緯から明治5年1月24日。
「明治天皇が牛肉を召し上がった」という記事が発表され、肉食文化は日本人の間で急速に浸透していくことになる。その頃に庶民の間で大ブレイクを博した食物が牛鍋(大正12年以降、すき焼きと呼ばれるようになる)だ。
当時のすき焼きは上等と並等に分かれ、前者は5銭、後者は3.5銭で食べることができた。
すき焼きというメニューは、明治の文明開化と共にひろがった文字通り“近代の日本食”だった。
誰もが子供の頃に一度は聞いたことがあると思う。残り物の味噌汁を炊き立てのご飯にかけて食べる通称ぶっかけご飯。牛丼というのは元々、あれのすき焼き版のことだった。
すき焼きの残り汁をご飯にかけて食べることから始まった牛丼。
これが庶民の間で親しまれて大ヒット。
面白いことに、日本において「牛肉を食べる歴史」と「牛丼を食べる歴史」は見事に一致している。そういう意味で牛丼は、明治時代の食文化の発展に一役買っていたと言っても過言じゃない。
そんなこんなで近代洋食文化が加速していく最中。今日までに牛丼業界の最大手チェーンにまで成長を遂げることになる、吉屋が創業した。
知っての通り吉屋は牛丼のみの単品販売が特徴的であり、コスト削減を繰り返すことにより人気を集めた。バブル崩壊以降はマクドバーガー同様、低価格路線を貫いて今日の地位を築きあげた、外食産業における代表的な店だ。
――――――――。
こうしたルーツから、吉屋には当然の事ながら熱狂的なファンが多い。
お手軽簡単で低価格に美味しさを味わえるこのコンセプトは、サラリーマンや学生達を初めとした幅広い世代に牛丼ブームを浸透させていった。
その人気ぶりはこうして二年半の歳月を隔てて尚、溢れんばかりのファン達が殺到するほど。その想いはオーラとなって陽炎の様に揺らめいている。熱気が物理的な発露となって背中越しにひしひしと伝わってくるようだ。もとい。これほどの歴史を持つ牛丼がたった二年半の年月くらいで揺らぐはずもないのだが。
ネットやニュース等で大々的に取り沙汰される事実からも分かるように、「牛丼復活」という四文字の報せは、吉屋ファン達の情熱を再燃させ、日本中で一大社会現象にまで発展していった。それほどまでに吉屋の牛丼復活は衝撃的な出来事だといえるだろう。
吉屋の牛丼には、それだけの輝きがある。
「――――――――」
舞にとっても、俺にとっても、とても有意義な一日を味わわせてもらうことができた。
最初は舞の嗜好に渋々つきあう程度にしか考えていなかった俺だけど、デートの一日を費やすだけの意味もあった、っていうコトかな。
そういう意味でも、吉屋には感謝しないといけないな。
俺がそんな感慨に耽っていると、舞は完食しおえた丼をそのまま塔にしたかのように高く高く積み上げていた。毎度のコトながら、もうね。
「やっぱり私は、吉屋の牛丼が好き――――」
何杯目かの牛丼を平らげて丼をテーブルに置くと、そこに何かを映し出したかのようにゆっくりと天井を見上げた。
ほう、とあたたかな吐息。
舞も俺と同様に、久しぶりに味わう牛丼の味の懐かしさに色々と思い出すことがあったのだろうか。
「――――もちろん、祐一のことも好き」
う…………。なんて不意打ちだろう。
舞の、その、本当に。それは、なんというか。
なにひとつ包み隠しのない素朴なほころびの笑顔。舞のヤツ……。いきなりそんな顔で見つめてくるのは反則じゃないか。
最近の舞はやたらと俺をドキリとさせることが多くなった。急速に高鳴る心音。どきどきどきどきと、微熱と共に身体中にひろがっていく。俺は心臓の動悸を舞に悟られないようにするので必死だった。
「どうしたの?」
舞が追い討ちをかけるように俺に顔を近づけてくる。
俺は慌てて視線を逸らす。
「……?」
これじゃあまるで、初めて母親以外の女性に優しくされて身体中を真っ赤にさせる思春期の少年みたいじゃないか。
「ああ。俺もさ」
そう返すだけで精一杯だった。
「忘れられない、一日になった――――」
――――そうだな。それは本当に間違いない。こういう形になったけど、舞とこうして思い出の1ページを紡ぐことが出来た。忘れられない。思い出の味を。牛丼という形で二人で味わうことができ、一緒にかみしめることができた。
吉屋に、心から――――ありがとうの言葉を送りたい。
「……おかわり」
――――え?
