【寄稿】

北部祖国を訪問して

金良美(キム・ヤンミ)

 “米国が私の祖国に先制攻撃を仕掛けるかもしれない。また日本がそれに追従し、私達の祖国を再び軍靴で踏みにじるかもしれない。少なくとも、その準備が着々と進められている”という危機感と恐怖感。そしてそれを何としても防いでいかなければならない切迫感に包まれた中で、北部祖国を訪問することになった。南北海外の同胞が集まり「6・15南北共同宣言」2周年を祝して開催される金剛山での統一大祝典は、米国の戦争に参戦するための日本の有事法制導入が進められる緊迫した情勢の中では、一層その重要性を増す。それ故に、今回の北部祖国訪問は、私にとって大変な重みを感じる訪問となった。

当たり前の光景

 元山のホテルからカメラを持って一人で公園へでかけた。リュックを背負い半ズボンで大きなカメラをぶら下げた‘けったいな’私を、道行く人々は訝しげに見ていた。
 「アンニョンハセヨ(こんにちは)」とすれ違う人に愛想良く笑いかけると、さらに訝しそうに私を見、さっさと足早に過ぎ去っていく。見知らぬ人が気軽にあいさつをしてくるのだから、当然な反応だ。それでもニコニコしながらあいさつし、町のあちこちにカメラを向けた。
 「アンニョン!ミョッタンニョン?(こんにちは、何年生?)」二人でベンチに座っていた女の子に声をかけると、はずかしそうに「2年生」と答える。「学校楽しい?」「うん。」「何して遊んでるの?」「別に…」公園で見かけた子ども達に話しかけ、シャッターを押した。
 向かい側の道では、おばさんが4〜5人、大きな声で怒鳴りあいながら喧嘩をしていた。大阪生野区の同胞密集地で見る光景と同じだ。
 じゃんけんで鬼ごっこする子ども達、父親に手を引かれて散歩している子ども、母親におぶられながらわんわん泣いている赤ちゃん、頭に風呂敷包みをのせて過ぎ去るおばさん。
 本当に当たり前すぎることだが、泣き笑い、喜び悲しみ、汗まみれに働きながら、ここで生きる人々の姿をカメラに収め、日本に持ち帰り、一人でも多くの日本人や在日同胞に伝えることに、私の祖国訪問の大きな目的があった。なぜなら、この当たり前の日常、当たり前の光景を見ない、見ようとせず、この街を焦土化するための戦争法が日本で着々と進められているからだ。
 かつて日本軍は中国の人々を‘丸太’と呼び虐殺した。非人間化することで良心の呵責から免れるのだ。差別・侵略・虐殺の背景には、常に相手を人間として見ない、見ようとしない力が働く。蔑み罵倒しモノ化することで、恐怖感を取り除き殺人行為を可能にするのだ。
 私は当たり前の日常、当たり前の光景をたくさん持ち帰ろうと思った。こと‘北朝鮮’がとりざたされるとヒステリックに反応する日本社会では、そういうことが必要だと思ったからだ。
 ‘うさんくさい目’で見られながらも、町をうろつく私の気持ちはウキウキしていた。同胞が息づく祖国だという、何とも言いがたい安心感があった。

