東方霊夢譚






 ここは幻想郷のとある中空。

 博麗神社の巫女、博麗霊夢は今日も絶好調に妖怪退治をしていた。
 相対するは醜悪な容貌をたたえた一柱の妖。
 この妖が最近付近を荒らしていると、少女、霊夢は博麗の巫女としての能力によって感知し、単身この場にやってきた。

 人の背丈と数えて数倍は下らないであろうその巨大な体躯は、まともな人間が見ればその威圧感にひと目で恐れ慄き、たちどころに身動きが取れなくなるに違いない。
 しかし流石は博麗の巫女たる所以。彼女はそんな妖の姿を目の当たりにしても一向に動じることがない。ただ静かな双眸をもって、妖の姿を見据えたままだ。
 妖は霊夢を只の人間ではないと見、早々に片を付けようと見たか、伸ばした爪を大きくふりあげて襲いかかる。しかし霊夢は最初からその軌道を読んでいたが如く、軽く身をいなしてこれを躱す。
 たかが小娘と侮っていた妖怪は彼女の俊敏さに舌を打ち鳴らすと、手数を増やすことで相対しようとする。手数が多少増えたところで、霊夢にとっては同じ意味でしかなかった。ただ重い一撃が軽い数撃の威力に代わっただけ。その動きのすべてを見通しているかのようで、彼女は一糸の乱れもなくただ淡々と回避行動を繰り返す。余裕めいた感すら見られる霊夢の身のこなしは、むしろ風に舞う桜花の姿にも似ていて華やかである。
 妖の動きの一瞬の合間を縫い、背中を目がけて回し蹴りを見舞った。神力を乗せて放たれた一撃を受け、妖怪は弓なりに身体をのけぞらせる。

 その間隙を博麗霊夢は見逃すはずも無い。
 続けざま、手にしたお祓い棒を鮮やかに振って打撃を与える。退魔属性が付与された打撃は物理的にのみでなく、霊的にも高い効果をもたらす。しかも相手が妖怪であればなおさらのこと。
 コノヨウナ小娘二。コノ我ガ。小柄な娘にいいようにいなされ逆上した妖怪はただ闇雲に、力任せに両腕を振り回す。周囲に生い茂る木々がバキバキとへし折られ、葉音を鳴らし、大小を問わず、妖の両腕に触れた物から次々と薙ぎ倒されていく。
 なりふり構わず襲い繰る妖に較べ、霊夢の様子はいたって淡々としたものだ。これが日常。いつも通りといわんばかりの表情。
 そんな霊夢に対し、すっかり余裕をなくした妖怪の行動原理はいたって単調で、その予測も容易いものとなっている。元々それなりに腕のある妖怪なのだろうが、内面の伴わぬ行動は下級妖怪のそれと何ひとつ変わるところが無い。自暴自棄へと堕した哀れな妖怪の姿に、霊夢は内心で溜め息をつきながら後方へと大きく飛んで距離をとった。

「急々如律令。幻想郷におわす天の神地の神に願い奉る。この護符、退魔の神威を以て、眼前の妖を討ち滅ぼす力を顕わし給え――!!」

 その右掌に護符を取り出し、退魔の呪文を唱えて弾幕を展開する。撃ち放たれたのは数枚のアミュレット。それらは不規則な曲線の軌道を描き、螺旋状に回転しながら妖怪の立つ其処をめがけて飛来する。
 たかがこの程度。そう判断したのか、妖怪はさっきまで失っていた余裕を取り戻したように嘲笑の笑みを浮かべ、みずからに向けて迫りくる護符をあまさず焼き尽くそうと掌を掲げ、己が弾幕の展開をもって迎え撃つ、が。

「……甘いわ」
 霊夢は左手に携えた神楽鈴を鳴らした。
 粛、と鳴り響く真鍮の鈴の音。
 その音色に呼応するが如く、アミュレットは無数の小さな護符へと分裂し、妖めがけて五月雨のように飛散する。一瞬の出来事ではあったものの、それは大局を制する致命的な変化であった。彼女の得意技、拡散アミュレットの弾幕を目の当たりにし、妖の余裕は完膚なきまでに打ち砕かれ、脅えの表情すら浮かべるほどだった。

 あまりに咄嗟の事態に名も無き妖は相当慌てていたのだろう。闇雲に弾幕を撃ち放つ。極めて反射的に、たいした魔力も籠めないまま申し訳程度に放った魔力弾程度、防壁および貫通の性能を有する護符の雨を破れる道理もなく、加えて追尾性能を有するそれらすべてが妖怪の身体中に張り付いた。
 護符に宿る浄化の理力が、妖の巨体を青白い光と炎とで灼いていく。さながら咎を清める劫火の如くに。

 ――神技・『八方鬼縛陣』!!

 完全に動きを封じられた妖に対してとどめとばかりにスペルカードを取り出し、霊夢は八卦の印を結んだ。カードに封じられた神力が解放され、妖を中心に一条の巨大な光の柱が立ちのぼる。凶悪な妖怪の断末魔。その次の瞬間には妖怪の姿は跡形もなく消え去っていた。

 巫女としてのその能力に一点の曇りなし。
 あたりに漂っていた妖気も消え去り、ほぼ元通りの森林の姿を取り戻すのだった。
 若干なぎ倒された大木はあるものの、後は人里の人間達がなんとかしてくれるだろう。霊夢にとっては日常といえる、ささやかな異変はこれにて一件落着なのである。
「ずいぶんと汗をかいちゃった。はやく帰ってお風呂をわかさなきゃ」

 こうして付近一帯を困らせていた妖怪は、霊夢の圧倒的な能力を前にこうして討ち滅された。妖怪の姿も気配も完全になくなったことを確認すると、霊夢はそのまま空を飛んで帰途に着いた。

       ◇ ◇ ◇

「ふぅ」
 博麗神社。自分の住処に帰ってくるや、いつものように湯船にお湯を沸かし、禊ぎを兼ねて身体中の汗を打ち流した。

 穏やかな風合いを彩るヒノキの香りが、心を落ち着かせてくれる。霊夢は内湯を何度か浴びて身体中の穢れを落とすと、ゆっくりと湯船に浸かった。
「やっぱりお風呂って気持ちがいいわ。あったかいし」
 何も考えず、くつろぎのひと時を満喫する。
 この清水で沸かした湯に身を浸していると、身体中の凝りと疲れが抜けていくのを感じる。まるで、お湯が身体中の疲れを吸い取ってくれるかのよう。その心地よさに心までとろけてしまいそうになる。
 この入浴場は彼女にとって快適な、安らぎを得られる空間のひとつなのだ。

 風呂あがり。
 霊夢は代えの装束に着替えると、南陽の差し込む縁側に腰をかけ、お茶をすすりながらひと息をつく。
「……やっぱり、こうしている時が一番癒されるわ」
 ここが霊夢にとって、もっとも安らぎを得られる空間。
うっすらと雲の浮かぶ空を眺めながら飲むお茶の一杯。これが格別に美味しいのだ。
 なにごともなくこうして過ごす平穏な時間。
 それがこの幻想郷が無事平穏であるなによりの証拠なのであり、また霊夢にとってなにより落ち着くひとときなのであった。

 ――このまま幻想郷が平穏のまま在り続けてくれればいいのに。

 穏やかに流れる空の景色を眺めて、霊夢は心からそう願わずにはいられなかった。

       ◆ ◆ ◆

 ……。
 ……。
 ひとりの少女が、空を見上げながら母親に語りかけていた。
「ねぇお母さん。きいてきいて? わたしね、おっきな夢があるんだよ」
 両手いっぱいに手を広げて、少女は自分の思い描いた夢を語る。
「まぁ。どんな夢なのかしら」
「空を飛べるようになりたい!」
「空を?」
「うん。鳥さんのように自由に空を飛んでみたい!」

 広大な空。ひろいひろい空。
 青く蒼く、澄みわたる空。その規模は幼い子供の手にはあまりすぎるほどに広大だ。
 だがしかし、だからこそ、両手でも掴みきれない広大な空の風景に、胸いっぱいの夢を描くことができるのだろうか。
 それはきっと、誰もが抱く空想の夢物語。
 いつしか歳を重ねるに連れ、その想いが風化していくのはどうしてだろう。
 だからこそ、想いを馳せるその姿が、宝石のように輝いて映るのかもしれないけれど。