「……お?」
「店員さん。おかわりお願い」
「あいよう!」
……どうやらそれは聞き違いではなかったようだ。
「あれだけ喰っておいて、まだおかわりを頼むつもりなのか舞は」
「だって、すごくおいしい」
ああ……それは俺も同じ意見なんだけどさ。
「何杯食べても、また食べたくなる」
絶句した。
「へい牛丼追加おまち!」
「もぐもぐ……」
…………。すでに両手両足に数え切れない規模にそびえ立つ丼の山。これは舞の食欲。そして胸の裡に秘めた吉屋の牛丼に対する想いと魂の象徴だ――だがさすがにこの量は――どんな物事にも限度ってものがあるぞ舞。そういえば昔読んだ本の中に、人々の欲望が尽きることなく膨れ上がり、空高く天を目指して建造された灰色の塔についての記述があったな。
「しっかり感謝の心を籠めて食べてるから大丈夫」
だから牛丼を何杯も食べまくってテーブル一面に丼をうず高く積み上げても決して崩れない……か?
舞の論理は時折飛躍している時がある。
だがそれだけ目の前に向ける情熱がひと際アツいというコトなんだろう。
……本当。舞のこの喰いっぷりには敵わないな。
長い目で見てやれば、それも舞の魅力のひとつ――か。
それにしても、この華奢な身体のどこにあれだけの牛丼が入るんだよ。
物理的に絶対ありえないぞ莫迦野郎。
一杯600〜700カロリーもある吉屋の牛丼をこんなに腹にかきこんでおいて、よくこんな抜群のプロポーションを維持できるもんだ。舞の胃袋は異次元空間にでも繋がっているのか?
俺も舞に倣って牛丼を何杯かおかわりしてみたけど、隣で怒涛の食いっぷりを見せつける舞には到底足元にも及ばない。周りの客も皆が注目していた。
衆人環視の中、なおも舞の食欲は乱れることなくペースを維持している。
舞のヤツは丼のタワーをいったいどこまで積み上げていくつもりなんだ。
…………。
…………。
こんな舞でも、俺が好きな舞であることに変わりはない。
自分に都合のいい部分だけ相手に求めるばかりで、相手の自分にとって都合のよくない部分を絶対に許さず悪とみなす。みたいな束縛系の彼氏にはなりたくないしな。
相手を束縛するというコトは大抵の場合、相手自身に自分の都合を強要する状態をさす言葉であり、相手自身の都合をずばり無視した行為だ。無闇に束縛ばかりを行うのは相手の自主性を阻害する要因にもなり、相手に余程の忍耐力や適性がない限り、いつかダメにしてしまう。これでは単なる悲劇であり、本末転倒にも程がある。
……恋愛とは相手の心を束縛すること。とはよく聞く言葉だが、言葉の意味を履き違えてはいけない。
恋愛において最たる根本――恋する心。――愛する心。
それらは本来心の裡から来るものだ。心同士がともに触れあい、お互いを知る過程の中でゆっくりと、時間をかけて育んでいくもの。
それを外的なプレッシャーで抑えつけ、自分に都合の良いように相手を造り替えてしまう、なんて。そんなモノは恋でも愛でもない、ただの隷属だ。
隷属のような、相手に対して常に当然を強いるような行為で相手を幸せになんて出来るものか。
いい部分もよくない部分も、胸の裡に受け容れて愛する。これが「人を好きになる」ってコトじゃないのか。
……もっとも。人のそうした心を悪用して相手を騙すようなヤツはもっぱら願い下げだが。
自分と両想いで居てくれる大切な恋人を、自分のエゴのために利用するような真似だけはしたくない。それが俺の、舞の彼氏として最低限の矜持だ。
口先だけの幸せを謳い、惚れた女さえ不幸に追い落とすようなナンパ野郎にはなりたくないものだ。
確かに時には“そういうコト”も必要なのかもしれない。
人間長い人生の中、強くばかりは生きられない時もある。時には誰かに自分の心の拠り代になってもらいたいと思うコトだってあるのだから。
かつての舞がそうだった。幼馴染だった俺達。学校の先輩後輩であった俺達。共に戦う戦友であった俺達。
けれど現在では彼氏彼女という、男女として究極の対等関係まで築きあげるコトができた。――それはかけがえのない、ひとつの「奇跡」だともいえるだろう。
そのひとつひとつが、この世に二つとない――大切な思い出であり、二人で紡ぎあげてきた歳月の系譜だ。
「二人だけの世界」――確かにそうかもしれない。言葉にするならその通りになるだろう。
そういう言い方も確かにある。
ならばパートナーである相手に何をしても許されるというのか?
