2009/06/21
甘樫丘東麓遺跡、今回も入鹿の邸宅跡見つからず
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今回の発掘調査区の全景 (撮影2009/06/21) |
今回の調査で出土した石垣は蘇我入鹿邸の遺構か?
国営飛鳥歴史公園甘樫丘の東の山麓で、駐車場を建設するため事前発掘調査を行なったところ、7世紀中頃の焼けた壁土や炭化した木材などが出土した。1994年(平成6年)のことである。そのため調査された場所は甘樫丘東麓遺跡と命名され、現在は遺跡の上に公衆トイレを備えた駐車場が作られている。
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今回の発掘調査区 |
その駐車場の西側は幅80m、奥行き80mほどの空き地になっていて、ここを造園化する計画が持ち上がった。2005年、事前調査を依頼された奈良文化財研究所(以下、奈文研と略称)は、細長い調査区を設定して遺跡確認のための試掘を行った。その結果、5棟の掘立柱跡と一列の堀跡が見つかった。
この事前調査を皮切りに、奈文研は甘樫丘東麓遺跡の本格的な学術調査を行なうことになった。2006年度には奈文研の146次調査を、2007年度には151次調査を実施し、それぞれ新しい知見が得られた。2008年度の調査は、2006年度の調査区の南東側に約1150平米の調査区を設定して、昨年10月から開始する予定だった。
しかし、何故か調査開始が暮れの12月17日にずれ込み、年度内での調査発表が行われなかった。ようやく6月17日になって、奈文研は調査結果をマスメディアに公表し、現地見学会を6月21日、つまり本日の午前11時から開催すると発表した。
新聞各紙の報道から推測すると、6月17日に行われた記者発表の内容は次のようだったと思われる。
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途中で直角に折れ曲がっていた石垣 (南東→北西) |
●今回の調査区で、7世紀前半〜中頃の石垣が出土した。この石垣は2006年度の調査区で見つかった石垣が谷に沿って南方へ19m延びたもので、石垣の全長は34mであることが判明した。
●幅8m、深さ1.2mの谷地が確認でき、石垣は20〜40cmの大きさの河原石を谷の東側の岸の途中から50度の勾配で9段ほど積み上げられ、その高さは1m程度だった。
●石垣は途中で1.6mほど直角に折れ曲がった部分(クランク部分)があり、また石垣の最下段は石を数十cmの間隔で並べた排水溝のような構造になっていた。
●石垣遺構の付近から7世紀中頃の土師器や須恵器がほぼ完形に近い状態で出土しており、これらの土器から石垣は7世紀前半に作られたが、7世紀中頃には谷と一緒に埋められたと推測される。
●石垣の内側では建物跡は見つかっていない。
●調査区の7世紀後半の地層から長さ12mの石組みの溝や、石敷き、塀の跡と見られる柱穴が見つかっていて、付近は何度も整地が繰り返されたことが分かる。
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南東に向かって延びる石垣(北西→南東) |
こうした内容から、今回の発掘調査で谷の東側斜面に築かれた長さ約19mの石垣が出土した以外に、7世紀前半の遺構として特記すべきものは見つかっていない。しかもこの石垣の一部はすでに2006年度の調査で15mほど見つかっていて、さらに南に延びていることは十分予測されていた。
半年間にわたって大々的に行われた調査としては、寂しい内容だ。いつもなら、この種の発掘成果をセンセーショナルな見出しをつけて一面に掲載する新聞各紙も、さすがに今回は控えめだった。18日付けの朝刊の社会面に、次のような見出しで報道しただけである。
・朝日新聞社会面32p:「入鹿邸跡」延びる石垣。権勢誇示意図か
・毎日新聞社会面24p:奈良・甘樫丘遺跡 蘇我氏邸宅「石垣」 総延長34mに
・読売新聞社会面35p:連なる石垣35m 蘇我氏邸の城柵?(囲み記事)
・産経新聞社会面24p:蘇我入鹿邸「城柵」か 7世紀前半の石垣出土
・奈良新聞第一社会面13p:「入鹿邸」に高機能石垣 防御的役割か