 幼きゆえに純粋な心を持つ少女。爛々と輝くその瞳に母親の表情は思わずほころぶ。
 そんな娘の姿を見守る母としての幸せ。
 そんな母に見守られる娘としての幸せ。

「うんうん。そっか。じゃあいつか空を飛べるようになるといいね」
「うんっ!」
 仲の良い母と娘。彼女たちは慎ましくも幸せな日々を送っていた。

◇ ◇ ◇

「よっ。元気してるか?」
 まぶたを開けた霊夢の視界には、見あげる空を覆うように魔理沙の姿があった。いつの間にやってきたのだろう。

 あれからだいぶ時間も経っているようだ。太陽の傾きがさっきまでと少し違う。
 どうやら縁側で過ごす時間が快適すぎて、うっかり寝こけてしまったらしい。
「ほんのさっき図書館から借りてきた本があるんだ。ここで日向ぼっこしながら読書させてもらうぜ」
「それって借りてきたんじゃなくて、勝手に持ち出してきたんでしょ」
 本当にもう。霊夢は呆れて溜め息をついた。
 魔理沙のやることは本当にいつも通り。事の顛末がありありと浮かんでくるだけに猶更、である。
「そうとも言うな。ははっ」
 悪びれずにそう言うと、魔理沙はトレードマークである黒い帽子を傍らに置き、ぱらぱらと本をめくっている。
「後でちゃんと返しておきなさいよ」
「ああそのうちな。お、この魔法は興味深いぜ。今度新しいスペルカードに組み込んでしまおうかな。ずずっ」
「新しい魔法の研究?」
「ああ。この魔法はすごいぜ。マナの収束率と屈折率をいじってやることで弾幕のバリエーションが広がるってやつでさ。ずずずっ」
「ふーん……」
「パチェのやつ、こんなすげぇ魔法書を持ってたのか。こいつぁあの図書館、ますます発掘のし甲斐があるってものだぜ。ずずずずっ」
「! あーっ。そういえばそれ私の湯飲み」
「あちゃー、バレたか」
 魔理沙は霊夢が口にしていた湯飲みをさりげなく飲んでいたのだった。
 あまりにも自然な動きでそれをやるものだから、やられた方はなかなか気がつかないのである。
 ひょっとしたら、いやひょっとしなくても魔理沙には物を盗むことに関して天性の才能があるのかもしれない。おそらく前世か先祖に世界を又にかける大怪盗でもいたに違いない。魔法使いの本分は、魔術知識の追求と己が内に宿る魔力の研鑽にこそあるのだろうに。
 泥棒に向いている魔法使いなんて、さすがに前代未聞だと思う。そうした型や常識に捕われない自由奔放さこそが、魔理沙のいいところなのかもしれないけれど。

 紅魔館の大図書館を預かるパチェやこぁもきっと、同じような手口で蔵書の数々を無断で持ち出されているに違いない。さしもの霊夢にも紅魔館の住人達の苦労が一瞬だけ目に浮かぶようだった。
「固いことを言うなって。今更お互い間接キッスしたくらいで恥じらう仲でもないだろ」
「まったく。湯飲みをもう一つ持ってくるから、そこで待ってなさいよ」
「あいあい」
 この、博麗神社の傍若無人なる客人に対し、霊夢は再度あきれながら奥の台所へと向かっていった。
 当の魔理沙は、書物を読み耽りながらひらひらと手を振って霊夢を見送った。

「魔理沙が好きなお煎餅も持ってきたわよ」
 しばらくして霊夢は新しい湯飲み茶碗と茶菓子を持ってやってきた。そのときだった。
 なにかを察知したように、霊夢の身体が硬直する。
「異変だ……いかなきゃ……」
「お、おい。どうしたんだよ霊夢!?」
「…………」
 そう呟くが先か。
 茶碗と茶菓子を乗せた盆をその場に落とし、何かに急かされるようにお払い棒と神楽鈴、護符とスペルカードとを懐に差し入れる。魔理沙が制止する声も聞かず、そのまま霊夢は何処かへと飛び立っていった。
 ……。
 ……。

 突然飛び立っていった霊夢を追いかけて、茶菓子の煎餅を口元でもきゅもきゅさせながら魔理沙が追いついた頃には、霊夢が妖怪を退治していた後だった。
 その光景を見、魔理沙は思わず口にくわえていた煎餅を落としてしまう。
 博麗神社の巫女、霊夢がその能力を使って倒したのであれば、先ほどまで何らかの悪事を働いていたであろう妖怪達がそこかしこに倒れていた。妖怪達の体躯には幾重にも護符が張り付いている。

 ここまで徹底的に打ちのめしたのであれば、さしもの妖怪とはいえど、確かに二度と悪事を繰り返すことはないだろう。
 その圧倒的な殲滅力。これは巫女としての最低限の義務なのかもしれない。けれど『それ』はなんだろう。
「おいおい……」
 だがそれでも、殲滅するにもほどがあるだろう。
 いったいどこをどうすれば、ここまで徹底的に妖怪を討ち滅ぼせるのか。私がとっておきの魔砲を最大出力で浴びせたとしても、なかなかこうはならない。
「さてと。神社の縁側でお茶飲みの続きをしないと。魔理沙もつきあってくれるわよね?」
 魔理沙の驚きも意に介さず、けろりとした様子で霊夢は言った。装束に付いた土埃をぱんぱんと払いながら、彼女は本当に何事もない笑顔をしながら魔理沙の方を振り返るのだ。

 続きって、もうとっくに夕方じゃないか……沈みかけた太陽の傾きを見ながら、しかし魔理沙はその言葉を飲み込んだ。霊夢が見せる屈託のない笑顔に、どうしようもない違和感を覚えていたからだ。
 霊夢がせっかく誘ってくれているのだから仕方がない。そうポジティブに受け止めることにし、魔理沙はお茶飲みの続きにつきあうのだった。

       ◆ ◆ ◆

 ……それからというもの。
 少女は奇妙な夢を見るようになっていた。

「お日さまが、みえるの」
「雨が降らなくなるの。いねがいっぱい枯れちゃうの」
「いまは、たねをまいちゃだめ」

 そんな予言めいた言葉を繰り返す。
 夜。寝ている間に時折見る夢の中に、そんな映像が見えると少女は言うのだ。
 所詮は子供が見た夢の話なのだと、里の大人達は皆一様に笑い話にしてしまう。
 それでも夢の内容を訴えかける少女のことを、いつしか里の物達の誰もが物遅れと馬鹿にするようになり、耳を傾けてすらもらえなくなっていた。
 しかし少女の母親だけは、最後まで少女の唯一の理解者であろうとして、真摯に少女の話を聞いていた。

 数ヶ月が過ぎた頃。里では農作物の不作が続いていた。
 その年は例年に比べてまったくと言えるほど雨が降らず、うだるような日照りが続いていたためだ。
 空を飛びたいと語り、自分が見た夢の話をする少女のことは、いまや里中の誰もが知っていた。子供が言うような話だ。夢があっていいじゃないか、最初の頃は誰もが少女のことを好意的に見守っていた。
 しかしこうまで日照りが続くとなると。

 毎日の暑さと稲の不作への不満が募っていたのだ。そうした不満が疑心暗鬼に成り代わり、そこからあるひとつの噂が流れるまでにはあまり時間はかからなかった。

       ◇ ◇ ◇

「…………ん」
 朝日が昇っていた。霊夢は布団から身体を起こし、簡単な身支度を整える。
 霊夢にとって朝一番の日課だ。
 竹箒を使って境内を掃き、屋敷の廊下に雑巾がけを、てきぱきとした動作でこなしている。
 魔理沙などは「それがありのままの自然の姿だぜ」とうそぶきながら掃除ひとつ行わず、自分の工房を散らかり放題にしているが、霊夢にとっては天候の愚図つく日や、異変が起こったときを除いて、毎朝きっかり同じ時間に起きて、規則正しく日課をこなしていく。
 規則正しく行動し、生活するスタイル。

 これは博麗の巫女たる霊夢にとっては極々当たり前のことなのであった。

       ◆ ◆ ◆

 それは夜のことだった。
 一向に雨の降る気配がないことに耐えかねて、たいまつを携えて大挙する人里の住人達。
 皆一様に鬼気迫った形相で、ひとり怯える娘を睨みつけていた。
「鎮めろ」「鎮めろ」「鎮めろ」「鎮めろ」
 繰り返される、呪詛めいた、里の者達の怨嗟にも似た声。里の人々の、まるで何者かに取り憑かれたかのようなその表情。
 少女は信じられないといった顔で彼等の顔を見る。

 恵みの雨が降らぬのは神の不興を買ったから。神の怒りを鎮めることができれば、種を蒔いた作物は元気に実る。そのためには生け贄を捧げる必要がある。それは生娘であればなおよい。なによりあの奇怪な娘には散々困らされてきた。神に捧げる生け贄として実にちょうどよい。このようなことで、里の皆の食い扶持が脅かされるなどあってはならぬ。神の赦しを得ることで、われらの明日をつかみ取るのだ。

 神に赦しを請うための儀式とは名ばかり。これは不安に囚われ、暴徒と化した住人達が各々勝手に思い描いた集団妄想を鎮めるための『儀式』でしかない。
 その一部始終をどこかでみつめる神≠ニやらも、そんな彼等の行く末を哀れんだのであろうか。

