「ラッキードッグ1」ホワイトデーショートストーリー
『Steampunk Blues』
2010.03.14〜2010.03.21


「……おい、今日が何日か言ってみろい」
「――3月14日だな」
「この駄眼鏡、おめーよう! 先月のバレンタインの時に、なんつってた? あのカード
 書きのシノギで腱鞘炎になって目がショボショボしてたこの可哀想な俺に、だ!
 たーしか、1週間後にスパを貸切にしてやる、って言ってたよなあ!?」
「ああ、言ったな。諸所の事情で、日程がずれてしまったが」
「ズレたってレベルじゃねーぞ、1ヶ月近くの遅れじゃねーか!! それに……!!」
 騒がしい馬鹿が――俺たちみんなの気持ちを代弁しているのだ!!と、でも言いたげな
ツラそして素振りで立ち上がり、大根役者よろしく手を振りかざす。
「おっと」
 その馬鹿、イヴァンの腰から汗で湿気ったタオルがずり落ちそうになる。
 セーフ。
「たしか、マッサージの姉ちゃん呼ぶって、言ってたよな! な、な!?」
「……それはルキーノだろう。俺は、ここを手配しただけ――」
「あー、このコッパゲ、オメーの方だったか」
「誰がハゲだ、誰が。ああ、レディは最高のを手配したさ。だけどな……」
「ここにいなけりゃ意味ねえだろうが!?」
「不測の事態、か……」
 ジュリオが、顔の汗をぬぐった、その手の仮面の下でぼそりつぶやく。
「たしかになあ。マァ、忙しーわ突然の客わ来るわで、てんてこ舞いだったもんな」

 俺は――
 世界中で、いい歳こいた野郎ども5人が腰にタオルをまいただけの姿でサウナに押し込
められて不健康な汗と、そして愚痴をこぼしているマフィアのボスと幹部たちの中では、
最高にマヌケな5人だった。
 ――そして俺は、そのボス。CR:5二代目カポ、ラッキードッグ・ジャンカルロ。

「まあ、たまにはこーいうのもいいんじゃね?」
 俺は、鼻と顎の先から滴り落ちる汗を目で追い、俺を取り囲むようにしてぐるり座って
いる野郎どもに……。
 部下の幹部たち、ベルナルド、ルキーノ、ジュリオ、そして喧しいイヴァンに言った。
「風呂と違ってさー、汗出てんのわかるしさ。ちっと熱くてきついけど、なんか、健康の
 ためなら死んでもいい、って気分に……ならない?」
「ならねえよボケ!! ああ、クソ!! ただのサウナだけだったら、今日一日オフにし
 てこんなところに来たりしねえっての。しかも……」
 また、大根役者イヴァンが手をふって、俺たちを舞台に引きずり出す。
「これじゃ、バレンタインの時といっしょじゃねーか!! オメーらとカンヅメで、ツラ
 突き合わせてよ!!」
「……フン、なんだ? そんなにレディのマッサージが楽しみだったのかイヴァン。なん
 なら、いまからおまえのためだけに一人、手配してやろうか?」
「ば……! そ、そんなんじゃねえっつってんだろ! ちっと、よう、あれ以来、手首と
 肩が凝ってギスギスすっからよ、プロにだなあ」
「なるほど。イヴァンんの凝ってるのは、もっと別のところのようだな」
「う、ううう、うるせえ!! そんなモン、俺はな、シマにでりゃオンナなんぞ向こうか
 らワンワン寄ってくるんだっての!!」
「――上下のつきあいがある男女関係、というのは大変そうですね。ジャンさん」
「なぜ俺にいうかな、ジュリオくん」
「だああ、うるせえぞそこ!! とにかく!! スパの予定を1ヶ月もずらせたおまえ、
 ベルナルド! それと!! レディの数を余裕持って揃えておかなかったルキーノ!
 おまえらがイチバン悪い!!」
「ンモー、カッカすんなよイヴァン。……マジ、溜まってんじゃねーのん?」
「ち、ちげーよボケ!! ……ああ、クソ、サウナがぬるいぞファック!!」
 どかっと、イヴァンは重厚な樫材のベンチに腰を下ろす。
 ……相変わらずやかましい馬鹿だったが――
 あんまり、みんなの攻撃がイヴァンに向かないのは、この馬鹿の言葉は、俺たちの心境
をどこかしら代弁しているせい……からなのか?