否。違うだろう。そうじゃないはずだ。
――――俺たちは恋人。つまり「対等」の関係なのだから。そうだろう?
対等ゆえに、尊重が必要なのだ。
俺としてはやっぱり、惚れた女の好き好みは尊重したい。
それが今回の場合は「ふたりで一緒に牛丼を食べる」、ということになる。それだけのことだ。
舞は自他共に認める無類の牛丼好きだ。それに俺だって舞の好きなコトならたくさん共有していきたい。
ふと、舞は俺のコトをどう思っているのだろう? と気になってしまうコトもある。当たり前だ。好きな相手が何を思っているのか、何を考えているのかを知りたいと願うのは人間としてごくごく自然な欲求の発露だ。
だが相手も、同様に欲求を抱いている。
ゆえに互いに尊重しあう事が必要なのだ。
一般家庭において幕末、明治、大正の世までは亭主関白が常であった。だが鎖国は解かれ、牛丼の登場のように食文化にも新たな息吹が芽生えたように。
男と女のあり方についても時代と共に進化していくべきだ。そうでありたいと願う。
これからを恋人として共に過ごしていく俺たちのステップ、人生色に満ちた処女道(バージンロード)は、これからゆっくりと拓かれていくのだから。
――――――――。
――――――――。
――――――――。
――――――――。
やがて吉屋のキッチンを占めていた寸胴がすべて空になり、本日の牛丼の販売終了の勝鬨の声を挙げることになる。そして舞も最後の牛丼を完食する。コトリと丼がテーブルの上に置かれる音。
…………。
販売開始から閉店時間に至るまで延べ6時間余。
最後まで席に居座っていた俺達。俺、相沢祐一と。彼女、川澄舞。
ぱちぱちぱちぱち…………。
俺たちが牛丼を完食している背中を蔭で見守っていた人々の黒山から、あふれんばかりの拍手喝采がそそがれた。
そのとき初めて気付いたかのように舞が振り返ってみせる。そこには吉屋のファン達が熱狂的なエールを送る姿があった。
自分の行為に声援を受けていたと言う事実に、思わず顔中を真っ赤な紅蓮色に染めあげる舞。そんな舞の仕草に、俺はまた不覚にも胸をドキリとさせてしまう。
「ありがとう。ありがとう……」
繰り交わされる、涙の言葉と感謝の言葉。
まるで世界の平和をスローガンに謳った24時間連続耐久番組のような、ほんわかとした感動空間が周囲一面に展開されていた。
――――俺には到底理解しがたい範疇ではあったのだが。
祝福のファンファーレとともに、吉屋の店長から吉屋謹製の記念品が贈呈された。
そこでもう一度改めて拍手の嵐。
デートの思い出の品として考えると超に超がつくくらい微妙な心境なんだけど、舞が泣くくらい嬉しそうな表情を浮かべているから万事よしとするか。
終わりよければ万事善哉善哉。
――――で。
毎回恒例。
予定調和の最中にして、世界で最も物質的でかつ現実的なる予言の発露。運命の輪の中にして、大いなるその掌の上。蒼々とした秋空の下、抗う術すら認められない強権的で絶対的な決定事項。俺の心境はさながら処刑台の階段を一歩づつ登り、刑吏から言い渡される最期の断罪の言葉をただひたすらに待ち続ける受刑者のようだ。
こうなってしまった以上。もはや覆りようもない。要諦こそあれ。これは逃れえぬ真実。
そう……巷ではオチともお約束とも言われるあれ。
…………俺の眼前に。『自分と舞が牛丼を喰いに喰いまくった分を含めて代金を支払わなければならない』という過酷な現実が待っていた。
ああ……毎度の事とはいえ。前もって金を大量におろして来ておいて本当によかった。えらいぞ俺。
泣く泣く懐から財布を取り出す俺。バイトをしてコツコツ貯めてきた貯金。どんまい俺。
銀行からおろしたばかりで未使用のピン札達。別れることは決してつらくない。ほんの数秒前まで俺の懐であたたまっていたお前達は、これから間もなく俺の手元を離れ、純白の羽をまといながらハタハタと飛び去っていくのですね。
お前達の門出をせめて、俺自身の手で祝わせてくれ。おめでとう。ありがとう。
無量の感慨を籠めて、俺は数枚の諭吉さん達の門出をひたすらに祝った。
――――あれ?