 ああ。私は空を飛びたかった。観たもの、聴いたもの、そのすべてをみんなに伝えたかっただけなのに。
 すがりつきたい母親も、いまは里の者達によって引き離された場所にいる。
 母の衣服には傍目に見ても明らかな乱れがあった。その意味はまだ幼かった少女が知る由もない。
 最後まで少女の理解者であったはずの少女の母親。そんな彼女は嘆きながら、誰にともなく「ごめんなさい、ごめんなさい」と呟いていた。

 数日後。『儀式』は滞りなく終わっていた。
 せめてこうなるのがあと数日早かったなら。
 里の者達の怨念にも似た怒りと哀しみのすべてを洗い流すかのように雨が降り注いでいた。それは文字通りの後の祭り。
 ほれ見たことか。一時はどうなることか。娘がいなくなって清々した。やはり元凶はあの娘だったのだ。
 里の住人達は口をそろえて言う。
 そうすることで、幼い少女の命を奪ってしまったことへの免罪符としているかのようだ。

 雨の恵みによって作物も次々と実りはじめ、例年にないほどの豊作となった。そんな彼らはこのことを、娘を生贄に差し出したことで神の赦しを得られたのだと信じて疑うまい。
 ふんだんに採れた農作物に彼らは、
神≠ノ対する感謝の言葉を捧げながら、毎晩のように宴会を開いては酒盛りに酔いしれていた。

       ◆ ◆ ◆

「ん……」
 生贄として差し出されたはずの娘はそこで目を覚ました。胡乱な眼で身体を起こし、視線を這わせるようにゆっくりと辺りを見渡す。つい先程まで娘を取り囲んでいた里の者達も、母の姿も、そこには見当たらない。
 ここはどこだろう?
 さっきまでのあれは、夢の中のお話で、夢から覚めた現実なのだろうか。
 それとも、あれはいまでも現実に起こっていて、私の心だけ夢の世界にやってきた? あれ? 夢と現の境目があやふやすぎて目が回るようだ。
 ひょっとして神隠しにあったのだろうか……ということは。あれから私は、神様にさらわれてしまったということになる。
 ここは建物の中? 陽の光も月明かりも差しこまず、葉の擦れる音すら聞こえないここはどう考えても外ではない。
 見ると、空間の中央に大きな鏡が祀られている。いつだったか、母と一緒に巡ったお祭りのときに見た神社の鏡の形にそれは似ていた。

 気がつくと、紅と白で彩られた装束をまとう女性がひとり、そこに立っていた。
「おねえちゃん、だぁれ?」
 少女は尋ねた。
「わたしの名前は、博麗靈夢よ」
「はくれい、れいむ?」
 気がついたら知らない場所で寝かされていて、目の前には知らないお姉ちゃんがいるのだ。よくわからないけれど、せっかくお話できる人が見つかったんだもん。と少女は思い出したように女性に訊ねることにした。
「私のお母さんは? さっきのこわい人達は? みんないなくなっちゃったの?」
「……」
 その質問に、しかし靈夢と名乗った女性は答えない。
「あなたは前に、空を飛びたいって言っていたわよね」
 それは母の前で語った自分自身の夢。そのことを知っているなんて。
 この、はくれいれいむってお姉ちゃんは、かみさまなのかな。ひょっとして私の夢をかなえてくれる? 少女はふとそんなことを思った。
「うん。わたしね、お空を飛んでみたいの」
 少女は何の逡巡もなく答えてみせる。
「……」
 それなりの覚悟を決めてきたつもりなのに、いざ目の前で言われると心がじくりと痛む。
「あれ……?」
 返事が返ってこないことに少女はどうしたらいいのか分からないようだ。
 そんな戸惑う少女を見て、巫女ははっとする。巫女は再度、少女の心を確かめる意味を籠めて問いかけた。
「ねえ。あなたは本当に空を飛びたい? 空の意味を知って、その先にある運命を背負うことになる覚悟がいるとしても、それでもあなたは空を飛びたい?」

 しばらくの沈黙の後、再び声が響く。
 少女の心を試す、それは問いかけであった。そのような問いかけをする自分自身を顧みて、巫女は再び心が痛んだ。しかしこれは、巫女としてやらねばならぬ務めである。やりとげなければならない。その問いかけの深奥に籠められた意味や思惑など、いまだ幼き少女が知る由もないのだが。
「……お空を飛べるようになるの?」
「ええ。その代わりとしてこの博麗神社の、いえこの幻想郷に仕える巫女として、あなたは生まれ変わる覚悟がある……?」
「みこ……? みこになったら、お空を飛べるようになるの?」
「……」
 靈夢は何も答えない。
 私は目の前にいる無垢な少女に、なんという運命を歩ませようとしているのか。
 そう思うだけで胸が張り裂けそうになる。
 言葉が続かない。けれど続けなければ、彼女は博麗の巫女としての使命を終えることが出来ないのだから。
 その重々しい沈黙も、少女の元気な声をもって破られる。
「じゃあ、なりたい! お空を飛べる、みこさんになりたい!」

「……そっか」
 この子は昔の私にあまりにも似ている。
 それは純粋な子供ゆえになせる業なのか。
 あるいは巫女の資格を持つ者には皆そうした部分を持っているというのだろうか。
 その答えは……自らが歩んだ浅い歴史の中で見出せようはずもない。

「あなたに、博麗霊夢の名前をあげる」
「わたしが、れいむ……?」
「そう。今日から貴女が、新しい霊夢になるのよ」
「れいむになると、お空を飛べるの?」
 ……この少女は、あまりにも無垢だ。
 空を飛ぶことの意味すら知らずにここまでやってきたのだから。
 だが、だからこそ、空を飛べる能力を持つ巫女に相応しいのかもしれないけれど。
 空を飛べる能力と、巫女としての運命。
 そのジレンマをあるいはこの子なら。

「……」
「おねえちゃん……?」
 いきなり押し黙ってしまったので、少女は心配そうな顔をしてみあげる。
「ええ。空だって飛べるわ。その能力で幻想郷の一番高いところへだっていけるのよ」
 自身が歩んできたその運命を思えば、涙だって浮かぶだろう。
 しかしその涙を少女には絶対に見せるわけにはいかない。靈夢は必死に涙をこらえた。
「それじゃあ霊夢。頭のてっぺんをそっと前に出して?」
「うんっ」
 無垢な少女は何の躊躇いもなく頭の先をつきだす。
 巫女、博麗靈夢のてのひらが、少女の額にそっとあてられた。
 ぽぅとあたたかな光が注ぎこまれる。
 その時、なんだろう。少女の身体から何かが抜けていく感じがした。
 まるで、いままで大切に持っていた何かをなくしてしまったような感覚。
「…………」
 それがなんなのか、いまの少女には思い出せる由もなく。

「あれ? あれ? 身体が浮いてる……」
 代わりに少女の身体に不思議な浮遊感が訪れる。
 ふわふわとした奇妙な感覚。錯覚なんかじゃない。実際、床に足がついていないのだから。
 まるで人間が普通に感じるべきあらゆる感覚がなくなってしまったみたいだった。

 ――博麗神社の巫女とは代々受け継がれていくもの。
 旧き靈夢から、新たな霊夢へと。
 それはあくまで、幻想郷のバランスを保つため。
 きっとあなたには巫女の能力を受け継ぐにふさわしい資格があると思う。

 あなたは、その課せられた運命に耐えられる?
 ううん……耐えてもらわなくちゃいけないかな。あなたはそれだけの能力を手に入れたのだから。
 あなたは望んだ。私は与えた。いまやったことはそれだけの事。
 物事の持つ意味なんてそんなもの、結局自分自身で見つけ出すしかないのよ。
 いまはまだ言葉の意味が解からなくてもいい。けれどいつか、そのことに気づかされる時がやってくる。
 いい? 忘れないで。
 その時が訪れたら……あなたにしか導き出せない、その答えを……。
 ……。
 ……。

 ふわふわと浮かぶ感覚に慣れてきた頃には、巫女の姿は消えていた。
 ふと気がついたように自分の格好を見ると、普段身に着けている着物ではなく、靈夢が着ていたような紅白色の巫女装束を身につけていた。

       ◆ ◆ ◆

 宴もたけなわの晩の頃にそれは起こった。
 突如、凶暴な妖怪の群れが怒涛の如く押し寄せてきたのだ。
 彼らは明らかに人間に対して友好的な妖怪ではないようだった。
 人間達が毎晩のように宴会模様を開いていた、その匂いを嗅ぎつけたからかもしれない。
 男達は皆、浴びるような酒に酔い潰れて千鳥足。そんな状態で妖怪に抗しきれる道理はない。

 酒池の楽園だったそこは瞬く間に阿鼻叫喚の地獄へとなりかわる。
 一方的な蹂躙が行われた。
 その光景は、幻想郷をみつめる神≠ナすら、目を覆いたくなるほどの惨状だったに違いない。
 悪夢のような、しかし夢ではない現実。
 半狂乱となり、我を忘れて逃げ惑う里の者達。
 妖怪達は人間の宴から奪い取った酒を飲み、馳走を食らう。
 その隙に武器を手に立ち向かおうとする者もいた。しかし、それすらも妖怪達にとって児戯にも等しい余興に変わるだけ。

