2010年03月16日
遺骨収集 Prat3
今回の遺骨収集も毎回内容が非常に濃い旅でした。
参加していたメンバーも「まだ2日め?」「3日しか経ってないの?」って言うほど、日々の非日常的な出来事が毎日余りにも多く考えさせられる事がありました。
予想通りに初日だけが、のんびり気分でした。
翌日からはホテルへ帰っても全員何かを引きずって、アルコールの全くが無い夕食をし、倉田隊長が当時のここフィリピンでの戦史を語ってくれ、参加者全員が、毎夜65年前に気持ちがタイムスリップしてしまいます。
私は晩酌は毎日やり、夕食でいきなりご飯を食べるという習慣の無い人間にとってみれば、非常に肝臓にやさしい旅でした。
現場で遺骨収集するときには毎回、凄い崖に上り、収集することだけに集中していて、当時のことや亡くなられた将兵の方々への感情移入ができない程、余裕がありません。
私は毎年元旦に、鹿児島の知覧へ手を合せに行っていますが、彼らの遺書を毎回読むにつれて、彼らの気持ち、即ち、明日絶対に来る死への恐怖、それを打ち消す程に国を守る、家族を守るという大義を感じない訳にはいきません。
ただ、彼らの遺書も名前も遺影や部隊名もすべて残っており、それを毎年何万人という方々が知覧へ訪れて、涙を流し、現在の平和な日本の礎となられた事への感謝の気持ちで一杯になる事事態が彼らへの最低限の鎮魂になっていると私は思います。
一方で、ただ赤紙一枚で、召集され、命令で南方戦線へ送られて、激しい戦闘で戦死するならともかく、補給が途絶えて、武器弾薬もなく、一番必要な食料まで途絶えて飢えて死ぬ彼らの無念さが、現場に足を入れるとと感じざる終えません。
ただ人ってこの様な環境で飢えて病気でじんわりと死ぬときにでも、自分の死の理由付け、すなわち大義を必死で考えていたと思います。
実際に今までジャングル奥地の洞窟の中で戦死した将兵の方々や今回の沈められた船から命からがら泳いで現地人ゲリラや米兵に怯えながら、戦死していった将兵の方々は、「野垂れ死に」という状況です。
そんな状況下で大義を必死で考え、遺書を書き残す手立てもなく、ただ65年という月日が流れ、完全に今の日本人に意識から忘れられようと現実。
だから当時の将兵の方々のご苦労に比べると、今回私のの15kgダイエットにも自分なりに真剣に取り組み、高額な費用を捻出して参加することは彼らの比じゃありません。
しかも、名前も部隊名も現在の日本では具体的な記録もなく、更に平和な日本で現在暮らしている我々がその歴史的な事実すら知らない事への無念さ、怒りがご遺骨を目の当たりにすると感じてしまいます。
毎回の遺骨収集で、正月やお盆休みやまして、ゴールデンウィークでもない時期に1週間休める立場にある事や今回チャーター機の手配等一人40万円という高額な費用を費やしても参加できた事への感謝の気持ちにもなり、だから事実を知ってしまった数少ない我々が、遺骨収集を続けなければならない責任感と現場での事実を伝えることの重要性と責任を本当に感じてしまいます。
ただ、毎回決して楽しい旅ではありません。行程は過酷ですし、重いんですよ。
しかし、倉田さんや現地の富田さんがどれだけ一生懸命に参加者への安全の考慮とスムーズな行程を考えていただいているのかが、痛い程伝わってきます。
本日はサンガットアイランド周辺へ行きます。
行き先を地図で確認してチャーター機での移動です。




今日は沈船へ行きます。そこへ日本軍の軍艦や輸送船、駆逐艦が無数に沈められている場所です。浅いところだけを今回はシュノーケリングで見に行きました。


私は丁度ダイバー暦20年で、しかも耳抜きという事をしないでも、結構な深度まで潜る事ができる特殊な体質です。
だから息の続く限り、5m位ならヘッチャらでした。しかし水中カメラは持ってないので、画像はありません。
やまぎわさんが立つ事が出来るほど、足の届くところに沈船があり、潜ると船首が爆弾で吹き飛ばされていました。


Tシャツに日本軍の各沈船の名前が入っています。
明らかに観光資源になっており、ダイビングスポットになっていました。
参加者全員が複雑な気持ちになってしまいました。