 問題の始まりは、1ヶ月前――
 クリスマス、年末、新年、その怒涛の礼拝とパーティー、会議、そして酒また酒の文字
通り不眠不休の「つきあい」ラッシュが終わって、一息つくヒマもなくはじまったのが、
バレンタインの挨拶、パーティー、そして果てしないカード地獄。
 とくに、水茎麗しい美筆を買われて、大半のカードを手書きさせられたイヴァンは、あ
のあと1週間くらい、腱鞘炎で右手が使えなくて左手でメシを食っていた。
 そして。今日――
 ボスが俺に変わり革新された組織の健在さをアピールしようと働いてくれた、この幹部
たちを労うために、バレンタインの1週間後、CR:5の運営するスパを、俺たちは貸切
にする……はずだった。
 風呂にプール、サウナ、マッサージルーム、そしてジムにシアター、バーカウンター、
信頼できるマッサージのドクター、そして厳選された助手のマッサージレディたち。そし
て当然のようにお泊りが出来る個室つきの、スパ。
 男なら、夜遊びのクラブとカジノを楽しむ右目と左手をそのままに、左目と右手で楽し
みたい娯楽の殿堂。高級スパ。貸切り。
 それが…………。

「……財務局をやり過ごせたのはいいが、まさか、BOIの配属替えにちょうど引っかか
 るとはな。おかげで、2月中はうかつに動けなかった……」
「下手に、こんなスパなんかにボス以下、幹部が勢ぞろいしてみろ。点数ほしさに野良犬
 みたいな目をしてるデイバン担当の捜査局員に、間違いなくインネンつけられてたぞ」
「……もう、そちらは平気なのか?」
「ああ。デイバンを担当にしていた捜査局員は、今月頭に、カナダ国境に飛ばされた。な
 んでも、他の優秀な捜査員が、デイバン配属をフーバーに直訴したんだそうだ」
「優秀なBOI捜査員? そんな未確認珍妙生命体が存在してんのかねえ」
「わからん。だが、そいつがデイバンに来るのは今月末だ――だから、俺たちがこうやっ
 て羽根を伸ばせるのは、いまだけ、ってことだ」
「のばせてねえじゃねえか!」
 イヴァンが、熱気と水蒸気で蒸れた壁をぶっ叩いて反論する。
「マッサージ・レディのことは仕方ないだろう。まさか、この日程で――俺たちのオフ日
 にあわせて、ボストンのお客人たちが避難して来るなんてな……」
「向こうでも、フーバー君が大張り切りらしいからな。財務省の取締官なんぞにカポネを
 かっさらわれて、かなりお冠らしいんだ。今度は、BOIが大物を上げるって息巻いて
 いるらしいぜ?」
「大変ねー、大店のマフィア屋さんも」
「ハハハ、人ごとじゃないよ、ジャン。おまえと、俺たちも、間違いなくBOIのリスト
 の上の方でコーヒーのシミをつけられてるはずさ」
「うち、そんなに大きい組織だっけか。自覚ねえな、NYの組とか見てきた後だとな〜」
「シカゴの組織も、無駄に大きかったですね」
「だったよなー。いま、向こうの部屋でおくつろぎかハッスルハイホー中かはしらねえけ
 ど、ボストンのほら、ミスタ・ヴェルサーチんとこは兵隊だけで千人だっけ? それと
 くらべりゃー、CR:5なんてちっちゃなお菓子屋さんみたいなもんじゃない」
 俺が汗をぬぐい、手をヒラヒラさせると――眼鏡を外し、腰タオル一枚でいるせいか別
人のような印象の、やけに精悍に見えるベルナルドが俺を見、いい顔で笑う。
「大きいだけじゃ駄目なのは、まあ色々あるが……」
 長い髪を、後ろででぎゅっとまとめてベルナルドが言った。
「そのちっちゃな組織に、NY連合の重鎮たちがクリスマスの挨拶に来たり、ボストンの
 ル・オモが庇護を求めてきたりしているんだ。それには、理由がある――」
「……はいヨ、組織の看板に泥を塗らないようにガンバリマスですよ」
 俺の言葉に、小さくいい顔で笑ったルキーノが、
「まあ。こんなのも――」
 天井を、その向こうにある遠いものを見た目で、言った。
「今日でおわり。今だけさ」
「そうだな……」
 ベルナルドが、同じように天井を見上げ、つぶやく。