肌に伝わる危機感と切迫感

 私は権威主義が嫌いだ。タテ割り社会も嫌いだ。軍隊式の発想や行動様式なんて絶対嫌だ。家父長制に反対だし、「忠誠」という言葉も受け入れられない。それは在日朝鮮人であり、女性という自分の歴史性や立地点から見えてきた、そして民衆が主人の民主主義社会を願って運動をかじってきた、自分の体質化された価値観であるように思う。
 祖国の街には「偉大な先軍政治万歳!」「党が決意すれば人民は立ち上がる!」「一心団結」「行く道は困難でも笑って進もう!」「今日のためでなく明日のために生きよう!」という文字が誇らしげに、あちこちに掲げられている。
出会った人々に「将来の夢は何ですか?」と聞くと、一人違わず「統一された祖国の広場に私達の将軍様を高く迎えることです。」と、目をきらきらさせて本当に嬉しそうに答える。
 自分と価値観の違う社会主義の祖国を‘理解しよう’とし、‘みんなが納得してのことなら尊重しよう’と、違和感を覚えつつもそれはそれと納める感情のもう片側に、ひしと伝わってくるものがあった。
 それは、“絶対に自分たちは亡国と従属を受け入れない、誇り高く生きるのだ”という北部祖国の人々の、やるせないまでの切迫感だった。
 私には北部祖国に7人の親戚がいる。私が生まれる5年前、1963年に帰国したコモ(おばさん)とコモブ(おじさん)、その子ども、つまり、いとこの姉さん達だ。姉さんたちと過ごす時間は、北部祖国と私自分が融合できる貴重な時間だ。
 もちろん、統一大祝典の代表団として参加する私たち海外同胞を、祖国は温かく迎えてくれる。心を尽くして接してくれる。けれど、どうしても越えられない「断絶」がある。いくら同胞だと言っても、どこまでも私たちは「外」の人だという断絶感だ。
 これはある意味、仕方がないことだと思う。分断の痛み、米国・日本による敵視政策という、私たちの意思に反して持ち込まれたわが民族の苦難の歴史をじかに背負わされ、そこで民族の矜持を守り自主精神を貫いてきた北部祖国の人々と、異国日本でその富の一部を享受しながら生きる私とは、「同胞だから」という理由だけでは簡単に痛みを共有することが困難なように思えた。フィールドと立地点が異なることから生じる「断絶」なのだろう。
 しかし、姉さんたちと過ごす時間は、姉さん達とのふれ合いを通してその断絶が埋まる。北部祖国の痛みを自分の身内の痛みとして、身内の言葉の端々に出る、たくましく気高い、そして生きるために統一が必要だというその想いが、両手を握るすぐ目の前の現実として迫ってくる。
 「資本主義の国とは自由に対する考え方が違う。正直、生活は苦しいし、お金やモノが手に入る生活をしたいと思うよ。でも、自尊心を捨てることはできない。個人競争の自由より、国や民族全体としての自由が大切。
 日本で暮らしていたら良かったと、苦しい時は考えたりもするけど、でもやはり今みんなが一心団結しないと、いつ米国や日本が攻撃してくるかもしれない。そうなったら国も人民もみんな失われてしまう。みんなで心を合わせて頑張って、統一を実現したら、平和を守り民族の自尊心をもって生きていけるだろ。」
 しわだらけの、日に焼けたがさがさの手で私の手を握り、切々とそう語っていた。
 先進国の富を享受し、資本主義の価値観に染まっている私たちの側では、姉さん達を‘かわいそうな人’という人がいるかもしれない。またある人は‘苦しいのにそう洗脳されている’というかもしれない。
 でも、私は、この気高さを精神的支柱に、どんなに困難な中でも希望をもって生きてきた姿に心から敬意を覚えたし、私は私のフィールドで、本当に朝鮮と日本、朝鮮と米国、南と北の平和と和解を実現するために精一杯がん張らなければいけないと思った。
 「アリラン祝典」の公演で人民軍が出てくると、北部祖国の人々は一斉に拍手を送って歓喜の声援を送った。
ここに立つと、世界の軍事大国である米・日が、いつ先制攻撃をしかけてくるかもしれないという、人民軍と共に先軍政治をしっかり進めないと国が滅ぼされてしまうという、ひしひしとした切迫感を感じる。
 決してそれが良いことだとは言わない。あるべき姿でもない。先に述べたように、軍隊式の発想やあり方に嫌悪感を抱いてきた私の価値観からは、やはり受け入れがたい光景であったはずだ。だけど、私に押し寄せた感情は嫌悪感ではなく、“日本に戻ったら、反戦運動をしっかりやろう”という静かな決意だった。