 せめて酒の酔いに痛覚を麻痺させたまま逝く事が出来ただけでも幸いであろう。
 その甚大な被害に、人里は半刻もせぬうちに壊滅寸前のところまで追い詰められるのだった。
 娘の呪いだ。と見当違いな事を口にする者もいた。
 生贄として差し出された少女の母親だった女性もそこにいた。その腹部はわずかに膨らんでいる。ただ一人の娘を亡くし、生きる希望をすっかり失くしていた彼女は、年齢にそぐわぬほどにひどく痩せこけ、まるで老人のようにやつれていた。
「ああ……神様。これが私達が犯した罪の報いなのですか。娘を守りきれなかった、不甲斐ない私だけを罰してくださればよろしいものを!」
 ひとり娘を守りきれず、今度は生まれ育った里が妖怪たちによって壊される。
 凄惨な光景を目の当たりにして、彼女は神に祈った。

 果たしてその祈りは届けられたのだろうか。空から青白く光を放つアミュレットが降り注ぎ、凶悪な妖怪達が次々に討ち滅ぼされていく。
 しゃん、と鳴り響くのは真鍮でできた神楽鈴の音色。
 そこに現れたのは。

「罪の報い? それは違うわ」
 巫女装束に身を包んだ、ひとりの娘……いや、博麗神社に仕える巫女、博麗霊夢の姿であった。
 その面影には見覚えがあった。
 だがそれより先に、仲間を倒され逆上した妖怪達が巫女に向かって一斉に襲いかかってきた。徒党を組み、弾丸のように押し迫ってくる。
「すべては……」
 娘は博麗の巫女の名に相応しい身のこなしで躱し、護符によって打ち倒す。
 容赦を持たぬ、それはまさしく符の雨だ。
 打たれる雨の中、そのしずくの一滴にも濡れずにいられる術などありえないように。彼女、巫女の能力を前に逃れる術などありはしない。
 己の力量と比べて明白なまでの弱者しか襲えぬ下等妖怪の群れと、弱者であろうと強者であろうと関係なく打ち倒せる巫女との決戦。その結果は歴然にして圧倒的だった。
「この人里を、幻想郷の平穏を守るために、仕方がなかったことなのよ」
 里を荒らしていた妖怪達は瞬く間に、たった一人の巫女によって一匹残らず討伐されたのだった。

「お、お前は……生きていてくれたのかい」
「…………」
 女性は巫女に向かって問いかけた。
 里の他の者達も、自分達の故郷を救った巫女の姿にはあまりにも見覚えがありすぎた。
 まさか、あの巫女が我々が生贄の儀式に捧げた娘だったとしたら、妖怪を倒されたいま、今度はその能力を自分たちに向けるのではないかと脅えていたのだ。

 自分達ならきっとそうする……正しき復讐が成り立つのであれば。自分達の里の安定のために、それだけの事をしてしまったのだから。あくまで自己保身のための考えに囚われる里の者達……だが彼等の立場を思えばそれも道理といえば道理であろう。
 里の者達の様子に、しかし少女は物憂げな視線を向けたまま何も答えなかった。
「私は博麗神社に仕える巫女、博麗霊夢だから」
 言うと彼女はふわりと宙に浮かんだ。彼女のその表情には、いかなる情念も籠められてはいない。
 あのときのように、娘はどことも知れぬ空を見やる。知ることのできた空の意味を、かみしめるように。その姿を見て、里の者達は皆一様にはっとする。

 あの日、母に向かって夢を語った娘。空を飛びたいと語った娘。そんな娘の姿と、巫女の姿がいま、完全に重なる瞬間だった。
「だから、さようなら……お母さん」
 それだけを言い残すと、博麗霊夢は自らが得た能力「空を飛べる能力」を使い、己が住まう神社へと飛び立っていった。
「あの子はとうとう夢をかなえたんだね。よかった。よかった……」

 少女の母親は巫女の後姿を。
 親の元を離れ、空を飛び立っていく娘の後姿を、地平線の向こうに消えるまでただ静かに見送っていた。

 ……。
 ……。

       ◇ ◇ ◇

「お母さんは、いまでもお元気で過ごしていますか?」
 境内の掃除をしながら、どこともなく空の景色を眺め、独り言のように呟いた。
 いまはもう遠い日の郷愁に、彼女は想いを馳せる。
 幼い日に見たあの遠い空は、巫女として生まれかわった今ではこんなにも近い。手を伸ばせばすぐ届く場所にそれはある。
 なのにどうして、こんなにも寂しい気持ちにさせられるのだろう。
「…………」
 しかしその郷愁も長くは続かず、気がついた頃にはいつも通りの霊夢に戻り、さきほどまで抱いていた郷愁など最初から何もなかったように黙々と境内の掃除に取りかかっていた。

「……あ、また異変が起こってる」
 博麗の巫女である彼女は、異変が発生したか、どこで発生したか程度のことが直感によって感じ取れるのだ。
 それが彼女に課せられた能力の一端。
 異変を感じ取るや、即座に手にしたホウキをその場に放り出す。縁側にすでに用意していた神器と護符とを携え、今日もまた、異変が起こった場所へと飛び立っていくのだ。

 しかしそんな彼女とて、異変を起こした妖怪すべてを力づくで成敗しているわけではない。
 人間がなにかしらの問題を起こした場合と同じく、話し合いで解決できることならば、いたって平和的に解決しようと努力しているのだ。話し合いで解決しない場合にのみ、巫女として鍛え上げた能力を駆使し、弾幕勝負で決着をつける。
 いわゆる目には目を、という道理である。
 最近では霊夢の巫女としての能力が上がってきたのか、大小問わず様々な異変を感じ取れるようになった。
 空を見上げれば、雲の流れを眺めれば、ただそれだけで、異変の起きた場所と時間がわかる。

 そうして一件。また一件と。
 異変が起こるたび、霊夢は単身出向いてそれらを解決へと導いていく。
 朝も昼も夜もお構いなし、眠る時間すらおろそかにして、彼女はがむしゃらに異変を妖怪を退治する日々を送っていた。

       ◇ ◇ ◇

「おーい霊夢。いないのかー?」
 魔理沙がいつものように図書館から持ち出した(本人はあくまで借りてきたと言い張る)魔法書を持って神社にやってきた。

 さっきから何度も何度も霊夢の名を連呼しているが、その呼びかけに返事はない。
「……なんだ、またいつもの異変さがしか? おじゃまするぜー?」
 留守にしていることを確認すると、何の遠慮もなく屋敷にあがりこんだ。
 勝手知ったる人の家。そのままキッチンにやってくると、手馴れた手際でお湯を沸かし、茶葉と煎餅の入った戸棚を空けて、できあがったものをお盆に乗せて縁側へと運ぶ。

「へへ……あいつが買ってくる煎餅は格別に美味いんだよなぁ。ぽりぽり」
 魔道書をぱらぱらとめくりながら、盆に盛りつけた煎餅を一枚つまんでかじる。
「うめぇ。やっぱりタダで食う煎餅ほど美味いものはないぜ!」
 超理論であった。タダで持ち出した魔法書と、タダで食べるお茶と煎餅に本心から舌鼓を打つ。やはり彼女には泥棒としての素質があるのだろうか。
「空はこんなにも平和そのものなのに、今日もどこかで異変が起こってるなんてやっぱり信じられないよなぁ……」
 南陽の差し込む神社の境内。
晴天の空を眺めながら、魔理沙はまったりと読書の時を過ごす。そんなひとときを魔理沙は魔理沙なりに満喫しているようだ。

 あたりの景色を眺めていると、地面のある場所に不自然な紅白の姿が見えた。目を凝らして見てみると……。
「……お、おい!」
 霊夢の姿を中庭の一角に見つけた。
「どうしたんだよ。しっかりしろ、霊夢っ」
 あたりの地面には巫女の七つ道具が無造作に散乱していた。霊夢に呼びかけても返事はない、どうやら意識を失っているようだ。
 彼女は額に大量の汗を浮かべており、苦しそうに息を切らしていた。
 ……。
……。