おろしたての時はそうでもなかったのに、どうしてだろう。本当にどうしてだろう。
目許がじわりと濡れていって、濡れたところがどんどん広がっていって、次第に霞んでいく。雨の舞い降りた地面のように水たまりが出来ていく。
俺はこんなにも哀しい気持ちに包まれているのに、お前達はどうしてその表情すら変えてくれないんだろう? ……これ以上は言葉にさえならなかった。
「問題ない」
……? 舞は突然何を言い出すんだろう。俺の心はこんなにも哀しみに包まれているのに。
「大丈夫」
何がどう大丈夫なんだろうな……。大切な諭吉さん達とこうして無情の別れを惜しみあっているというのに。
その正確な意味を聞き取るための心の余裕さえない今の俺に。普段の俺こそ嘘であるかのように、舞の真意を読み取ることができない。
「びしっ!」
こんな状態の俺にもハッキリと分かるよう。そう言って舞がエクスクラメーションマークと共に声に発した擬音と同時、持参のハンドバッグから厳かに取り出されたものは。
「金ぴかのカード」
華奢なウェストに手を当て、次世代益獣型アンドロイドが秘密のアイテムを取り出したかのような光。入念な集中線と特殊なトーンの張り合わせに加えて4Cカラーという絢爛豪華さに強調される、劇画タッチの存在感をも恣(ほしいまま)にするが如きそれは、黄金色にテカテカと光沢を放つ一枚のゴールドカードだった。
――――説明しよう(死語)。
ゴールドカードとはその名の通り表面が金色になっているカードで、一般のクレジットカードとは比べ物にならないほどの多彩な特典やサービスを受けることができる。
カードを持つ行為そのものがステイタスとなるという。一枚のカードに凝縮された、いと格調高き金色の証明。それはワンランク上を求める人にとって御用達の必需品といえるだろう。
“証明を携帯する”このカードはまさに、その言葉で飾るにこそ相応しい。だがその発行には一定の審査基準があり、学生の身分でおいそれと持てるような代物ではない。――なによりも先に気にかかる事は、そんなすごい物をなんで舞が持っているかということだ。
なのに舞はそれを事もなげに言い放ってくれた。
「牛丼を食べたりする時はいつでも使えって佐祐理がくれた」
……ああ佐祐理さん。
貴女はそんな処でまで親友に誠意を尽くしてくれるのですか。貴女の苦労がほんのりと垣間見えるようです。
「だから私はお金持ち。だから何でも買ってあげられる」
それは全部佐祐理さんのお金だって事を忘れるなよ。
「……もうバリバリ?」
女の子がバリバリなんて言葉を使うんじゃありません。
「……はい」
「毎度あり」
…………。
機先の先を得る。まるで水を得た魚。カードを得た舞である。俺がどうこうとツッコミを入れる先。勇み足で舞はレジに向かってカードを差し出し、さっさと会計を済ませてしまった。会計を済ませてしまった後だから仕方ないけど、牛丼代に使った金額は後で全額佐祐理さんに自腹で返すことにしよう。
「これからは食べ放題」
そしてそれを何食わぬ顔で惜しげもなく使ってのけるお前の図太い神経には正直恐れ入る。
……………………。
吉屋創業以来。100年以上にも渡る長い歴史の中にあって、またも新たな伝説を刻んだ俺の彼女。舞が衆人に惜しまれる中、俺たちは二人で吉屋をあとにした。
支払いを済ませて吉屋を退店後。店の外は、すっかりと夕刻の訪れを告げていた。
紅というより、茜色をした秋の空。流れゆく雲。
その雲端の切れ間から陽明が明々と覘いている。
午後の空は次第にゆっくりと夕暮れの光彩に染まっていく。
秋の微風が辺り一面を優しく撫でていて心地よい。
――――で。