金剛山

 「6・15民族共同統一大祝典」は金剛山で開催された。金剛山といえば、「金剛山も食後の見物(花よりだんご)」の諺で知られ、朝鮮絶景の最高峰として讃えられる名勝中の名勝だ。数年前から韓国の財閥、『現代グループ』が金剛山観光事業に取り組み、今では南からも年間に数万人の観光客が訪れる。
 聳え立つ峰々、勇ましく流れ落ちる瀧、透き通る川の水、どこをとっても申し分のない美しい景色の中で、私たちは出会うべき人と出会い、民族の悲願である統一を実現するために語るべき言葉を交わした。
 統一大祝典での一つ一つの出来事を紹介することは控えるが、印象に残ったことを二つだけ記してみたい。
まず、南北海外に散り散りになっている私たちが共に過ごした2日間は、本来私たちはこのように生きてきたはずなのだとしみじみ感じるほど、牧歌的でユーモアと愛情に溢れ、安堵感を与えるものだった。
 そしてその雰囲気作りに誰よりも心を砕いてくれたのが、北の同胞たちだ。‘面白すぎる!’。非常に大衆的で、ユーモアに富み、明るくて、かつ細やかな心配りでみんなを盛り上げてくれる彼らの姿を、ぜひ日本の人々に見せたいものだ。統一旗がかかげられ、熱のこもった統一への想いとそれを実現するための課題についての演説が、南北海外それぞれから行われた。
目が合えば微笑みあい、すれ違えば声を掛け合い、トイレに並べば譲り合い、年配の人には互いが気遣いあい、弁当が配られればあちこちで歌い踊りだす。
 共に過ごした夜、誰かが、北の「同志の歌」を歌いだすとみんなが重なって歌いだす。そして南の民衆運動の中で歌われてきた歌がつづく。暮らしている場所は異なっても、所属している団体が違っても、私たちは同じ歴史を生き、ひとつの目標に向かって溶け合っている。雨の降る中、固く肩を抱き合い、私たちはそのことを確かめ合った。
 いつか、統一の道を切り開かれた故・文益煥牧師が言った。「統一は泥棒のように忍び足でやってくる」と。
 劇的なパフォーマンスでもない、ある日突然、天地がひっくり返るような事件でもない、ここで私たちが出会い、語り、歌い、抱きあうような空間が、朝鮮半島のそこかしこで実現できる日、何の障害もなく、所属や思想を選別されることもなくそれが実現できる日、そんな日常を取り戻すというささやかな行為の実現が、統一の姿なのかもしれない。
 もう一つ印象的だったのは、2日目の昼食時のことだ。2日目の昼食は、南側の主催で、『現代グループ』の施設に招待された。
 そこは別世界だった。金剛山にある北のホテルはお湯がでない。水も出たり出なかったりで、電気もあまりつかず、食糧事情も決して良くはない。しかしフェンスに囲まれたココは、まるで軽井沢のリゾート地さながら。お湯は使い放題、きらびやかな施設は電気も使い放題、トイレも水洗で現代的、大型スクリーンに南のテレビ放送が映り、もちろんホテルは快適な空間。ソフトクリームからお土産まで何でも揃う施設だ。昼食はバイキング。牛肉の刺身(ユッケ)を始め、次々出てくる料理。もちろん北側の人は、自由に行き来できない…。ここは北部祖国じゃない。別世界だ。
 私は非常に複雑な気分になった。ここに身を置きながら、“北部祖国を理解しよう、分かちあおう”という気持ちが生まれることはないだろう。ガラス越しに見る北部祖国を、冷暖房の利いた部屋で飽食しながら、何がしかの優越感を持って見るのではないだろうか。電気も水も使い放題の場所で、私はなんだか踏みつけられた気分になった。
 「この施設をどう感じられますか?私はちょっと気分が悪いです。」と、何人かの北の関係者に聞いてみた。
 「これはこれとして受け入れようと思っています。もちろん、いい気はしないけど、同じ同胞だから互いの体制を尊重しあおうと思う」という返事が返ってきた。しかし私は実感として、異なる体制の共存の難しさを感じた。
 勿論、『現代グループ』は大赤字を抱えながら、北の利益も保証してこの事業を行っていることはわかっている。この施設が快適であるほど、観光客も増える。観光客が来なければ、『現代グループ』と北の努力は水の泡になる。互いの合意の下に、北としてもプラスになるからやっていることもわかっている。それがいけないことでもなければ、否定されるべきことでもないのだろう。少しでも互いにとってプラスになるのなら、進めていくべきことだとも思う。それでもやはり、整理のつかない気持ちになった。
 もしかするとこれは、ここで暮らしていない、先進国ニッポンで楽に暮らしている私の「外」からの「何もわかっていない」感情かもしれない。ピョンヤンでも、テントで営まれる屋台を多く目にした。24時間営業の屋台の前を通ると「おいしいですよ。入ってください」と呼び込まれる。店員の人は非常に愛想良く、あれこれのメニューを勧める。「また来て下さい。お待ちしています」と声をかける。4度目の祖国訪問にして初めての体験だ。資本主義と社会主義の二つの体制が共存する練習が、少しずつ始まっているのかもしれない。私は目の前で起こっている事象に対して、感情的なレベルでの課題を持ち帰ってきたように思う。