いずれの新聞社も、この甘樫丘東麓遺跡が『日本書紀』に「谷(はざま)の宮門(みかど)」と記された蘇我入鹿(そがのいるか)の邸宅跡とすでに確定しているような扱いをしているのは、興味深い。だが、考古学を専門とするいずれの学者も、甘樫丘東麓遺跡が蘇我入鹿の邸宅跡とは断定していない。出土した建物遺構が邸宅と呼ぶにはあまりに小規模であるためだ。これらの建物跡が入鹿邸に付随した倉庫や武器庫の可能性までは否定していないが、発掘現場の谷は当代随一の権力者の邸宅を築くには余りに狭い。
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今回の調査地の南東側の未調査地域 邸宅を建てるほどのスペースはない |
父の蘇我馬子(うまこ)から大臣(おおおみ)の位を譲り受けた入鹿は、天皇家を凌駕する天下第一に権力者だった。群臣たちを自邸に招いて大がかりな宴会を催したり、重要な政治案件を合議したはずである。そのためには、それなりの広大な邸宅を敷地内に建てたはずだ。そうした建物跡が今までの調査で見つかってしかるべきだった。特に、今回の調査区での発見が期待された。しかし、実際は何も見つからなかった。
今回の調査区の南東側にはまだ調査のメスが入っていない空間がある。だが、そこに邸宅と呼ぶにふさわしい建造物があった可能性があるとは思えない。だから、そろそろ甘樫丘東麓遺跡は「谷の宮門」ではなかったと断言してよいのではないだろうか。蘇我の蝦夷・入鹿父子が甘樫丘に邸宅を構えたのは、当事の皇極天皇の飛鳥板蓋宮に出入りする官人たちに蘇我の権勢を誇示することにあったことを忘れてはならない。だが、東麓遺跡からは、前面の小山に遮られて飛鳥宮を睥睨することはできない。入鹿邸は甘樫丘東麓遺跡の北に位置するエベス谷に築かれていた、と筆者は想定している。
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尾根を挟んで甘樫丘東麓遺跡の北にあるエベス谷 |
出土した石垣は城柵(きかき)か?
奈文研は、「石垣が『日本書紀』に登場する蘇我氏邸宅の『城柵(きかき)』だった可能性もある」と指摘している。確かに、『日本書紀』には皇極天皇3年(644)冬11月の条に、蘇我蝦夷・入鹿親子が家を甘樫丘に並び建て、蝦夷の家を「上(うえ)の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼び、”家の外に城柵(きかき)を作る”と記されている。しかし、この場合の城柵とは、文字通り城や砦の周りにめぐらした木の柵の意味であり、これを石垣の意味で理解するのは苦しい。
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出土した石垣(毎日新聞インターネット版より) |
この石垣に関して、新聞各社は猪熊兼勝・京都橘大学名誉教授の談話を掲載している。すなわち、石の積み方が朝鮮半島の山城や、663年の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)の後北九州や瀬戸内海沿岸に築かれた朝鮮式山城で見られる斜面の石の葺き方とよく似ている。蘇我氏は邸宅を壮大に化粧することで権威を見せつけるために、渡来人の技術者の力を利用して石垣を作らせた可能性があり、調査地は蘇我氏の邸宅の跡にふさわしい、云々。
猪熊教授には申し訳ないが、教授のコメントにはいささか疑問を感じる。先ず、入鹿邸を木の柵ではなく朝鮮式山城のように石垣で囲ったのであれば、石垣の部分は地表面よりかなり高くなければならない。また、谷に沿って直線的に築かれただけでは防護の意味をなざず、邸宅の周囲でもその遺構が見つかっていなければならない。さらに、朝鮮式山城であれば、石垣の内側は版築工法で土を突き固めているが、版築工法が用いられた様子はうかがわれない。
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巣山古墳の前方部の裾部分の葺石(2006/01/22 撮影) |
第二に、この程度の石垣であれば、馬見古墳群の巣山古墳を例にあげるまでもなく、前方後円墳の墳丘の裾に敷かれた葺石の状態と大差はないように思われる。渡来人の技術力でなくても十分工事は可能だったであろう。今回検出された部分も含めて全長34mにおよぶ石垣は、やはり谷に落ち込む東側の岸の護岸用と理解すべきではなかろうか?
