「サンプロ」打ち切りは僕にとっても大変なことだ(2) 田原総一朗[キャスター]創3月18日(木) 16時 9分配信 / 国内 - 社会田原 わかりません。もちろんこれまで様々な圧力はありました。自民党や官僚からの圧力は珍しくなかったと言えます。「サンプロ」はそれに屈するのでなく、何か言ってきた政治家に出演してもらって、番組で反論してもらうという方針でした。もちろん僕もそれに対して反論はします。 僕は基本的に欠席裁判はしない主義です。出てもらって議論すればいい。でも例えば権力政党にある人が番組に出ないということなら欠席裁判もせざるをえない。特に総理大臣は、記者クラブの規制があって番組に出るわけにはいかないということですからね。民主党の小沢一郎さんも番組に出ていただけないので欠席で批判せざるをえない。でも基本的には、批判に対して言いたいことがあれば出てくださいというスタンスなんです。だから抗議や圧力を何度も受けながら21年間も番組が続いたんだと思います。 この21年間、「サンプロ」は3つの目標を掲げてきました。ひとつは日の午前中にはフジテレビもNHKも政治番組を放送しているけれど、「サンプロ」が視聴率トップをとるということ。第2に必ず話題になるようにするということ。そして第3に、スポンサーが降りないようにするということです。これはずっと守ってきたつもりです。 ■番組は毎回戦争と思ってやってきた ──でも日栄など、一部スポンサーが降りたことはありましたね。 田原 日栄は、確かに番組の大スポンサーだったのですが、社会問題になった時には僕はやらないとダメだと思いました。『週刊ポスト』に、日栄から責め立てられて自殺に追い込まれようとしている人がいるという話が載っているのを見て、僕は番組で取り上げようとテレ朝の幹部に電話をしたんです。当時の広瀬道貞社長は大阪に出張していていなかったので、伊藤邦男会長に電話して、「これはやらなきゃ大変だ」という話を延々とやった。すると伊藤さんが「田原さん、1時間くらい待ってくれ」という。「営業担当や役員と話をするから」というわけです。 それで、夜中の1時半ごろ電話がかかってきて「田原さんのところに営業・編成の役員を行かせるから、話をしてくれ」と。それで話をしたんですが、もちろん大反対で、「1週間待い」と言われました。1週間後に、役員たちがいるところに呼ばれて「こんなことは前代未聞だけど、今回は田原さんに任せる」という話になったんです。 それでやることになったんですが、運が良かったというか、オンエアの前の夕方、日栄は一斉手入れになって、放送の日には、朝一面トップで載っていた。逆に追及しないで番組スポンサーのままだったら、テレビ朝日が窮地に陥っていたと思います。そういうこともありました。 ──訴えられたといったこともありました? 田原 こういう番組を21年もやっていれば、いろいろなことはありますし、今も裁判を幾つか抱えています。 ──これは「朝生」の方でしたが、拉致問題についての発言で訴えられましたね。 田原 もう3回くらい裁判をやってます。向こうは「外務省に取材もしないで無責任なことを言っている」と非難しているんですが、でも本当は、外務省幹部から直接聞いているし、テープもあるんです。ところが向こうが出した証拠では、政務官の証言として「外務省で田原に最近会った者はいない」と言っている。でも外務省職員に「最近田原と会った者はいるか」と問い合わせても、いるとなればそれは誰かということになるでしょう。だから外務省は「該当者はいない」ということにしてしまったのです。 僕は、言論の自由っていうのは奪い取るものだと思っている。勝ち取るんだと思っているんです。だから、番組は毎回戦争だと思っているんです。 企画を通すのも大変なんですよ。これは「朝生」もそうで、企画を提出するのはなるべく遅くしましょう、と言ってきた。 僕が以前一緒にやっていた故・日下雄一プロデューサーは本当に素晴らしい人で、企画を通す名人でした。例えば「天皇と戦争責任」といったタブーとされたテーマをやる時には、それを局の上層部に上げると「それだけはやめてと言われる。