戦争か統一か

 米国には「作戦計画5027」という、ピョンヤンを7日間で占領する計画があった。そしてこれは日本の後方支援、いや、直接的な参戦準備なしに成功しないとされている。日本の空港、港湾、道路、鉄道などの提供が、北朝鮮攻撃作戦の必須条件となっているのだ。
 米国は94年に、この「作戦計画5027」を実践しようとして諦めたことがあった。94年、北朝鮮の核疑惑が大きくとりざたされた時、一千発以上の核兵器をもつ米国が、“核兵器を作るに必要なプルトニウムを抽出しているかもしれない”という疑惑で、米国は真剣に北朝鮮と戦争を構え一気に叩き込もうとした。
 一触即発、戦争の瀬戸際にまで危機が高まったが、結局、クリントン政権が専門家に北朝鮮との戦争をシュミレーションさせた結果、90日間で米軍死傷者5万2千人、米軍戦費610億ドル、韓国軍死傷者49万人、百万人の民間死者という被害が想定されたことと、何よりも日本に戦争協力の準備ができていないのが致命的だ、ということで、この爆撃計画を中止し、ひとまず対話路線に切り替えた。
 この時から「日米新ガイドライン」の構想が進められ、日本は周辺事態法、国旗国歌法、盗聴法をはじめ、矢継ぎ早に戦争のための法律を作り、いよいよ有事法制を整え戦争をする国へと進みはじめた。日本で有事法制が成立することは即ち、私たちの祖国を焦土化する戦争の準備が完全に整った事を意味する。
 6月初旬、石原都知事が『ニューズウィーク』とのインタビューで、「自分が総理になれば、北朝鮮と戦争をしてでも、北朝鮮に抑留された日本人を連れてくる」と豪語し、福田官房長官は「日本も核兵器保有が可能」との暴言を吐いた。また6月10日にはブッシュ大統領が「悪の枢軸国への先制攻撃準備を指示した」との報道もあった。
 北部祖国の人々は、何の理由もなしに米日の軍事大国が侵攻してくるかもしれない状況下で、どんなに恐怖に慄いて暮らしているだろうか。厳しい経済状態の中で、戦争の危機と背中あわせで暮らす人々の恐怖感は、どれほどのものだろうか。
 軍事力を単純に比較しても、北には米日との戦争で勝算はないだろう。ただし、ピョンヤンを制圧し占領しても思い通りの統治ができないことを相手に見せ付ければ、戦争を未然に防ぐことはできるかもしれない。
10万人が参加するアリラン祝典のマスゲーム。軍・官・民が一体となった精神的紐帯。これらは支配しようとする側にとっては非常な脅威に映るのではないだろうか。米軍が駐屯し朝鮮人民を統治する正当な名目もなければ、北の人々の金日成主席や金正日総書記を頂点とする一心団結を崩す事もできないだろう。つまり占領統治に伴うリスクを大きくすればするほど、その選択肢の価値が下がる。そう考えると、強張った北のあり方は、大きな対抗武器のひとつと見ることができるようにも思う。
 そして、その北朝鮮の体制を認め尊重し、民族どうしの力で統一を成し遂げようと南北の間で合意した「6・15南北共同宣言」は、朝鮮半島の平和における礎石だ。
 9・11事件以後、北を“悪の枢軸”と規定し、核使用を含む先制攻撃の可能性まで示唆する米国の強硬な政策をみる時、もし、2000年6月の南北首脳会談がなければ、もし、「6・15南北共同宣言」がなかったら、米国の戦争策動はもっと露骨なものになっていたかもしれない。
 南北の和解と平和共存、自主的統一への歩みは始まったばかりだ。50年間も敵対してきたことで生じたあらゆる不信を取り除き、分断体制を克服していくにはたくさんの時間がかかるだろう。
 ひとつひとつの積み上げによって信頼関係を築いていかなければならない。私たちは今、6・15の精神を一歩も後退させることなく、粘り強く南北の交流を進め、和解と団結を積み上げていくために一層努力しなければならない。そうした民族自身の明確な姿勢が、戦争策動を放棄させる力になるのだと思う。統一運動は今、‘分断か統一か’ではなく、‘戦争か平和統一か’という岐路に立たされているのではないだろうか。