本日は現地見学会だけど、前もって準備されていた現地説明
梅雨入り宣言後も長らく空梅雨だった関西地方も、いよいよ本日から本格的な梅雨空になるとのことで、本日の奈良地方の天気予報は曇り時々雨、所によっては雷を伴うという。過去の現地説明会では多くの考古学ファンがはせ参じたという曰わく付きの遺跡である。すこし早めに発掘現場に到着しようとアパートを出た。しかし、雲の間から強い日差しが照りつけ、雨模様の天気になる気配はない。
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午前11時から行われた現地説明の様子 |
本日は「説明会」ではく「見学会」だが、午前11時から1時間ごとに計4回、発掘担当者が発掘状況について説明するという。午前10時に入口の門を開き見学者を中に入れると、受付で資料を受け取って、あとは自由に発掘現場に見学させてくれた。おかげで、一時間ほどゆっくりと発掘状況を見学したり出土品をカメラに収めたりした。また所々に配置された調査員にさまざまな疑問をぶつけることができた。
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今回の出土遺構配置図(*) |
会場の隅に大きなボードが置かれ、遺跡の配置図が張られていた。午前11時になるのを待ちかねたように、今回発掘を担当した次山氏が、過去の発掘経過から始めて現在までの調査状況を解説された。次山氏は1994年の甘樫丘東麓遺跡発見当時からの関係者だそうだ。彼の説明を要約すると、今回の調査の主な目的は2つあったという。
一つは2006年度の調査で見つかった石垣がどのように続いていくのかを確認すること、もう一つは遺跡の東辺部の状況を明らかにすることだった。今までの調査で、この遺跡のある谷は7世紀の前半から末にかけて、大規模な造成を繰り返しながら継続的に利用されてきたことが、すでに判明している。すなわち、宮殿や寺院が建ち並んだ当事の飛鳥の中心部に対して、周辺の丘陵裾部での土地利用の一端が明らかになった。そのことが、今回の調査でも確認できたという。
7世紀前半から中頃の土地利用状況
まず、7世紀の前半から中頃にかけて、谷筋の東岸に大きめの石を積み、石垣が築かれた。今回の調査では石垣がとぎれる南の端が確認でき、2006年の調査と合わせると、石垣の長さは34mに及ぶことが明らかになった。一般的な推測では、この石垣は644年に蘇我入鹿邸をこの谷に築くために谷の部分を大規模に埋め立てて宅地造成を行った際に作られたと考えられてきた。
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正面から見た石垣の様子 |
甘樫丘東麓遺跡のある谷は、最近まで夏みかんが植えられたり段々畑が作られてきた。そのために南の端は段々畑で削り取られていて古代の地層が残っていない。ところが段々畑のの中に石が露出している部分があった。そこを掘り起こしてみると、その石は石垣の一部だった。しかも、その石から先は石が谷に落ちておらず、また抜き取った形跡も見あたらない。そこでその石が石垣の南の端にあたると判断された。
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南東に向かって延びる石垣(南東→北西) |
ところが問題があった。2006年の調査で見つかった石垣と、今回見つかった石垣とは直線で結ばれないのだ。発掘を進めると、北側から延びてきた石垣が20mほどのところで右に曲がる構造になっている。その上で構造が異なる石垣が継ぎ足されていたことが判明した。つまり、石垣の北側部分は40cm大の河原石が積まれていたが、南側の継ぎ足した部分は20cm大の一回り小ぶりな石が
用いられていた。
さらに当事の石垣は底の部分に大きめの根石を置いてその上に小さな石で基盤を作るのが一般的だが、ここではまっすぐな基盤を作らず船底形に石を積み、その上に9段の石の列を高さ1mほど積んでいる。こうした事実から導き出される結論を次山氏は一言も触れられなかったが、筆者に言わせれば、石垣はこの谷を造成するために一気呵成に築かれたのではなく、7世紀の前半のある時期に継ぎ足されたようだ。もし、蘇我入鹿がこの谷を造成して邸宅を築いたとすれば、反蘇我勢力の機運が高まる時期に突貫工事が行われたはずであり、考古学的知見はそうした想定に矛盾する。