「クリスマスから続いたドタバタ騒ぎも、今日で一段落だ。明日からはまた、みんなそれ
 ぞれのシノギで忙しくなるからな――こんなボーイスカウト生活も、終了だ」
「そうだよな……。なんか、ずーっとあんたらの顔しか見てなかった気がするもんな」
「クソッ、オンナがどんな生き物か忘れちまいそうだたぜ、ったく」
「……俺は……すみません、あまり忙しくなかったので、けっこう、その……」
「まあ、みんな――おつかれ。明日から、やくざの顔してお仕事がんばろうぜ」
 俺は、熱で歪んで見える空気を、その向こう、みっしり水滴がついた天井を見上げる。
「あー。熱くてきっついけど、気持ちいいなあ。これ……」
「……ああ。たまには、こういうのも悪くないかもな」
「だよな。本部にも、サウナルームつけるべきだったかねえ」
「そうだな。ここのマッサージとロシア式サウナはお客人が持っていっちまったが……。
 こうやって汗だけ流してるのも悪くない。体の毒が抜ける気がするぜ」
「いえてるな。最初はさ、なんか臭くって、酒とヤニの臭いがする粘っこい汗だったけど、
 なんか今はもうサラッサラの汗しか出てないしな」
「……クソ、このあとカウンターでビールをよう、ガーっと入れたら最高なのによ」
「しょーがねえだろ。バーはお客人一行が使ってるし。俺たちが出てったら、また面倒く
 さい話し持ち出されるだろーが。酒だったら部屋にあるからそれで我慢しろ」
「サウナとアルコールは相性が悪い。危険だ、心臓発作や脳溢血の危険が……。
 ――ジャンさんは、真似しないでください」
「あー、うん。なんか、酒って気分じゃねえし……。……オ、そうそう。これこれ」
 俺は、座席の下に放置していた、洗面具入れの袋を引っ張り出す。
「……??」
 その袋の奥から響いた水の音に、全員の目が俺を、そして――袋から取り出した、軍用
 の水筒に、向いた。
「ジャン、それは……」
「水か。ありがたい。お、凍らせてあるのか。エクセレント」
「おうよ。ここに来る前にな、こいつに水を詰めて、そんで冷凍庫でカティンコティンに
 凍らせておいた。ちょうど今、半分くらい溶けて飲み頃だぜ」
 うんうん、といくつもの顎が頷いた。
「ポイントは、満タンに水を入れないことだな。六分目ぐらいじゃないと、溶けきるまで
 飲めなくって、意味ねーからな」
 うんうん。いくつもの顎が動く。
 俺が水筒を揺らすと、漆黒の容器の中で揺れた液体と固体が踊り、ガロンと音を立てて
鳴った。その音に――野郎どもの目が、初めてエログラビアを見た小僧みたいになった。
「ヘヘ、さすがボス。気がきくな。どれ……」
「ジャンさん、その、お先に……。水分補給を、して……しませんと」
 俺は――砂漠の真ん中に取り残された野郎どもの前で、水筒を揺らして視線を集める。
「なんだなんだ、おまいら、その顔は。そのボスを尊敬してます、的な目は?? 今まで
 めったにそんな顔したことないくせしやがって。……しかたねえ――」
 スクリューの蓋を開けて、俺はでかい水筒を傾け、
「……うっ、く〜〜〜! かぁーっ、痛えええ〜、くらいに冷て〜」
 わざとこぼれる勢いで、口の中にアイスウォーターをぶちまける。冷たい飛沫が、口と、
汗まみれの胸板を流れていく。
「うわ、こぼれてるって、おい!」
 イヴァンが腰を浮かせたが、俺は構わず冷水を楽しんで……。
 ドン、と再び水筒を俺の傍ら、ベンチの上にはべらせた。
「たまには、ボスっぽく下々のモノをいじめてみるか」
「な……ジャン?」
 俺は、熱い壁に背をあずけ、王様のように座る。いきおいあまってタオルがズレかけた。
 セーフ。
「こいつが飲みたかったら……そうねえ、ちょうど四人いることだし、俺の手足でも揉ん
 でマッサージしてもらおうかしら。手ェぬいたり痛くしやがったら水はナシ」
「なんて暴君だ……」
「おうとも。水で民衆を支配する古代チャイナの皇帝の気分だぜ」
「マッサージって、俺、野郎にそんなのした事ないぜ……」
「マアいやらしい。オンナにはしたことあるのね」