そんな商店街の喧騒の片隅から。舞の豪快な喰いっぷりにすっかりファンになってしまったという連中が、舞に記念写真を求めにやってきていた。デジカメに携帯にサイン紙……舞も一躍吉屋のアイドルといった貫禄だな。
「…………」
舞のやつ。あんなに真っ赤な顔をしやがって。
……俺はあまりの状況の恥ずかしさに舞から目線を逸らし、他人のフリを決め込んでいた事はここだけの内緒だ。
連中が舞が以前言っていたスレの住人達なんだろうか。舞を囲む形でパシャパシャとカメラのフラッシュが焚かれている。どこでそんなことを覚えたのか、ポーズや視線をゆっくり変えながらモデル立ちを決めつつこれに応じる舞だ。
――ああ。もし許されるなら、この場でぐぅの音も出ないくらい舞のことを徹底的におしおきしてやりたい。グーで殴るんじゃないぞ? ぐぅの音も出ないくらいみっちりとしたおしおきだ。
「牛丼を食べたおかげでたっぷりスタミナもついた」
ようやく写真撮影やサイン会から解放された頃。俺達は帰路を歩いている。
「アフター5の、本当の私」
よく見れば肌もつやつやしてきて、心なしか目つきも生き生きとしていた。
……ああそっか。舞は元々夜型のタイプだったっけ。
牛丼を食べた舞は、言ってみれば水を得た魚。
「だから、祐一……」
「ん。どうしたんだ舞?」
「言わなくても分かって」
こういうのが名雪も言っていた「女の子の気持ちを分かるようになってほしい」ってコトなんだろうけど。男でしかない俺にとって、女性の気持ちを知るには彼女である舞や、親友である佐祐理さん。家族である名雪や真琴。秋子さん達をお手本にじっくりと学んでいくしかないわけだ。
「スタミナ満点。後でいっぱいお楽しみ」
舞の呟いたその一言に、俺は妙に食指が動くものがあった。
「まったく……牛丼様様だな」
牛丼といえば、某有名プロレスラーも好んで食べているパワーフードだ。牛肉に含まれる豊富な脂質とたんぱく質。血糖値を低下させ血液をサラサラにし、抗酸化作用もある特殊成分を含んだタマネギ。ビタミンやミネラル、食物繊維の豊富な小麦。同様の栄養素に加えて身体によいとされるイソフラボンを含む大豆。日本古来のエネルギー源にして、たんぱく質の利用効率を高めるごはん。その上必須アミノ酸や脳を活性化させるコリンなどの成分を含む完全食品ことギョク(玉子)までふんだんに入れて、さぞや膨大なカロリーを摂取できたに違いない。
……よし。いっぱい食べた分のカロリーは今夜二人でたっぷりと消費しないとな。
ふたりで手をつなぐ。子供の頃によくしていたあの頃のように。
今夜も舞は水瀬家の俺の部屋に一緒にお泊りだ。その真っ最中で真琴が俺の部屋に入ってこないように、その辺りの事は名雪あたりにしっかり足止めを頼んでおかないと。
帰途に着いた俺達は、しばらくまったりした時間を過ごした後。甘くて濃厚な蜜夜を明かした…………。
――――で。
吉屋の牛丼パワーを思うさま喰らい尽くした舞は夜も無敵だった。
そのスゴさといったらもう。準備万端のつもりで用意していた俺が思わず根負けしてしまうくらい。元はといえば魔物と戦う日々の中、夜型にあわせて鍛えに鍛え抜かれた舞の身体だ。基礎体力も水準以上のものを持っているし、それがなんだ。何年もの間それで続いていた魔物との戦いの日々が終わって、そのためそれまでは魔物との戦いのために消費できていたエネルギーをもてあますようになった。
発散されることなく溜まりに溜まりまくった過剰なエネルギーは、性の欲望として徐々に体内に蓄積されていき…………。
つまり今こそ。
溜まりに溜まりまくった舞の身体のポテンシャルが遺憾なく発揮される時だった――――!!!!