「ん……あれ? 魔理沙?」
 霊夢がどうやら気がついたようだ。
 ったく、心配させやがって。毒づきながらも、魔理沙は内心ほっとしたようで、思わず安堵の吐息を漏らす。
「ここ、どこ?」
「お前の屋敷の寝室だぜ」
「そう……私、また意識を失っていたのね」
 また、って……霊夢は以前にもこんな状況になったことがあったのか。こいつはどれだけ無理を重ねているんだ。
 こいつ……霊夢との付き合いは結構長いつもりだ。正直いって親友……いや、少なくとも友達と呼べる程度の関係にはなっているはずだ。少なくとも魔理沙自身はそう考えている。
 なのに、私の知らない霊夢をそこに見た気がした。
「まぁとにかくだ。病人はこれを飲んでしっかり休んでおくんだぜ」
 魔理沙は一杯のお椀を霊夢に手渡した。お椀にはあたたかいスープのような物がなみなみと入っており、そこから立ちのぼる湯気が、食欲をかきたてる匂いを運んでいる。
「これ、何?」
「私がつくったキノコスープだ。栄養万点。飲めばたちどころに元気が出てくるぜー」
「わ、なんだか私が見たこともないキノコが入ってる。これを飲んで本当に大丈夫なの?」
「おいおい。私の料理の腕を信用してないだろ。この霧雨魔理沙にキノコ料理をさせたら、この幻想郷でも最強の腕前だってチルノのやつが保証してくれたんだからな」
「保証人の名前に不安を感じずにはいられないけど……ありがたくいただくわね」
「おうっ。最後の一滴までありがたく飲むんだぜ」
 霊夢はふぅふぅと息を吹きかけて冷ましながら、静かにお椀を傾けた。一見どろりとした食感のスープを口に運び、ゆっくりと味わうように嚥下していく。
「……おいしい」
「だろ? この霧雨魔理沙自慢の逸品だからなっ。おかわりもあるぜ。そのときは遠慮なく言ってくれよな」
「ありがとう。魔理沙」
 スープの具材として使われているキノコの効能なのか、ほんのりと赤みの差した顔で感謝の気持ちを言葉にする。こういう顔の霊夢を見るのは、長い付き合いの中でも今日が初めてな気がする。
「お、おう……これくらいお安い御用だぜ」
 そんな顔でみつめられると、さすがに照れる。
 いくら女同士といっても、いや女同士だからこそ、だ。
 思わず赤面してしまう私の顔を霊夢に気づかれてはいないだろうか。そんなことで頭の中がいっぱいになる。
 そんな考えを打ち消すように、さっき読んだ魔法書の文節を頭の中で暗唱したり、独自に編み出した魔法理論を頭の中でぐるぐる展開させつつ「おちつけー。おちつけー」と心の中で自分に言い聞かせていた。
「???」
 そんな魔理沙のささやかな抵抗も、霊夢にとっては本当にささやかなものだった。
 なにやってるの、魔理沙? とでも言いたげにジト目の視線を送っていた。見事に空回りしていたことに気づいて、魔理沙はなにやってるんだぜ私、と軽い自己嫌悪に陥るのだった。

「魔理沙ってけっこう普通の女の子よね」
「……なんだよそれは。私のことをからかっているのか」
「莫迦ね。素直にうらやましいって思っただけよ」
 ……。
 あの霊夢が私のことをうらやましいと言うなんてな。
 私は、霊夢のその天才的な能力をうらやましいと思っていたことがあったけれど、本人には本人なりに悩みがあるってことか。
 しかしあの霊夢が私のことをうらやましい……か。そんな言葉、初めて聞いた気がする。
「……ごほっごほっ」
 霊夢は唐突に咳きこんだ。
「お、おい大丈夫か?」
「大丈夫よ。これくらいへっちゃら……ごほっごほっ」
 そういう霊夢の掌には血がついていた。
「血が出てるじゃないか。大丈夫なわけがないだろっ」
「いいの。こんなの、とっくに慣れっこだから……っ!」
「慣れるもんじゃないぜそんなこと」
「ごほっごほっ」
 魔理沙は霊夢が落ち着くようにと、背中に手をやってゆっくりと撫でさすっている。
 しかし背中を撫でさするたび、霊夢の咳がだんだんひどくなっていく。
「霊夢。しっかりしろよ。霊夢! いったいどうしちまったんだよ」
「……離して!」
 心配して声をかける魔理沙に、霊夢は魔理沙が背中をさする手を思い切り振り払った。
「っ!」
 その一瞬の出来事に、魔理沙は信じられないという目で霊夢を見る。
「霊夢……?」
「……えっと、魔理沙。そういうつもりじゃなくって……うまく言葉にできないけど……その、ごめん」
 うつむいて謝る霊夢の姿に、魔理沙はこれ以上責める気にもなれず、そのまま霊夢に背中を向けた。
「待って、いま気持ちを落ち着けるから」
 霊夢はふぅーっと大きく息を吸い込んで、深く深く深呼吸をする。自分の中に溜まった悪い気を吐き出すように、神社に流れる静謐な空気を取り入れるように、頭の中でイメージしながら深呼吸を繰り返す。

 いったいなんだったんだろう。いまのは……。魔理沙のほうは跳ね除けられた手を見ながら、さっきの霊夢の行動について考えていた。
 霊夢の言い方を考えれば、本心から拒絶されたわけではないらしい。そっか、私が嫌われてしまったわけじゃないんだな。
 そうだと知り、魔理沙はほっとする。
 いっぽう霊夢の方も、いましがた行った呼吸法のおかげもあって、咳もだいぶ落ち着いたようだ。
「もう大丈夫。本当にごめんね、せっかく看病してもらってたのに」
「いや、いいぜ。咳が収まったのなら何よりだ」
「……あ」
 そのときまた、霊夢の直感になにかひっかかる感覚が走った。
「あ……またどこかで異変が起こったわ。すぐにいかなきゃ」
「馬鹿。そんなことしてる場合かよ。お前はまだ本調子じゃないんだから、快復するまで黙って休んでないとな」
 それでも異変解決に行きたそうにする霊夢を、魔理沙が大仰な手振りを交えて静止する。
「私が寝込んでから数えて、大きなもの、小さなもの、あわせて二五件の異変が起こったわ」
「よくそんなにわかるな。私にはさっぱりだぜ」
 しかしそれが道理なのだ。

 幻想郷で起きた異変を解決しやすいように、異変の起きた時間と場所が瞬時にわかる。
 博麗の巫女とは元来、そういうものなのだから。
「……やっぱり私。心のどこかで異変を解決しなきゃって思ってる。けれど魔理沙は、ここから出ることを許してくれないのよね」
「当然だぜ。多少の異変くらい、私が行って解決してきてやるぜ? 私が代わりに解決してくりゃ、お前も大人しく休んでいられるんだろ?」
 こくこく、と霊夢はうなずく。
「うん……魔理沙のその言葉で、巫女のほうの私も安心してくれているみたい」
「それはなによりだぜ。霊夢はそこでいい子にお留守番しておくんだぜ?」
「わかったわ。ありがとう」
「へへっ……さぁて、それじゃあひとっぱしり行ってくるかー!」
 長い間連れ添ってきたホウキにまたがって、魔理沙は空へと飛び立った。

 霊夢は見送ったあと、彼女が飛び立った軌跡をみあげる。
 魔理沙もまた、霊夢とは違う意味で空を飛べる力を手に入れた少女だ。思いに任せて自由に空を飛ぶその姿を見て、「彼女」は正直うらやましいと感じる。
 自分≠烽ワた、空を飛べる能力を手に入れた少女だ。にもかかわらず、どうして魔理沙のことをこんなにも遠いと感じるのだろう。彼女と、どんな違いがあるというのだろう。
 ……、……。

「……」
 しかしそんな後姿に馳せた思いさえも、唐突に靄が懸かったように消えてしまう。
「あはは……やっぱり駄目みたい。私」
 自嘲めいた笑いを浮かべると、自身の二の腕を抱きすくめ、身体中をぶるりとふるわせるようにして、霊夢は元気なくうつむいてしまう。

 その掌には、頬から流れ伝った雫が落ちはじめていた。

       ◆ ◆ ◆

 夢ならざる夢を見ていた。

 ……これで何度目の景色なのか。
 視界に広がるのは、自在に空を飛びつつ異変を解決していく巫女達の姿だ。彼女達にも自分と同じ感じがする。きっと自分より遥か昔に「そう」であった先達たちに違いない。
 違いない、と推測の域を出ない言い方なのは彼女達と自分、互いに言葉を交わす術はなく、ただ遠目に見ることしか出来ないからだ。

 空を飛ぶ能力とは、この『霊夢』にとって夢と憧れの象徴である。だからこそ、つかみとれた能力とも言い換えられる。
 さりとて本質は調停者(バランサー)。幻想郷の裡を自在に飛びまわる彼女たちにとっての、それこそが掟。

 そこには自身の心が存在することなど許されない。幻想郷における異変の解決こそが彼女達に課せられた最優先事項。
 彼女たちの表情の裏に隠れる苦悩の声が頭の中に響いてくる。その想いは痛いほどに分かる。いまの自分がまさにそうなのだから。

 囚われのアイロニー。己の在り方に逆らいながら、己の存在を求め続ける矛盾。彼女達の隘路には、いまだ終息が訪れることはなかった。

 ――今代ノ博麗ノ霊ハ、ナニヲ夢ミル?