倉田隊長も潜られました。
しかもご覧のとおり下記の絵面で、今回参加していただいた厚生労働省 外事室長の梅原一豊さん、外事室フィリピン担当班長の千葉克美さんまでもが同行していただきました。彼らの熱い思いが伝わってきました。
室長「何十年ぶりの海水浴ですわ〜
」と言いながら潜られてました。
非常に厳しい崖の上までも、梅原室長は必死で付いて来られ、必ず画像を撮っておられました。こんな厳しい旅を一緒にすると、メッキは必ず剥がれてしまいます。
遺骨収集に対する気持ちが、どれだけ本気モードかが、すぐに伝わってきます。








上記の今回唯一の学生の宮地彬君です。バイトで30万円貯めて10万円を親から借りて参加です。彼の本気が伝わってきます。しかも野口健環境学校の卒業生でした。


こんな崖を慎重に登り、遺骨収集して再度、慎重に降りて来る事を何度も何度も繰り返しました。
また船で移動し、信じられない程、綺麗な島へ着きました。
そこは白人ばかりの観光客で一杯でした。
こんな綺麗な場所は本当に戦闘があり、ご遺骨が今でもあるようには絶対想像しにくい場所でした。
そこの島の山頂付近には湖があり、そこへ向う途中で生きた大トカゲが目の前が横切りました。
ビビってしまった私はシャッターを押すチャンスを失ってしまい、
健さんに「何で大事なシャッターチャンスだったのに撮らないの!」
私「・・・・・・・・
」
もうそのオオトカゲはジャングルに入ってしまった後でした
洞窟に入り遺骨調査と湖にも再度、シュノーケリングで遺骨調査しました。
山際大志郎さんは昔トライアスロンにも出場していたアスリートです。
彼はもうバンバン泳いでおられました。さすがです。




この綺麗な湖には温泉も湧いていて、本当に最高の景色でした。貸切状態で各所を真剣に遺骨がないか?潜ってさがしましたが、透明度は20mほどあり、非常に綺麗な水質でしたが、奥へ行くと切り立っている山肌がそのまま海中深くまでつづいていて、ボンベなしでは遺骨の捜索は無理でした。