「……なんだよそりゃあ? なにが悲しくって、野郎をモミモミせにゃならんのだ」
「いつも自分のナニをモミモミしてんのに文句言うな。嫌ならそこで渇いてゆけ」
「――えっと、素人のマッサージは、危険です。俺がひとりでやりますから……」
「それじゃ意味ないでしょうが。――ほれ、早くしねえと俺がひとりで全部飲む」
 われながら、ヒマなんだなあ俺、と腹の底で溜息をつくような嫌がらせを、それでも、
なんだかうきうきな気分で俺は野郎どもに強要する。
「あー。幹部が規定通り5人いなくてよかった」
「なんでだよ?」
「もう一本あるからさー。いっくらなんでも野郎の部下に性的な奉仕強要はまずいだろ」
「死んどけこのボケ」
 少し冷たい水が入っただけの水筒に、人生すべてを支配されてしまったようなツラの野
郎どもがその顔を見合わせたとき。
「――失礼します……」
 サウナ室の外で待機していた護衛が、控えめなノックの音を響かせた。
「……お客人たちは、みな、休憩室に入りました」
「おう。オッケー、やっとぜんぜん休む気がない休憩タイムか」
「それと、シニョーレ・ヴェルサーチが、カポにお礼が言いたいとのことですが……?」
「え、俺か。……しゃあねえな」
 俺は腰のタオルを巻き直し、ベンチから立ち上がる。ほっとした顔、何か気になってい
そうな顔、早く行きやがれという顔、なぜか残念そうな顔が俺を見送る。
「ああ、暴君カポは短い夢だったな。――じゃあ、またあとでな」
「あ、ああ。ボストンのル・オモによろしくな」
 俺はベルナルドの言葉に背中で手をヒラヒラさせ、護衛からガウンを受け取った。

 その後には――
「…………」
「さて……」
「……おい、飲まねえのかそれ」
「……俺は、いい」
 自分の汗で、髪と身体を濡らしている男たちが、置き去りにされた水筒を見つめていた。


□ Cooldown room

「おう、ベルナルド、ここか。おつかれ――」
 フカフカなスリッパの足音といっしょに、ジャンカルロの声が聞こえてきた。
「それは俺のセリフかな。おつかれ、ジャン」
 俺は、オフィーリアのように身を浸していた水の中から身を起こす。清潔な冷水が冷や
してくれた身体は、新品のシャツを着たときのように気分がいい。
「ボストンの客人は、何か?」
「いや、とくに。ていうか予想通り。あと1週間ほど、デイバンにいたいってさ」
「デイバンを気に入ってもらって光栄……だが、経費はこちら持ちだからな。ル・オモを
 モーテルに泊めるわけにもいかないしね」
「じゃあ今年の夏は、テッポウでボストンまで押しかけてバカンスするか」
「いいね。――そのヒマがあれば、だが」
「だよねー」
 俺は、両の手をタオルがわりに、眼鏡を外した顔と、髪を撫でて――ジャンを見上げる。
「ああ、ジャンもこのプールに入るかい」
「んー。いや、今はいい。歩き回っててなんか汗引いちまった」
 いつの間にガウンを脱いだのか、腰タオル一枚のジャンカルロは肩をすくめてみせる。
あまり肉はついていないが、なんだか10年近く前から印象の変わっていない体つきの我
らがカポは、冷水プールの縁に腰掛け、マフのスリッパを放り出した足だけを水に漬ける。
「うおー、冷たくてキンモチいいわ。あー、俺も潜水すっかな」
「どうぞ。俺の隣はいつでも空けてあるよ」
「ンまあ、このたらし。エロガッパ」
 ばしゃばしゃ、足で水を蹴るジャンは、顔を剃ってきたせいかつやつやした顔で、なん
だか――彼がまだ小僧だったころを思い出す。その頃は、俺もまだ馬鹿な若造だ。
「……いや、あんまり変わってないか」
「なにが」
「いえ、こっちのハナシさ」
 俺は、プールに沈めておいたコーラの瓶を一本。
「甘い飲み物でもいかが、我らがカポ?」
「オ、いいねー」
 俺はプールの縁に引っ掛けて王冠をこじ開ける。あふれた褐色の泡がセクシーな瓶と、
受け取ったジャンの手を汚す。
「うおっと。もったいね」
「――…………」