合掌。
――――さらに後日談。
俺は水瀬の家を出ることになり、舞と一緒にマンションに部屋を借りることになった。俗に言うルームシェアってやつだ。ほらそこ。同棲とか言うな。
後になって聞いた話だが。あの日牛丼を食った後、舞に写真撮影を求めていた連中がファンクラブを結成していたらしく、マンションの同じフロアの部屋一帯を自称・舞の親衛隊として文字通り牛耳っているのだそうだ。
俺達がマンションに引越を済ませて数日後。そいつらから歓迎会を兼ねたパーティに誘われた(当然パーティ会場は吉屋だ……)時に発覚したことだ。
……まあ、連中は舞のことを本気で慕ってくれているみたいだし、根はいいヤツらだと思う……もっとも舞は、生半可な男の手助けなんて要らないくらい半端なく強いわけなんだけど。
中には屈強なヤツもいたから、防犯の意味も兼ねていて問題ないのか……これは。
そんなある日のこと。
マンション帰宅途中。マンションの隣で行われていた店舗の新装工事が終了していたようだった。
工事の立て札が取り払われて、新築の店を覘き見る。それは。
「…………」
ハンマーで頭をガンと打たれたような気分だった。そんな莫迦な。
それは三度に一度。舞と飯を食いにいく度に見かけるあの看板の面影と重なってしまった。
果たして目の錯覚か、勘違いか――
――だがそのような希望的観測は、再確認というハンマーの追撃によっていとも容易く打ち砕かれてしまった。
ごしごしと目蓋を擦り、すーはーと深呼吸をしてから気を取り直して更にもう一度、そこに立てかけられた看板を見やる。
「吉屋」
それはもはや見間違えようもなかった。
それは吉屋の新店舗だった。
それは紛れもなく、真新しく新規に建てられた吉屋の店舗だった。
それは……、
それは……。
…………、
…………。
……、
……。
、
。
――――――――。
そういえば。吉屋が近所で新規オープンするみたいな広告がついこの間の新聞の折り込みチラシに入っていたけど、それって俺たちの住んでるこのマンションの隣の事だったのか。……しかし。なんでいきなりこんな場所に吉屋が建つことになったんだろうな?
独り言のようにごちた俺の言葉に、舞は淡々と答えた。
「佐祐理にお願いして建ててもらった」
この娘は自分のエゴを満たすためにはいかなる手段をも選ばないらしい。金の力で何をやっても許されると思って……お父さんは悲しいです。
「だって、いつでも食べたいし……」
悪びれずに言い切った。指を咥えながら食欲をうったえる舞の仕草はまさに駄々っ子のそれだ。
「一日三食」
どういう意味で一日三食なのだろう。舞の言った言葉の意味をじっくり噛み砕く間もなく。
「きらりん」
舞の双眸から一瞬、妖しげな光が放たれたような気がした。俺はそんな舞の姿に戦慄を禁じえなかった。
「祐一はうれしくないの?」
上目遣いでまじまじと見つめてくる。そのポーズはあまりにも反則だ。
……そりゃ。舞の喜ぶ顔が見られるなら彼氏としてこれ以上嬉しいことはないさ。
けどそんなコト。答えなんてとっくに決まってるだろ?
だから俺はあえてそれを言葉にする。
「ああ。うれしいさ」
不意打ち気味に、舞のおでこにキスしてやった。
「…………!」
瞬く間。舞は目に見えて分かるくらいに顔中を沸騰させてしまった。いつも舞にはしてやられている。これはそのせめてもの仕返しだ。
…………。
…………。
穏やかな微風が撫でる。やがて舞の顔から、風船から空気が抜けていくように次第に熱が引いていった。
にしては随分と時間がかかったもんだな。
「……よし。舞。今日は何を頼む?」
「今日は腹八分目くらいがいい」
「そうか……よし、じゃあ行こうか? 舞」
「ハチミツくまさん」
…………。俺個人としては。舞の言う「腹八分目」の基準が非常に気になるところだ。だがしかしそれは敢えて気にしないことにする。――――俺の中のなにかがそう囁いていたから。
そして俺達は。二人でともに開店したての吉屋の門扉を叩いた。
――――――――――――。
――――――――。
――――。
…………。
俺たちは。
ともに手を取り合う。
互いに寄り添いながら。
これからを歩んでいく。
俺たちの道。歩んでいく道。
ずっとずっと。
そのひとつひとつが、かけがえのない思い出になっていく。
その、一歩づつを。
大切な想いを乗せながら。
踏みしめていく。
そうさ。だからこそ。
これから何年、何十年と過ぎ去って行ったとしても。
きっとそれは変わらない願い。ああ――――
「今日は俺のおごりだ。いくらでも好きなものを食っていいぞ」
「……ありがとう」
――――目の前にあるのは、舞の幸せな笑顔だ。
この笑顔をいつまでも守っていきたい。
俺は本当に舞のことが好きなんだ。
絆。
ああ。そうだとも……。
俺は……。
願わくば……舞とともに過ごす幸せを。
そして舞が、俺とともに過ごす幸せを。
希(こいねが)う。
いつまでも。いつまでも。
そして、どこまでも。
俺は。舞とともにあり続けることを誓う。
...Fin
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