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石垣埋め立て土の土器 (7世紀前半〜中頃) |
7世紀の中頃、谷と一緒に石垣全体を埋め込んで大造成が行われた。石垣を埋めた土の中から、そうした事実を証明する土器が出土している。7世紀前半から中頃の土器とのことだが、乙巳の変(いっしのへん)のあった645年以前のものか、あるいは645年直後のものかどうかは特定できていないという。
さらに、石垣が築かれたと想定される時期と重なる遺構として、次の3点が見つかっている。
● L字形掘立柱遺構
2カ所でL字形に並ぶ掘立柱の遺構が見つかっている。建物跡にしては、方形に柱跡が見つかっていない。南東側のL字型掘立柱遺構は、東の隅で見つかった石敷き遺構のクランク部分に合わせてあるようにも見てとれ、塀の跡の可能性もある。いずれにしても現時点ではどちらとも断定できず、もう少し付近を発掘してみる必要があるという。
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南東側のL字形掘立柱遺構 |
北西側のL字形掘立柱遺構 |
● 調査地の東の隅の石敷遺構
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東の隅の石敷遺構 |
調査地の東の端で、尾根の麓に沿って築かれた石敷の遺構が見つかっている。外側は尾根の麓に沿って石の面を揃えて並べられ、内側は石組みの溝がクランクを作るように築かれている。どうやら尾根に沿って築かれた路のような気がする。想像をたくましくすれば、尾根からこの石敷きの路に下りてきた人間が、L字型に築かれた2つの目隠し塀の間から石垣の縁まで来て、前面の谷を眺めたのかもしれない。
●土器を捨てた小判形の土坑
調査地の北側で、小判形の土坑が見つかった。驚いたことに、その土坑から50点ほどの割れていない完形の須恵器や土師器が見つかった。
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割れていない土器が出土した土坑(*) |
見つかった土師器と須恵器の一部(*) |
7世紀後半の遺構
7世紀後半の地層から、長さ12m以上におよぶ石組みの溝が、ほぼ直線に北西から南東に設けられているのが見つかった。側石は多くが抜かれているが3列に並べられた河原石が溝の底に残っていた。
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底石だけが3列に並べて残っていた石組みの溝 |
7世紀末から8世紀初頭の遺物
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7世紀末から8世紀初頭の地層から見つかった土器(*) |
7世紀末から8世紀初頭は、飛鳥宮が藤原宮に遷されて飛鳥盆地は寂れていく時期にあたる。それでもまだ多くの人々が住み着いていたようだ。甘樫丘の東麓にあるこの谷も何回も造成が行われ土地の有効利用を図られたようだ。藤原宮の時代の遺物として、土器を埋没した遺構が今回の調査で発見されている。
そこには土器が一つ置かれ、その形式から藤原京時代のものと判定された。銭か何かが埋納されているのではと期待されたが、何もなかった。おそらく、腐ってしまう有機物がはいっていたものと推測されている。
こうして見ると、今回の調査地はわずか半世紀の間に石垣、土器廃棄土坑 石組み溝 埋設土器を出土した4つの地層が重なり合っていることが判明した。
鎌倉時代に生じた自然流路
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調査地の西側を横切る自然流路 |
石垣の南に大きな窪地があり、細長い谷に「自然流路」の標識が立っていた。石垣を積んで護岸された谷の一部かと思ったが、そうではなかった。付近から鎌倉時代の土器などが出土していて、土砂崩れか何かで飛鳥時代の地層が大きく削り取られ、その後に水が流れる自然流路となったようだ。したがって、自然流路付近では飛鳥時代の遺構は見つかっていない。
(*) 見学会資料より転記
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