その時は「わかりました」と言って引き下がってくるんですが、何日かしてまた同じ企画を上げる。それを何度もやるんですね。 あるいはソウルでオリンピックがあった時は年末の「朝生スペシャル」で「オリンピックと日本人」というテーマを通しておく。「ただし生番組ですから途中で裏切るかもしれませんよ」と言っておくんです。そして結局、番組の途中から天皇制の問題をやったわけです。 ■21年の間にポジションは変わったか ──確かに「朝生」など90年代終わり頃は、天皇制や右翼、差別表現などタブーに斬り込んでいったけれど、田原さんに対しては、昔はゲリラだったけれどポジションが変わったと評する人もいますね。 田原 でも今でも、例えば「サンプロ」で一昨年の秋に部落解放同盟を取り上げたし、最近でも他局の番組ではできないほど検察批判をやっています。郷原さんをどの局も出さないのに「サンプロ」だけは出した。ホリエモンにも佐藤優さんにも出てもらって検察批判をしています。 ──でも、田原さんは政治家に顔が利くようになったし、今や「権威」になってしまったと批判する人もいますね。政治家に「先生」と呼ばれるようになってしまった、と。 田原 それは若い政治家の勘違いなんです。政治家に顔が利いているかどうかはともかく、少なくとも緊張関係は保っています。僕は政治家とつきあう時に、次の3つのことだけは守っているんです。政治家に何も頼まない。何も頼まれない。そして金を含めて、ものは一切もらわない。この3つです。 だから一回一回の真剣勝負は変わりません。ただポジションが少し変わったということは意識しています。以前、僕は体制を過大評価していた。政府を批判していれば良い、批判すればするほど何か替わるものが出てくると思っていたんです。けれど、バブルがはじけた時にかったのは、実は向こうは何も持っていない。だからただ叩くだけじゃなくて、対案を持たないといけないと思ったんです。 宮澤喜一さんは政治改革をすると言いながらできなかった。橋本龍太郎さんもできなかった。2人とも「サンプロ」が失脚させてしまった。その時に僕は、彼らをつぶすだけではダメ。今の政治を変えなければダメなのだと思ったんです。批判をやめるんじゃないんです。対案を持たないで単に批判するだけではダメだと思うようになったんです。 昔は、僕はアナキストだった。共産党が嫌いだったから、左翼といってもアナーキー。そがバブル崩壊の頃から、対案を考えなくてはいけないと思うようになった。たぶん佐高信さんは、僕のアナーキーなところをよしとしていたから、対案を考えるようになってから「変わったな」と思ったんだと思います。 でも僕は基本的な事柄、例えば憲法に対する考え方は変わっていません。今も、憲法は変える必要はないし、変えるべきじゃないと思っています。なぜなら、憲法があることで日本がマイナスになったことは一回もないから。今まで憲法を変えなくて損をしたことはない。だから変えなくてもいいと思います。ただ僕は今の憲法が完璧なものとは思っていません。そのあたりが佐高さんには信用できないのかもしれない。 ■今のところ先のことは決まっていない ──3月で「サンプロ」が終了するわけですが、あと何回かの放送で何をやりたいと思いますか? 田原 もうすぐ終わるのだから思い切ってやろう、とスタッフには言っています。それこそタブーなしにガンガンやろうと思っています。 ──4月以降、「サンプロ」のような番組を他局からやりたいという話はないのですか。 田原 まだわかりません。いろいろな話は来ていますが、こちらのやりたいことと向こうの希望が合わないことが多いのです。例えばバラエティ番組のレギュラーにという話もありました。僕もこれまでバラエティ番組に出たことはありますが、それは1年に1回とか半年に1回とか、たまに出るから違和感があって面白いんですよね。今のところ先のことは決まっていません。(談) 【関連記事】 ・ 「サンプロ」打ち切りは僕にとっても大変なことだ(1) 田原総一朗[キャスター] |
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