 ジャンカルロが指をしゃぶってから、瓶を傾けて盛大に喉を鳴らす。髭剃りのローショ
ンを塗った顎、喉が反り返って、ひく、ひくと嚥下で動く。そこを流れる炭酸の泡の弾け
が聞こえてきそうだった。
「…………っ……」
 まずい。
 俺は、東洋の僧侶のように水の中で脚を深く、組んだ。
「うっはあ〜〜〜。キクぜ、こいつは。ありがとうよ、ベルナルド」
「い、いや、なに」
「あー。そうそう。お客人は休憩中だけど、マッサージルームはあいたみたいよ。俺、さ
っきヒゲと脇剃ってきた」
「ああ、そうだな……」
「そろそろ暑くなるからな。剃っておかないとシャツが一発でおシャカになるからなー」
「そ、そうだな」
「そういやさー。この前来いたんだけど、ヨーロッパのさ、むこうじゃ野郎もオンナも、
 剃らねえんだってさ。ちょっと意外だよな、びっくりしちまった」
「はは……。なににセクシーを感じるかは、まあ、その、価値観の問題で……」
「? なにキョドってんの。……あー、ごめん。配慮が足りなかったわ。ベルナルドの前
 で毛のハナシとか。正直すまん」
「失敬な。大丈夫、俺はちゃんと注意して手入れしてる」
「ハハ、わかってるって。ていうかさあ」
「……??」
 ザブン、と……ジャンカルロは水の中に滑り込んで、俺の右腕にくっつく。
「な、ジャン?」
 ジャンカルロは、ニヤッと笑うと……声をひそめて、俺に言った。
「でかい声じゃ言えねえけどさ。いっつもさ、髪のネタでベルナルドのことおちょくった
 りしてるけどさ――もしかしたらさ、ルキーノもけっこうやばくね?」
「……なんのことかと思えば」
「あいつ、ライオンヘッドで髪の毛多いけどさ、ああいうタイプって、イクときは一気に
 イキそうな気がするよな」
「……俺ね、実は……イヴァンもけっこう危険だとにらんでいる」
「あ〜〜〜。あるかもな、あいつは抜けても『これは額だ!!』って言い訳するよな」
「フハハ、今、頭の中でイヴァンの声が再生されたよ」
「ジュリオは……あいつは大丈夫そうだな、つーか、なんかおっさんのジュリオが想像出
 来ないわ」
「それは……そいつも、俺のセリフかな」
「ん?」
 俺は手を伸ばして――濡れているジャンカルロの髪をくるくると遊ぶ。
「ジャンには、もっとでかいカポに、東海岸でいちばんの大物になってもらう予定なんだ
 が――おまえが、さっきの客人たちみたいなビア樽になった姿が想像出来ないよ」
「そう? じゃあもっと食って、不摂生すっかな」
「いや――これからは、スリムが正義の時代が来る……」
 その時。
 遠くで、ベルの音がした。俺の部下が、何かの電話連絡を俺に繋ごうとしていた。
「すまん、何かあったようだ――」
「おう。じゃあ俺、バーで不摂生してくるわ。なんかあったら、言ってくれな」
「ああ――」
 ジャンが、プールを出て…………腰に、尻に巻きタオルを張り付かせ、行ってしまう。
「………………」
 俺は………………脚を崩せないまま、部下が電話機をこちらまで持ってくるのを冷水の
中で待つしかなかった。


□ Bar counter

「おんや。ルキーノ、ここだったのか――」
 細っこい身体に、ふかふかの白いガウンとスリッパを引っ掛けたジャンカルロが、我ら
がカポがお出ましになった。
「少し喉が乾いたんでな。水分補給さ」
 俺は、すっかり汗と水気をすいとってくれたバスローブの帯を締めなおし、バーカウンターの中で燻らしていたシガーを消す。
「で、お客人たちはどうだった?」
「ああ。みなさんゆるゆるとおくつろぎだったよ。今ごろ、休憩室で本当に休憩してるこ
 ろあいかねえ。そうそう。ヴェルサーチ氏が、ルキーノに礼言っといてくれって」
「――なるほど。ボストンの紳士方は、あのタイプのレディたちが好みか。いい情報だ」
「デイバンは美人が多いのかもねえ。……ああ、なんか人生無駄にしてる気がしてきた」
「選り取りみどりの二代目がなに言ってやがる。……まあ、確かに遊んでる暇はないな」