最後に

 北の祖国には、生活は苦しいが誇りを守って生きる人々がいる。北部祖国を第三世界として見るならば、北朝鮮の民衆は強者と弱者の世界秩序の中で、必死に民族の自尊心を守って生きている人々だ。日本でセンセーショナルに伝えられるように、もちろん中には脱出する人もいるだろう。それほど苦しい闘いがあるだろうことは想像がつく。
 しかし、モノに溢れ、後進国を踏みつけて成り立っている世界に暮らす側の私たちが見るべきは、きらびやかな市場経済と資本主義社会の影で呻吟し、生きることに精一杯な第三世界の人々の姿ではないだろうか。
 ‘20世紀の戦争で1億人が殺されたとしたなら、80年代以降の構造調整が年間500万人以上の子どもを虐殺している。グローバル化は戦争そのものである。’(『グローバル化という名の戦争』)。
 地球の60億人口のうち、5人に1人が貧困生活を送り、8億3000万人が飢餓状態で、そのうち2億が子どもであり、毎年600万人の5歳以下の子どもが死亡しているという。また、発展途上国では2億5000万人の5〜14歳の子どもが労働している。バングラディッシュでは330万人の子どもが労働し、300人の児童を雇用しているある工場では、工場の床で眠らせ、1日20時間働かせて1ヶ月の賃金は7.5ドル。また、パキスタンでは5〜15歳の児童の25%が労働し、その半数の子どもは12才未満で死亡しているという例も、この本に紹介されていた。
 モノ・カネ・情報・ヒトが国境を越えて行き来するグローバル化時代、多国籍企業の特権を優先し、強者が弱者を貪り喰う勝ち組みのための世界構造。先進国の子ども達のおもちゃを、後進国の少年労働で作るという残酷な現実。そしてそのグローバルな資本の利益を担保する絶大な軍事力。このしくみの矛盾を解決するためにより努力すべきは、その甘い汁を享受する側だろうと思う。
 私たちは決して「強者」ではない。時代と国家関係という情勢の変化に伴い、いつ「弱者」の立場に追い落とされるかもしれない存在だ。しかし今、私は「強者の側」にいる。
 パレスチナの、アフガンの、北朝鮮の人々は現実から逃げられない。‘あの国は理解できない’と、また‘自分にできることは何もない、運動に参加するなんてしんどい、私には関係ない’と言い放って知らぬふりを決め込めるのは、圧迫されない特権を持つ、「強者の側にいる」人だけではないだろうか。