21年前、大学を卒業したばかりの私が、朝日新聞記者として鳥取市で社会人の第一歩を踏み出したのが鳥取です。「世界おもちゃ博覧会」を翌年に控え、高揚感にあふれた小さいながらも元気のいい街でした。
市役所には「まちづくり研究会」という組織がありました。仕事が終わった後、西尾優市長を若い職員から管理職のベテラン職員までが囲み、ああでもない、こうでもないと地域づくりを毎週1回議論していました。議論が終わらず、居酒屋に移動することもしばしば。そんな自由闊達な空気が市役所にはありました。
おもちゃ博が始まると、鳥取駅から会場までの歩道にはプランターや植木鉢が並びました。市民のみなさんは誰に言われるでもなく、花に水をやり、道の掃除をしておられました。そこには市と行政の協働があり、心優しき街がありありました。
鳥取が大好きになった私は、岩美町出身で、鳥取東高を卒業した妻とこの地で結婚し、3人の子どもに恵まれました。朝日新聞記者として京都総局や東京本社などで勤務し、2001年9月に2度目の鳥取総局勤務になりました。市長は助役だった西尾迢富さんに変わり、なんだか、元気がなくなってきたような気がしましたが、それでも、市立病院の移転新築、バードスタジアムの完成、鳥取市歴史博物館の開館など、優市長の助役だけあって、優市長時代の計画が、次々と現実のものになっていきました。確かに、迢富市長は自分から発案するアイデアマンではなかったものの、公共工事の償還に備えて、200億円を超える基金を積み立てる手堅い行政手腕をお持ちでした。
そして、迢富市長の多選を批判し、初当選したのが、国土交通省中国地方整備局で副局長だった竹内功市長です。凍結を訴えていた浄水場問題は膜ろ過方式で工事を開始し、20万都市を目指して合併を進められました。私は松山総局に転勤となり、3年後、米子支局長として戻ってきました。月数回は鳥取総局のデスク(紙面製作責任者)としての勤務もあり、そして、2009年5月からは鳥取総局デスクとして、竹内市長の市政運営をジャーナリストとして見つめてきたのですが、「これでええんかい」という思いが募りました。
例えば、「お笑い健康道場」。吉本新喜劇の若手芸人を連れてきて、評価の高い鳥取生まれのトレーニングもできる施設という計画でしたが、いづれも計画倒れ。ただトレーニングマシンが並ぶだけの、しかも、利用者の少ないジムでしかありません。存在そのものが「お笑い」と批判する市民すらいます。そして、今、この深刻な不況の下、正規職員の求人は、求職者4人に対して1人しかなく、市民は雇用不安に苦しめられています。商店街には空き店舗が増え、合併した町村の多くが疲弊してきています。砂像だ、因幡の祭典だとイベントを重ねている状況ではないはずです。市役所が先頭に立ち、どうしたら市民の暮らしを守ることができるか、市民のみなさんと知恵と汗を出し合って、市職員がひとつのチームになって真剣に行動する時ではないでしょうか。
そんな思いが募り、21年間勤めた朝日新聞社を退社し、2010年4月に投開票される鳥取市長選に立候補する決意を致しました。私は政治家の家に生まれたわけでもありませんし、裕福な家でもありません。選挙準備も朝日新聞社の退職金で進めているような状況です。応援団長(後援会長)は元鳥取大学副学長の山内益夫先生、事務局長は大学院生の平賀謙太君と、選挙を戦う仲間も選挙の素人集団ですが、「鳥取を元気にしたい」「鳥取を良くしたい」という思いだけは誰にも負けませんし、何のしがらみもありません。21年間、ジャーナリストとして培ってきてきた正義感、情報の収集と分析のスキル、そして、全国に広がる人との縁で結んだネットワークを武器に、この挑戦を続けます。どうか、みなさん、応援してください。
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