 俺は、女にもそっちの趣味の男にももてそうなジャンのしょげた顔を見、
「憂さは酒で流すにかぎるぜ。――じゃあボス、ご注文は?」
 ウィンクしながら、銀のシェイカーを指ではじいて言ってやる。
「オ、なんか作ってくれるのけ? うお、カクテルなんてどんだけぶりだよ俺」
 犬の前で、スーパーの紙袋の音をさせたのと同じ速度で、ジャンの顔に笑みが浮かぶ。
「じゃあ、バーテンさんにおまかせで。ひとつ」
「かしこまりました、ボス。疲れてそうだから甘いのがいいな」
 俺は、けっこうな品揃えと設備のカウンターの中、ズラリ並んだ酒瓶とアイスボックス
をさっと見、そして空になっていた自分のグラスを見、決める。
 銀のシェイカーを脇に、ライウィスキーの瓶を取ってくるっと回した俺に、ジャンの
えー、な視線。
「なんだよ、おまかせだとただの水割りかよ」
「カクテルを前にうだうだしゃべる男はモテないぜ――」
 俺はミキシンググラスにウィスキー、ベルモットとビターズを数滴、アイスを入れてゆ
っくりかき混ぜ、冷えた液体だけをカクテルグラスに注ぐ。そして仕上げに、シロップ漬
けのチェリーをひとつ。
「ほれ。少し強めだ」
「おう、サンキュー。おお、これたしかブロンクスだっけ」
「マンハッタン」
「ア、ソウ」
 ジャンは、子供っぽいニヤニヤ顔でカクテルグラスで泳ぐ真っ赤なチェリーを揺らして
いた。口をつけないジャンに、俺は肩をすくめて自分のマティーニを手早く作る。
「ティンティン――」
「サルーテ」
 乾杯をして、俺たちはグラスを舐める。ジャンは喉が乾いていたのか、数口で赤いカク
テルを干してチェリーをつまんでいた。
「おかわりは?」
「もちろん。……ンモー、カポ酔わせてどうする気だよう」
 チェリーを口の中でもごもごさせながら、ジャンはカウンターテーブルにぐんにゃりと
突っ伏した。そこに、新しいグラスに注いだ酒を滑らせてやる。
「んあ。ああ、灰皿」
 煙草とライターを出そうとした俺に、ジャンはニッと笑って――ぷいと、灰皿にチェリ
ーの種と茎を吐き出す。
 その茎が――くるんと真ん中で結ばれていた。
「……ほんと、おまえこういう変なところばっかり器用だよな」
「ほっとけ。あー。このチェリーうめえ。これだけ別にくれよ」
 俺はわざとらしく肩をすくめて、マラスキーノの小さな缶をまるごと出してやる。
「ン……。そーいやあさ」
 今度は茎をクリスマスの葉飾りのように丸めて吐き出したジャンがぼそり、言った。
「聞いたことない? これが出来るコはキスがうまいとかなんとか」
「……そんなもん、ミドルスクールとかのハナシだろうが」
「いんや。それがさあ。むかーし、といっても5年くらい前か。俺がシノギやってた地区
 のさ、プロのおねーさんたちがコレ、練習してたのよ。こいつが出来ると、キスどころ
 かアレがさ、おしゃぶりが上手いアピールになるって」
「……まさかおまえも練習したのか?」
「いんや、俺は最初から出来た。おねーさんたちが気ィ悪くするとあれなんで、出来ない
 ふりしてたけどさ」
「どっちかというと、イヴァンの仕切りの世界の話だな」
「そうかもねー。ああ、でさ」
「な……」
 ジャンは、いきなり――
「うわっ、なん……だよ?」
 輪っかにした茎を、舌の先にはめて……あう、と大きな口をあけて俺を見る。
 カクテルとチェリーで赤く染まった舌が、息をするたび、動いて……。
 ……やばい。……酒が入ると、こんなことで下腹に響く……。
「なんだよ、そんな馬鹿みたいなツラすんな……」
「んあ。いやさ、昔の俺も今と同じで探究心が旺盛でさ。これが出来るコが、本当に上手
 いかどうか試してみたわけよ」
「健全だ。で、どうだった?」
「関係なかったね。なんかさ、かえって舌先でこちょこちょされて落ち着かないっていう
 か、なんか技工に溺れて目的を見失っているっていうか」
「フ……人生の薀蓄に満ちた、いいハナシだな……」
 ……まずい。こんなエロ話にもなっていないような話で……どうした、俺……??