 いつしか彼女達の望みは、その一点に懸けることのみに尽きていた。
 皮肉にも彼女たちのその望みこそが、後代にとってこの上ない呪いとなって降りかかるとも知らずに。

 やがて訪れる、忘却の靄。
 これが頭の天辺から足の爪先までを覆ったとき、ここで観たすべて、想いを馳せたすべてが視界から消えうせ、最初から何事もなかったかのように、その意識が現実へと引き戻されていくのだ。

       ◇ ◇ ◇

「おっ、起きたか。ちょうどいま採れたて新鮮なキノコスープができあがったところだ。メシにしようぜ」

 夢からさめた頃には、魔理沙が台所でスープをコトコトと煮込んでいるところだった。
 魔理沙特製の味つけが為されたスープからは、食欲をかきたてる濃厚な馨りが匂い立っている。
「夢を見ていたの……とっても怖い夢を見てた」
「ははは。さすがのお前でも怖いと思うことがあるんだな」
 夢の中で起きた出来事を話す霊夢の言葉に、魔理沙は明るいのりで笑い飛ばす。
「……、私……を、…………だから……」
 それからぶつぶつと、霊夢はか細い声で独り言を呟いていた。
「♪〜♪♪〜」
 鍋を煮込んでいる魔理沙はそんな霊夢の様子に気づく由もなく、鼻歌まじりにスープをかき混ぜている。

「!! 異変が……また起きた……」
 霊夢はどこともしれない虚空をただ見つめる。そう口にする彼女の瞳は光を映してはいなかった。
「今日のキノコスープも格別だぜ……っておい?」
 布団からむくりと起き上がり、ふらつく足取りで縁側に立つ霊夢の様子に、魔理沙は一瞬たじろいだ。
「だいじょうぶ。これくらい、なんともないから……」
 まるで何かに取り憑かれたように口にする。そんな彼女の身体は全身がぶるぶるとふるえ、いまにも倒れそうだ。
 大丈夫なわけがないだろ。そう言葉にしたいのに、しかし尋常ではない霊夢の様子に魔理沙は言葉が出ない。
「あはは。異変……異変を解決しないと……」
 まるで夢遊病者のような足取りで歩いている。帯をほどいてしゅるり、と寝間着を床に落とし、巫女装束に着替えようとしていた。
 魔理沙ははっとして、霊夢の身体を後ろから羽交い締めにする。
「……しっかりしろ。異変だったら私が代わりに解決してやるから!」
 虚ろな目の霊夢の耳もとで魔理沙は一喝する。霊夢はしばらくの間じたばたと暴れていたが、やがておとなしくなって。
「……はっ。私、またあんな……」
 どうやら正気に返ったようだ。
 霊夢はさきほどまでの様子とは打って変わって、その目からぽろぽろと涙を零していた。
「やだ。もういやだ……こんなこと……」
 魔理沙の胸元に縋るその身体は普段の霊夢からは想像もできないほどに弱々しくふるえていた。
「お願い魔理沙。この『私』を助けて、助けてよう……!!」

「……そうか。そんなことがあったのか」
 いままでに見た一連の夢、巫女として与えられた使命のことや、『掟』のことを、霊夢は包み隠さず魔理沙に打ち明けた。
「正直普通に考えたら、眉唾な話だと思うけれど」
「いや、私は霊夢の話を信じるぜ。お前のことは、その……友達だと思ってるからなっ」
「ありがとう。けれどこういう時に私、いったいどうしたらいいのか分からない」
 魔理沙がかけてくれた言葉に、しかし霊夢は戸惑う。
 他人に、友人にすら特定な興味を持たなかった、興味なんて持てなかった霊夢だから、こういう時にどうすればいいのか。それこそ分からない。
「そうだなあ……じゃあ、こういうのはどうだ?」
 それは魔理沙の突拍子もない提案だった。
「私のことを、いまから私のことを好きになれ」
「……はい?」
 魔理沙からのその申し出に、霊夢は一瞬目が点になる。
「私はお前のことが好きだ。だからお前も、私のことを好きになるんだ」
「私が、魔理沙のことを、好きになる……?」
「ああ」
「……私が、誰かのことを好きになっても、いいの?」
 なにかを確かめるように霊夢は問いかける。
 本当に『私』がそんなことをしてもいいの? と言っているように魔理沙の耳には聞こえた。
「あたりまえだろ。それに大昔から言うじゃないか。恋する乙女は無敵。ってな?」
「じゃあ……私からのお願い、きいてくれる?」
 ……。
 ……。

       ◇ ◇ ◇

「魔理沙」
「……ん?」
 二人の傍らには、その途中で霊夢が暴れださないようにと魔理沙が古道具屋から『仕入れてきた』一条のロープが放られている。手首についたロープの擦り跡をさすりながら、霊夢は魔理沙に言った。
「ありがとう。これで私、決心がついたわ」
「ん? なんの決心だよ」
「私が私でいられるための決心」
「よくわからないけど、それで霊夢が元気になってくれたなら何よりだぜ」
「……うん。私のために、魔理沙は身体を張って看病してくれたんだもんね。本当にありがと」
「…………」
「?? どうしたの魔理沙?」
 身体を張って、という言葉を耳にした途端、魔理沙はビクンと身体をふるわせ、顔を耳まで真っ赤にさせている。
「……もうちょっと霊夢は、言葉の意味をいうものを考えてモノを喋ったほうがいいと思うぜ」
「どういう意味よ。それは」
「言葉通りの意味だぜ」
 本人が自覚していないのだから猶更たちが悪い。これじゃ自分ひとり空回りしているようで莫迦みたいじゃないか。
 確かに言いだしっぺは私だけど……『友達』の関係から急転直下、突然あんな申し出をしてきて、こういう関係にまで発展するなんて。
 霊夢は本当の意味で筋金入りのようだと思った。
「ねえねえ。どういう意味なのか教えなさいよ」
 魔理沙がお茶を濁すので、しつこく食い下がってくる霊夢。その勢いにさすがの魔理沙も思わず押し負けそうになる。
 霊夢って、他人には興味のないやつだって思っていたのに。ひと皮剥けたらこんなに好奇心旺盛な女の子だったんだな。苦笑しつつも、思わず顔がにやけてしまう。

 考えてみたら、こんな霊夢の一面を知っているのは幻想郷広しといってもこの私だけだ。
 アリスも、レミリアも紫も萃香のやつも知らない。私だけが知っている、目の前にいる霊夢の姿。
 或いは、あのスキマ妖怪ならその辺のスキマの陰でこっそり覗き見しているかもしれないが。それならそれで私達のアツアツっぷりを見せつけてやればいい。そう思うとある種の優越感も沸いてくるものがある。

「わっこらっ! そんなに胸を当てるなって」
「当ててるんじゃなくて当たってるだけでしょ。だから、さっきのはどういう意味なのよ〜」
 うれしはずかし。霊夢はさっきから魔理沙の腕を引っ張っては揺さぶっている。
 普段どおりであれば、なに恥ずかしいことをしてるのよ、と自分を責めたくなるようなことをしているのに、いまの霊夢はそのことに気づかない。魔理沙は魔理沙で、まんざらでもない様子だったが。
「……よーしっ。それじゃあさっくりと異変解決にいってくるかー!」
「えーっ……」
 自分の質問に答えず、そそくさと異変解決に向かおうとする魔理沙に、霊夢は駄々っ子の仕草のように指を咥えてむーっとしている。
「なぁに、すぐに帰ってくるさ。それまで霊夢は布団の中でいい子にしているんだぜ?」
「……ん。わかった」
 言って魔理沙は霊夢の額にキスをした。

 魔理沙は黒白の三角帽子を目深にかぶり、異変の起きた場所の書かれたメモをひったくるようにつかむと、そのまま全速力で飛び立っていった。

 ……それからしばらくの間。
 看病の傍ら、霊夢の能力を使って異変の起きた座標を特定しては、したためたメモを頼りに魔理沙が妖怪退治をこなす毎日だった。
 魔理沙にとっては新しく覚えた魔法の絶好の練習台になるのであり、まったく苦になるどころか、退治の数を競うように異変を解決してきては霊夢のところへ戻り、次の異変を求めて再出撃する。ということを繰り返していた。
 その甲斐あって、霊夢も日に日に回復してきている。
 魔理沙が毎日飽きずにキノコ料理ばっかりを作るので、腹に据えかねた霊夢が「当番を決めて料理を作るわ!」と顔を真っ赤にして言い出すくらいの元気っぷりだ。
 それに心なしか、ほんのりと自然な笑顔を見せるようにもなってきたみたいだ。
 けれど、魔理沙に隠れたところで(とはいっても魔理沙にはバレバレだけれど)翳りのある表情をしたりしていたのではあるが。