もう今日のメニューもてんこ盛りで、ホテルへ帰ると全員クタクタです。
日焼けと泳いだ疲れが一気に出てしまいました。
健さんは写真部だったこともあり、写真好きな事も事実ですが、伝えなければという気迫が伝わってきます。
彼のアングルのセンスは抜群です。
私は健さんにいつも写真の構図を指導してもらっておりました。
その日の夜に厚生労働省の梅原室長から連絡がありました。
「本庁から今、連絡があり、明日の週刊文春に批判記事が4ページに渡り載るそうです。詳しい詳細はわかりません。」
それから全員の空気が一変してしまいました。
つづく
参加していたメンバーも「まだ2日め?」「3日しか経ってないの?」って言うほど、日々の非日常的な出来事が毎日余りにも多く考えさせられる事がありました。
予想通りに初日だけが、のんびり気分でした。
翌日からはホテルへ帰っても全員何かを引きずって、アルコールの全くが無い夕食をし、倉田隊長が当時のここフィリピンでの戦史を語ってくれ、参加者全員が、毎夜65年前に気持ちがタイムスリップしてしまいます。
私は晩酌は毎日やり、夕食でいきなりご飯を食べるという習慣の無い人間にとってみれば、非常に肝臓にやさしい旅でした。
現場で遺骨収集するときには毎回、凄い崖に上り、収集することだけに集中していて、当時のことや亡くなられた将兵の方々への感情移入ができない程、余裕がありません。
私は毎年元旦に、鹿児島の知覧へ手を合せに行っていますが、彼らの遺書を毎回読むにつれて、彼らの気持ち、即ち、明日絶対に来る死への恐怖、それを打ち消す程に国を守る、家族を守るという大義を感じない訳にはいきません。
ただ、彼らの遺書も名前も遺影や部隊名もすべて残っており、それを毎年何万人という方々が知覧へ訪れて、涙を流し、現在の平和な日本の礎となられた事への感謝の気持ちで一杯になる事事態が彼らへの最低限の鎮魂になっていると私は思います。
一方で、ただ赤紙一枚で、召集され、命令で南方戦線へ送られて、激しい戦闘で戦死するならともかく、補給が途絶えて、武器弾薬もなく、一番必要な食料まで途絶えて飢えて死ぬ彼らの無念さが、現場に足を入れるとと感じざる終えません。
ただ人ってこの様な環境で飢えて病気でじんわりと死ぬときにでも、自分の死の理由付け、すなわち大義を必死で考えていたと思います。
実際に今までジャングル奥地の洞窟の中で戦死した将兵の方々や今回の沈められた船から命からがら泳いで現地人ゲリラや米兵に怯えながら、戦死していった将兵の方々は、「野垂れ死に」という状況です。
そんな状況下で大義を必死で考え、遺書を書き残す手立てもなく、ただ65年という月日が流れ、完全に今の日本人に意識から忘れられようと現実。
だから当時の将兵の方々のご苦労に比べると、今回私のの15kgダイエットにも自分なりに真剣に取り組み、高額な費用を捻出して参加することは彼らの比じゃありません。
しかも、名前も部隊名も現在の日本では具体的な記録もなく、更に平和な日本で現在暮らしている我々がその歴史的な事実すら知らない事への無念さ、怒りがご遺骨を目の当たりにすると感じてしまいます。
毎回の遺骨収集で、正月やお盆休みやまして、ゴールデンウィークでもない時期に1週間休める立場にある事や今回チャーター機の手配等一人40万円という高額な費用を費やしても参加できた事への感謝の気持ちにもなり、だから事実を知ってしまった数少ない我々が、遺骨収集を続けなければならない責任感と現場での事実を伝えることの重要性と責任を本当に感じてしまいます。
ただ、毎回決して楽しい旅ではありません。行程は過酷ですし、重いんですよ。
しかし、倉田さんや現地の富田さんがどれだけ一生懸命に参加者への安全の考慮とスムーズな行程を考えていただいているのかが、痛い程伝わってきます。
本日はサンガットアイランド周辺へ行きます。
行き先を地図で確認してチャーター機での移動です。
今日は沈船へ行きます。そこへ日本軍の軍艦や輸送船、駆逐艦が無数に沈められている場所です。浅いところだけを今回はシュノーケリングで見に行きました。
私は丁度ダイバー暦20年で、しかも耳抜きという事をしないでも、結構な深度まで潜る事ができる特殊な体質です。
だから息の続く限り、5m位ならヘッチャらでした。しかし水中カメラは持ってないので、画像はありません。
やまぎわさんが立つ事が出来るほど、足の届くところに沈船があり、潜ると船首が爆弾で吹き飛ばされていました。
Tシャツに日本軍の各沈船の名前が入っています。
明らかに観光資源になっており、ダイビングスポットになっていました。
参加者全員が複雑な気持ちになってしまいました。
倉田隊長も潜られました。
しかもご覧のとおり下記の絵面で、今回参加していただいた厚生労働省 外事室長の梅原一豊さん、外事室フィリピン担当班長の千葉克美さんまでもが同行していただきました。彼らの熱い思いが伝わってきました。
室長「何十年ぶりの海水浴ですわ〜
非常に厳しい崖の上までも、梅原室長は必死で付いて来られ、必ず画像を撮っておられました。こんな厳しい旅を一緒にすると、メッキは必ず剥がれてしまいます。
遺骨収集に対する気持ちが、どれだけ本気モードかが、すぐに伝わってきます。
上記の今回唯一の学生の宮地彬君です。バイトで30万円貯めて10万円を親から借りて参加です。彼の本気が伝わってきます。しかも野口健環境学校の卒業生でした。
こんな崖を慎重に登り、遺骨収集して再度、慎重に降りて来る事を何度も何度も繰り返しました。
また船で移動し、信じられない程、綺麗な島へ着きました。
そこは白人ばかりの観光客で一杯でした。
こんな綺麗な場所は本当に戦闘があり、ご遺骨が今でもあるようには絶対想像しにくい場所でした。
そこの島の山頂付近には湖があり、そこへ向う途中で生きた大トカゲが目の前が横切りました。
ビビってしまった私はシャッターを押すチャンスを失ってしまい、
健さんに「何で大事なシャッターチャンスだったのに撮らないの!」
私「・・・・・・・・
もうそのオオトカゲはジャングルに入ってしまった後でした
洞窟に入り遺骨調査と湖にも再度、シュノーケリングで遺骨調査しました。
山際大志郎さんは昔トライアスロンにも出場していたアスリートです。
彼はもうバンバン泳いでおられました。さすがです。
もう今日のメニューもてんこ盛りで、ホテルへ帰ると全員クタクタです。
日焼けと泳いだ疲れが一気に出てしまいました。
彼のアングルのセンスは抜群です。
私は健さんにいつも写真の構図を指導してもらっておりました。
その日の夜に厚生労働省の梅原室長から連絡がありました。
「本庁から今、連絡があり、明日の週刊文春に批判記事が4ページに渡り載るそうです。詳しい詳細はわかりません。」
それから全員の空気が一変してしまいました。
つづく