「それ、で……。ボス、その寓話の格言的な意味は?」
「ああ。だから、俺がこんなことできてもまったく意味ないね、っていう」
「カーヴォロ」
 俺は、もう5杯目のマティーニを作って、オリーブも入れずにそれをあおる。
「ああ、そうそう。んでさー。そのシマでさ、結局、いちばんおしゃぶりがお上手だった
 のってさ――色々聞いた結果……」
「ん……? まさか――」
「オカマちゃんの男娼の、コークってあだ名のヤツだったってオチ。やっぱり、自分につ
 いてっからツボがわかってるのかねえ」
「ハハ……かも、な」
 そのとき、俺の視界の隅に――このラウンジにそうっと入ってきた部下の姿が、ジャン
を探して、何かのメッセージを預かってきたらしい護衛の姿が、映った。
「おい、ジャン。まだ潰れるわけにはいかんようだぜ」
「ん……。ああ、わかった。たぶん、爺様かおやじからの連絡だ」
「親父もここに来るのか?」
「わかんね。……ま、いいさ。ありがと、ごちそーさんルキーノ。ツケといてねー」
 ジャンは、首をコキコキ鳴らしてカウンターを離れ、俺に後ろ姿で手を振り……。
「…………」
 行ってしまった。
「まいったな…………」
 疲れているな、と実感した。疲労が溜まると、無性にセックスしたくなることがある、
それだなと俺は納得し……。
 しばらく、カウンターの奥から出られない有様で俺は6杯目のマティーニを作った。


□ Massage room

「あれ。こんなところで何してんのイヴァン」
 真っ白なガウンとスリッパが最初に見えたせいで、一瞬、誰だかわからなかった。
「何って。マッサージルームで釣りする馬鹿はいねえだろ」
「ああ、マッサージってそういう……。お邪魔しました」
「ち、ちげーよボケ!! ちょっと身体使ってたんだよ!!」
 ムカつく。俺はこのタコ野郎に、さっきまで俺が汗を流していたウェイトとベンチを指
さしてやる。
「へー。なんか元気が余ってるねえ。うらやましい」
「フン……。おめーも鍛えておかねえと、イザって時にぶるってなんにもできねえぞ」
「だいじょーぶよ。頼れる部下がいるからねえ」
「うるせえタコ。……てか、なにしにきたんだよ?」
「いや、親父がこっちに来ることになってさ。ボンヤリして待つことが出来る場所を探し
 て放浪してたわけよ。これ以上フロに入ってたらふやけちまう」
「アレッサンドロおやじが?」
「ああ。こっちにきて、俺たちの代わりにボストンのお客人を歓待して、ついでにいろい
 ろナシを通してくれるってさ」
「そっか。じゃあ、こっちは気兼ねなくデイバンに戻れる、か」
「そうゆうこと。でさ、帰りの運転、たのむわ。俺、おまえのメルセデスで帰る」
「んあ? 組の車は――ああ、そうか。おやじの帰りの足か」
「そうゆうこと。ベルナルドたちは部下と一緒に戻るってさ」
「……ったく。めんどくせえ。わかったよ、何時に出る?」
「朝の5時。市内の道が混みだす前に出ようぜ」
「わーった。……ちっと寝るか……いや、寝ない方がマシな時間だな」
 壁の時計は、そろそろ深夜の2時を指そうとしていた。
「……ああ、クソッタレ。風呂であっためたら少しマシになったな」
 俺は、まだ針金でも入ってるような右腕の筋肉と関節を動かす。
「おつかれちゃん。残念だったねえ、プロにモミモミしてもらえなくって」
「うるせえ。……てか、おめーこそがっくり来てたんだろ? 今日は久しぶりに野郎ども
 じゃなくて、オンナの裸見てスッキリ出来るって、わくわくボッキしてたんだろ?」
「いやー、正直それどころじゃなかった」
 ジャンは、溜息のように深く息を吐いて、低いマッサージ台に腰をおろす。
「…………」
 俺の前で、まだ乾ききっていない髪がファサリと揺れ、このタコのうなじを流れ
て朝日を浴びたカーテンみたいに……金色をしていた。
「ボストンの客人がきちまったからさ。ココの施設とレディを提供するだけだったらいい