       ◇ ◇ ◇

 そんなある日のこと。
「――娘よ」
 『そのとき』まで身体をしっかり休めておこうと思った束の間だった。脳裏に重く響くその声。
 それはもうやってきたというのか。
 『そのとき』というのは、思った以上に早い時期に訪れるのが常だが、これはあまりにも早すぎではないか。
 幻想郷の神様というのは、つくづく人遣いの荒い御方らしい。おかげで魔理沙とひとときを過ごした余韻に浸る暇もない。
 ちょっとくらいは人間のペースに合わせてほしいものね、と霊夢は心の中でごちた。
「娘よ。我が声が聞こえておるな?」
 そんな霊夢の心情もお構いなしに声は告げる。

 記憶の糸を辿るならば、それは巫女としての能力をもらった『そのとき』、或いは幻想郷のどこかで異変が起こった『そのとき』、心の中に響いていたあの声が、この上なくはっきりと聞こえてくる。二、三泊の間をおいて。
「……ええ。聞こえているわ」
 霊夢は意志を固めたように、凛然とした声で答えた。
「……」
 しばしの重い沈黙のあと。
「ならば、我が元へやってくるがいい」
 それっきり声は聞こえなくなった。
 
「靈夢……お姉ちゃん……?」
「しばらくぶりね。元気してた?」
 声が消えたと同時に姿を現したのは、かつて博麗神社の巫女として仕えていた先代、博麗靈夢であった。
「ちょっと元気とはいえない状態だけど……お姉ちゃんこそ、どうしてこんな処にいるの?」
「……つもる話もあるけれどその前に、あなたに遭ってほしい御方がいるの」
 言って靈夢は、その指先で方向を指し示す。指さす方向は、空の上。
「巫女の立場上、がんばってなんて言えないけれど、あなたはあなた。他の誰でもない。それだけは肝に銘じておいて」
 それだけを言い残して、靈夢の姿は何処かへと消えていた。

 準備を整えた霊夢は踏み込むと、空を飛ぶ能力をまとい急上昇をかけ、瞬く間に空へと翔けあがった。
 博麗神社の上空にある、雲に覆われた場所。
 その切れ間からは燦々と陽光が差し込んでいる。双眸を下へと向ければ、地表が霞むほどの高高度。
 大気の強い風によろめきながらも、博麗の巫女、霊夢は声に導かれるままに空を飛びつつ、『感覚』が知らせるその場所へと向かっていく。

「――娘よ」
 どこからともなく、その名を『霊夢』ではなく『娘』と呼ぶその声が聞こえた。
「こうして呼んだのは他でもない。お主に問わねば成らぬことがあるのだ」
「あら奇遇ね。私もあんたに言いたいことがあったのよ」
 どことも知れぬ声に霊夢は手にしたお祓い棒を翳し、凛冽な視線をもって迎えうつ。
 その霊夢の姿を見、声は数拍の拍子を置いて言葉を継ぐ。
「なにゆえ、我が与えた能力がありながら、幻想郷の異変を己の能力で解決せず、あの者に向わせた?」
「魔理沙は私の友達だから。病に伏せる私の代わりに解決するって言ってくれたの」
「ほう友達か。つい先日などまるで恋人のように睦みあっていながらな」
「……そういうところはしっかり見てるのね」
 霊夢は魔理沙との出来事を覗き見されていたこと、声≠フする方を睨みつける。
「巫女とは先代より、そのさらに先代より、脈々と受け継がれてきた能力なのだ。
 あの日、お主は能力を望んだ。ゆえに博麗の巫女としての役割を与えた。
 お主個人としての自己観念(エゴ)など、巫女としての使命を遂行する障害にしかならぬ。巫女たるお主にとって、何が最も肝要であるかを弁えよ」
「……巫女巫女って、うるさいわね」
 霊夢の声に、辺りの空気がシンと静まりかえる。
「勝手なことを一方的に言わないでよ。巫女っていう以前に、私だって、ひとりの女の子なのよ。このまま私じゃない私のまま、消えていくのはイヤ……!!」
 けほっ……けほっ。
 そういって霊夢が言葉を発するたび、身体中からチカラが抜けていき、咳がひどくなっていく。
 巫女として得た能力の反動。
 調停者として為すべき役割から外れた者へとふりかかる『呪い』が、彼女の身体を蝕んでいく。
「……やめておけ。それ以上は、お主自身の命にもかかわるぞ?」
「そんなの知ったことじゃないわよ。けほっ。私自身の心を、感情を消されて、私らしく、生きられない……っく、そんな生き方を、する、くらいなら、っ。死んだ方が、マシよ……けほっけほっ」

 そんな霊夢の様子に、靈夢が慌ててかけよろうとするが声≠ヘそれを制止する。
 チカラのたいぶ抜けてしまった霊夢は、そこに浮遊していることすら危うい状態である。
 わずかでも気を抜けば、そのまま地面に落下してしまう。そうなった場合……命の保証はない。
「ならば問おう。お主は巫女の制約を破り、どこへ向かおうというのか」
「制約? ……はん! 決まってるじゃない!」
 巫女としての制約。それは調停者として、『公』たる幻想郷の均衡を損なわないために形造られた安全装置。『私』たる自我をもって巫女の役割を為せば、必ずどこかで歪みが生じるからだ。
「お主は……調停者としての霊夢ではなく、あくまで己自身としての霊夢であることを望むのだな?」
「幻想郷の平和を守らなくちゃっていうのは分かる。そうしないと、みんなが困るもの。でも、私が私自身で在り続けることは、いけないことなの?」
 人間として生を享けた以上、人間としてあり続けたいと願う心はあまりにも自然の情動といえよう。
 しかし幻想郷の調停者としての役割を課せられた彼女の場合は違う。
 あらゆる異変を解決できる圧倒的な力を与えられる代わりに、人間としては当然あるべき自分自身としての感情……そういった概念から切り離されてしまう。
 無理に『自分自身』を主張すればするほど、その反動で魂に負担がかかり、命の灯火が削られていく。……そういう類の呪いなのだ。
 それゆえに課せられる、公平中立の制約。

 ――最初のうちは心を殺して耐えてきた。空を飛びたい。童女の頃に見た夢が現実のものとなったから、いままでは耐えてこられたのだ。けれど。
「私、手癖の悪いめんどくさがりやの魔理沙も、けほっけほっ。いっつも突然現れて脅かしてくる心臓に悪い紫も、友達が人形しかいないアリスも、引きこもりばかりの紅魔館の住人達や、食いしん坊の主に振り回される白玉楼の幽霊達、いつも何を考えてるのか分からない永遠亭のウサギ達、げほっ。本当に莫迦ばっかりだけど、みんな好き。
 好きだから。好きになる。だからきっとみんなも私のことを好きになってくれる。
 異変とは関係なく普通に弾幕ごっこをしてみたい。お茶会を開いてまったりとした時間を分かち合いたい。みんなと一緒に天狗の山までピクニックに行くのも悪くないかもしれないわね。
 そんなあたり前の感情を持つな? 他の誰かに興味を持ったらいけない? 
 巫女として、異変を解決させていたら、それでいいですって?
 そんな一生。そんな生き方。まっぴらごめんよ!
 いくら私が博麗の巫女として選ばれたからって、それだけは譲れない」
 心肺にかかる負担はとっくに限界を超えているというのに、霊夢は言葉を継ぐことをやめない。
「だから私は私でありたい。私だって生きてるんだ。そう願うことの、どこが悪いっていうのよ――――っっ!!」

 …………。
 天すらも衝き抜けるような『霊夢』の言葉が、雲すらも超えて高く高くあたりに木霊した。 
 彼女は、止まらない咳にむせかえっていた。喉と肺が潰れそうになりながらも私は言ってやった。その表情からは達成の笑みをのぞかせている。
「……」
 先代の靈夢はそんな『彼女』の姿を、ひとえならぬ表情で見守っていた。

「――そうか。そなたの覚悟についてはよくわかった。致し方あるまい」

 それっきり声≠ヘ聞こえなくなった。
 さっきまでそこにいた靈夢の姿も既にそこにはない。私の言葉を素直に聞き入れて、帰ってくれたのだろうか?
 ……そんなはずはない。予想通りであった。
 古くより連綿と受け継がれる能力。
博麗の空飛ぶ巫女。異変解決のみを存在理由とすべき調停者でありながら、自分自身としての在り方/エゴを願った、そんな小さな反抗の意志を見せた少女を、おいそれと見逃してくれるつもりは毛頭ないらしい。
 霊夢の目の前には、巫女の輪郭をたたえたシルエットが浮かびあがり、霊夢に物言わぬ双眸を投げかけている。『それ』はまるで、巫女としての使命を帯びた『誰か』を象徴しているかのようだ。

 博麗の巫女は、幻想郷をおびやかす異変を調停するために存在する――ならば、彼女自身が「異変」となった場合はどうすればいい?

