2010/03/19(金) 00:26:21 [明るいニュース]

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国思う青年の尽力を端緒に
「トルコ建国の父」の銅像移転

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「トルコ建国の父」の銅像移転=野ざらし批判、修復され和歌山に
 新潟県のテーマパーク「柏崎トルコ文化村」の閉園に伴い、野ざらし状態で放置されていた「トルコ建国の父」ケマル・アタチュルク初代大統領の銅像が、トルコと関係の深い和歌山県串本町に移転されることになった。これに先立ち日本財団が18日から、東京都品川区の「船の科学館」で修復作業を開始した。時事通信Web) 3月18日付記事より参照のため抜粋引用/写真は時事通信同記事より参照のため引用

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ケマル・アタチュルク像が被った惨状

 表題は、「柏崎トルコ文化村」(新潟県柏崎市)開園の際にトルコ政府から同園に寄贈(1996年)された「トルコ建国の父」ケマル・アタチュルク初代大統領の銅像が、「トルコと関係の深い和歌山県串本町に移転されることになった。これに先立ち日本財団が18日から、東京都品川区の「船の科学館」で修復作業を開始した」、と伝える記事(時事通信)である。移転の経緯について、表題は、「文化村は2001年に経営破綻(はたん)したが、別会社が事業を引き継いだ。しかし、04年の新潟県中越地震で入場客が激減したことを受けて再び閉園。像は現在、トルコ大使館が所有している」、と記している。

 重要な経緯が省かれており、なぜ、「インターネット上で話題になり、「野ざらしで保管するのはトルコに対して非礼だ」と批判が上がっていた」、(表題)のか、一般読者には判り難い。そこで、先年にクリップさせていただいた記事を参照させていただけば、このような惨状にあったことが判る。「世界を愛した日本」(2009年05月発売)掲載の、柏崎市議会議員・三井田孝欧氏の筆による「トルコとの友好関係を壊す、トルコ英雄像放置問題」」(記事)には、その後の、柏崎市における「ケマル・アタチュルク像」に関わる惨状が写真入りで紹介されている。

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「トルコとの友好関係を壊す、トルコ英雄像放置問題」 (記事より参照)
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銅像を含めて売却した「旧社会党の市長」

 三井田氏の記事には、2004年(平成17年)に再び閉鎖となった経緯と、さらに、その後、旧社会党の市長となって以来、一転して、同市が、直接運営を申し入れた駐日トルコ大使館の申し入れを無視するかのように、同地を一般公募による売却にかけてしまった状況が記されている。売却にかけられた状況については、折しも、産経紙面(5月6日付)にその一端が紹介されている。

 当時の紙面に云く、「2度の閉園で再建を断念した市は(平成)18年、トルコとの友好関係に配慮する、との条件を付け、上越市のプラスチック製品製造業「ウェステックエナジー」に像を含めて売却。ウ社は(平成)19年6月、施設を改装して結婚式場を始めたが、1ヵ月半後に中越沖地震が発生。倒壊の恐れがあったとして像は台座から外され、当初は屋外に横倒しにされた(批判を浴びたため、現在は屋内で保管)。「建国の父」に対して非礼だとして、トルコ紙でも報道された」、とある。同紙面には、その後の柏崎市とウ社の係争の経緯が記されている。批判の声が上がり、銅像を同市が引き取るにしても、銅像を含めて業者に売却した「市の落ち度を認めると裁判で不利になる」、との、倒錯したかの発言も記されている。

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産経新聞紙面(切り抜き)5月6日朝刊(24面)
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20歳の若者が立ち上げる

 当時、20歳の会社員・江口保氏らがこの状況を憂慮し、「事は両国の外交、友好にまで及んでおり、まず銅像を訴訟から切り離してほしい」(江口氏)と訴え、そのために、「自分たちにできることから始めよう」とネット上に経緯をまとめたサイトと「ムスタファ・ケマル像を移転する会」を立ち上げ、「(平成21年)4月11日からは署名運動に乗り出した」、と。活動については、「会は目標の署名を集めて会田市長とウ社、外務省に提出する予定。署名目標数は1万人で、(平成21年5月)5日現在で2200人を超えた」、と紹介されている。

 これら青年たちの心頼もしき尽力が、「ケマル・アタチュルク初代大統領の銅像が、「トルコと関係の深い和歌山県串本町に移転されることになった」(表題)、と記される端緒となったことは云うまでもない。心より敬意を表したい。

 そもそも、日本とトルコとの関係は、すでに、多くのみなさまがご存知のことかと思う。かつて、台風によってトルコ(当時・オスマン帝国)のエルトゥールル号(軍艦)が、和歌山県串本市の沖合、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難(1890年9月16日)した際に、住民が総出で献身的な救助に当たった事跡がある。台風のため出漁できずに、備蓄の食料もわずかであったが、住民は持てるあらゆる食料と浴衣などの衣類を提供し、生存者たちに介抱を尽くした。この結果、救助された艦員69名が無事に生還することができたのである。以来、トルコとは一世紀を超える友好が続き、この事跡はトルコの教科書にも詳しく記され、トルコ人が公的な場で日土友好の歴史について語ると時、先ず語られるのが、当時のエルトゥールル号遭難事件の事跡である。

 その友好は、たとえば、イラン・イラク戦争(1985年)の折に、イラクの無差別攻撃宣言に対し、イラン国内に取り残された日本人が、「自衛隊の海外派遣不可」の原則のために自衛隊機による救援を受けられず、且つ、民間の日本航空の社内組合の反対によって同社の旅客機による航空機による救援を受けることも不可能であった状況下で、当時の駐イラン大使の野村豊氏から窮状を知らされたトルコ大使館のビルレル大使が、トルコ航空機の派遣を要請し、215名の日本人全員が救出され、トルコ経由で無事に日本へ帰国できた、という奇跡のような出来事があった。要請を受けた時に、ビルレル大使はこう語ったという。「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」と。

 まさに、友好の証と謂える。青年たちによる立派な尽力を端緒に、新たに守られた友好の末永きことを願って止まない。
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濃いめのコーヒーは「トルキスタン」

 トルコの首都イスタンブールには、歌にあるような「砂漠」はない。ロールする「光る砂漠」は実在しない、と度々指摘していたのがマルコ老人(友人)である。確かに、イスタンブールには「砂漠」は実在しない。

 グリークの「ペールギュント」は、このイスタンブールの夜明けを描写した名曲であり、聴くほどにいつも心新しい。また、薄めのコーヒーを「アメリカン」と呼ぶが、濃いめのコーヒーは「トルキスタン」とも呼ばれている。コーヒーと同じく中身濃い友好を、と願わずにおれない。国思う上で、先人の代から、信義と心が通じ合う国こそ重要である。友好を差し向けるべき国を間違ってはならないのである。

平成22年3月19日

博士の独り言
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路傍の春(筆者)
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日本は毅然とあれ!

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胸を張れ、先祖代々の日本人  
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