 ボロボロになり、安定して宙に浮かぶことすら困難な彼女に対しシルエットは容赦なく襲いかかる。五月雨のように絶え間なく放たれる符術と、それを支える体術の冴えは、霊夢が普段から用いるそれと酷似していた。

「くっ……こんなところで負けて、堪るものですかっ!」

 幻想郷に調停を司る者あり。
 それは博麗に仕えしひとりの巫女。

 天壌無窮。
夢も現もかかわりなく、定められた者に引き継がれしその力。
 ただ、理を為すために与えられしその力。
 そうして成りたつ時間/歴史であれば。
 
まわるまわる。からりからり空まわる。
これまでを支えカタチ造られた、不変/普遍の空繰り。
 翼をもった、巫女の彼女/心をもった、少女の彼女。
 紅と白の相剋。偽らざる天秤。その両側。傾くことのその意味を。
 魂響の理。空蝉のさだめ。
 無何有の郷のなんたるか。その調べを奏でるならば。

 いつの日か、『彼女』は知るのだろう――

 ……。
 ……。

       ◇ ◇ ◇

「たいした異変じゃなかったなー。これであいつもぐっすり休んでくれていると良いけど」
 しばらくすると、あっさりと異変を解決してきた魔理沙が博麗神社に戻ってきた。
 戻るやいなや、霊夢の寝室に向かう。
「お、おい……」
 魔理沙は驚きの声を上げた。霊夢が寝ているはずの部屋にいるべき彼女の姿が無かったのだ。
 ふすまは半開きに開いたまま、寝間着は廊下に無造作に脱ぎ捨てられていた。

「……あの馬鹿!」
 あの時、香霖の店から借りてきたロープを使って、身体中を布団に縛り付けてでも動けなくしておけばよかったぜ。と後悔するのも遅い。
 魔理沙は霊夢と違って、異変の起きた場所の特定も、霊夢がどこに向かったかを感知するといった能力も持たない。
 ここはただただ人間としてのカンだけが頼りだ。
 神社のいたる所を探す、探す、探す。
「ここにもいないかっ!」
 土足で入ったら不味そうな場所にもズカズカ踏み込んでいる気がするけど、これも全部霊夢を探すためだ。
 博麗神社の神様≠ニやらも、きっと見逃してくれるに違いない。
 そうして探し回った後。
 境内の中庭の一角に、霊夢はいた。
 ただし、目を覆いたくなるほど無残に変わり果てた姿で横たわっていたのだ。

「ふふ……ざまぁ見ろ。あいつに一矢報いてやったわ。けほけほっ」
 満身創痍でろくに身体も動かせないはずなのに、霊夢はどこか晴れ晴れとしていた。
「ちくしょう。誰がこんなことを……絶対にゆるさねえ。霊夢をこんな目に遭わせたヤツ、そいつがたとえ誰だろうと、私の魔法で跡形もなく吹き飛ばしてやる」
 ぼろぼろになった霊夢を見て、魔理沙はわなわなと右手を握り締めていた。
「大丈夫。あいつなら私が全力で追い払ったから、心配しないで」
 あいつ? あいつって誰だよ。
 追い払ったってことは、まだどこかにそいつがいるってことじゃないか。待ってろよ、まだそんなに遠くには行っていないはず。
 そう心で言葉にしてホウキに跨ろうとする魔理沙の手を、霊夢はぎゅっと掴んだ。
「魔理沙。私、もうダメみたい。ちから、使い果たしちゃった……」
「……ば、馬鹿なことをいうなよ。お前ならこれくらいへっちゃらだろ」
「ううん。わかるの。自分のことは、自分自身が一番よくわかるから」
「霊夢……」
 魔理沙が見る霊夢の顔が次第ににじんでいく。
「私。もう、空、飛べなくなっちゃったな」
 それは博麗霊夢ではなく、ひとりの少女としての、本心からの言葉。
 空に向かって少女は手のひらを伸ばす。
 広大な空は、けれどあんなにも近かった空は、いまはもうこんなにも遠くて。ほんのさっきまで簡単につかめたはずの空なのに。
「もう一度だけ。あのときみたいに、自由に空を飛びたかった」

 初めて空を飛ぶことができたあの日のことを思い出す。何も考えず、ただ思うままに空を飛ぶことができた。幼き少女であった彼女にとっては、それは確かに幸せと呼べたのだろう。
 空を飛んでいられる間こそが、彼女が彼女自身でいられた、確かな時間でもあった……だからこそ『霊夢』は、巫女としての役割と自分自身との狭間に揺れていたのだろうか。
 ……。
 ……。
 空へと伸ばした手が、力なく落ちた。

 その最期の瞬間を看取った魔理沙は、ただ静かに空を見あげていた。

       ◇ ◇ ◇

 ……あいつがいなくなってから、しばらくが経つ。

 八方手を尽くしたが、結局あいつを助けることができなかった。
 私は相変わらず、毎日のようにあいつの神社に通っている。
 屋敷の押入れにしまってあった巫女服を着て、あいつが使っていたホウキを手に、境内の周りを綺麗に掃除してやっている。
 掃除することに普段から慣れていないせいか、うまい具合に落ち葉を掃けない……まぁその辺は努力でなんとかなる。
 巫女としての使命だとかあいつは言っていた。
 使命? なんだよそれ。笑えない冗談だぜ。
 あいつは私と同じくらいの年で、いろんなことに興味を持つ年頃で、なによりかけがえのない親友で。
 いっぱいいっぱい、やりたいことだってあったはずだ。なのに、あんなにあっさりと逝ってしまうなんてな。

 使命だかなんだか知らないけど、そんな言葉であっさり片付けてくれるなよ。
『でも、あいつに言いたいことは言ってやったんだから、清々した』
 けれどあいつが最後にそう言い残したときの表情は、普段のあいつからは想像もできないくらいに輝いていて、満足げな笑顔だったんだ。

 私がこんなことを懲りずにやっているのも、こうしていると、あいつがそばにいてくれる気がするからだ。
「ふぅ……これでいっちょあがりだな。疲れたぜ」
 掃除がひととおり終わると、淹れたてのお茶と私が好きな煎餅を縁側に持ち込んで、あの頃のあいつのように、空を見あげながら、ただぼーっとした時間を過ごしているのだ。
 それが最近の私の日課。
 頃は夏の盛り。照りつける日差しが眩しい季節だった。

「ここって、参拝客とか本当に来ないのな……」
 閑散とした境内。
 真っ昼間であるにもかかわらず、なんという静けさだろう。聞こえてくるのはセミの泣き声くらいだ。
 こんな場所で、あいつはひとりがんばっていたんだな。
 ふと、人の気配に気付いて魔理沙は顔をあげた。

 ややあって、その人物に向かって告げる。
「参拝ならお賽銭入れていけよ」
「文無しよ。六文銭も払えなかったし」
「だろうな」
 そこには魔理沙もよく知るあの顔があった。
「当分の間、私が博麗霊夢をやってたほうが幻想郷のためになるからって、閻魔様に追い返されちゃった」
 その少女は、たははーと暢気に笑顔を向けていた。だがその表情は、以前までのような作り物の笑顔なんかじゃなく、以前の彼女に較べて嬉しそうだ。
「せっかくだし縁側にでも寄っていけよ。美味いお茶と、とびっきりの煎餅でもごちそうしてやるぜ」
「なによ。ここはもともと私が住んでいた屋敷でしょ」
 そんな申し出に少女はむーと頬を膨らせている。
「そうか。そっか。やっぱりお前なのか。帰ってきてくれたんだな。はは、あはははは……っ」
 魔理沙は少女に思わず抱きついた。
「ちょっと。どうしたのよ魔理沙!?」
「馬鹿。こういうときは笑ったり泣いたりするものなんだぜ。ぐすっ」
「……そういうものなの?」
「あぁ、そういうもんだ。よく覚えておくといいぜ」
「うんわかった。よく覚えておくことにする」
 博麗霊夢。
この世間知らずな少女には、私がついて色々と教えてやらないといけないな。
 そう魔理沙は心に思うのだった。

「妖怪退治するときは私も一緒についていくから、いつでも呼んでくれよな?」
「なによ。妖怪退治くらい私ひとりで充分だってば」
 魔理沙はトレードマークの黒白の帽子をかぶり、縁側でお茶をすすりながらお気に入りの煎餅をかじっている。霊夢はそんな魔理沙の申し出に照れくさそうにそう返しながら、せっせと身支度を整えている。
「お前ひとりだけだと、危なっかしくて見ていられないからなっ。それに新しく覚えた魔法の威力も試してみたいしな」
「妖怪退治は遊びじゃないのよ」
「私にとっての弾幕ごっこは、手に汗にぎるスポーツみたいなものだぜ?」
「まったくもう……今日はすこし飛ばすから、しっかりついてきなさいよ」
「おうっ」

 こうして霊夢たちは今日も空を飛んでいる。
 彼女の表情は朗らかだった。再びこうしていられることの幸せをかみしめながら。

       ◇ ◇ ◇

 そんな二人の姿を、里の少女とその母親が見あげていた。
「ねーねーお母さん。あのおねーちゃん達、お空を飛んでるよ?」
「まぁ……本当ね」
「いいなぁ。私もお空を飛んでみたい」