 んだが、万が一があったらいけないから護衛手配してさー。いや、ジュリオも来てっか
 ら大丈夫なんだけど、他所様にはそれじゃ通じないじゃんけ」
「ま、まあ……そうだな」
「あとさ、NYの連合のお偉方にさ、ボストンと仲の悪い御仁がいてさー。そっちにも話
 をとおしたりさ、別にむこうに肩入れしてるわけじゃないよ、って。あーめんどくせー」
「……やくざの世界も、ミドルスクールのグループ作りとたいしてかわらねーな」
「言えてる。つーわけで、こっちはマスかくひまもなかったわけだよイヴァン君」
「知るかボケ。こきたきゃそのへんでこいてろよ、あっち見ててやっから」
「何が悲しくておまえの後ろ姿オカズにしなきゃなんねーんだこのタコ」
「タコはてめーだボケ!! ああ、もう!! やっぱりルキーノの野郎が悪い!!」
 ……やっぱり、たまには女を抱かないと駄目だ、そう思う。
 ……だから、最近どうも駄目だ。
 ……女抱いてペニスを使っておかないと、軸がぶれる。
 ぶつくさ言っていた俺の視界の隅で、ジャンは別のベンチにおいてあった鉄アレイなど
持って、すぐそれを下ろしていた。
「――…………」
 ジャンは……真っ白なガウンから両の腕を抜いて、それを腰のところで縛っていた。
 汗をかききってサラッと乾いた上半身が、細く見える筋肉が、揺れていた。
「やべー。9ポンドが重く感じるわ。疲れてる、ってーか、なまってるなあ」
「……フン、俺なんかおまえが来るまでそっちの21で100回ワンセットやってたぜ」
「スゴーイ」
「……バカにしてんのかこのやろう」
 純真な子供みたいな目で俺を見たこの馬鹿を、俺はぶん殴ってやろうと――
 そのとき、
「お? なんだこれ」
 ジャンは、マッサージ台の下においてあったカゴをつま先で引っ張り出していた。そこ
から、一本の瓶を――
「ああ、ローションか」
 罪深いピンク色をした液体を、それがつめられたガラス瓶を、ジャンは電灯に照らすよ
うにしてしげしげ眺めていた。
「んあ? なんでそんなもんが――」
「マッサージ用かね。本当は、コレ、セックス……ごめん、オナニーの時に使うんだろ」
「…………てめえ。なんで俺の顔見て言い直すんだ死ね」
「まあまあ。……そうか、じゃあ……」
 ポン、とゴム製の瓶の蓋が開いて、その音がして、俺は一瞬ぎょっとする。
「オツカレちゃんのイヴァンちゃんに、ちょっとサービスしちゃおうかなかな」
「な……。な、なっ、おま!?」
 つう、っとピンク色の粘液が瓶から滴り、ジャンの手のひらにたまる。
 瓶を置いたジャンは、そのローションを手洗いするようにこね、俺を見、ニッっと何か
の動物っぽい笑を浮かべた。
「ば……ばっかやろ……! そんなの、おま……」
「はあ? つか、なにキョドってんの。おまえ、まだ右手がこってるって言ってただろう
 がよう。ちょっと俺が、こいつでスムージーなマッサージしてやろうかと」
「…………。……あ。……!! な、な! 紛らわしいんだよこのボケ!! つーか、い
 らねえよ、そんな……!!」
「ン? 素手でがっつりもんだ方がよかったか? ……てか、これでちんこ揉むとでも思
 ってたのかよこのタコ。キモイ。ローション残しておいてやっから自分でやれ」
「う、ううう、うるせえええ!!」
 その時だった。
 マッサージルームに、ノックの音が響いて、俺は心臓を吐き出しそうになるくらいぎょ
っとしちまった。
「ああ。来たな――」
「な……」
 ジャンは、ベタベタの手をタオルで拭いて、
「いやな、ちょっとジュリオにハナシがあってさ、護衛に探してもらってたんヨ。さて、
 と…………邪魔したな、イヴァン。あとで頼む」
「い、いや――え……?」
「だから。5時に車出してくれってばよ。5時前にホールでコーヒでも飲んでてくれ」
「お、おう」
 ジャンはガウンを着直して、ドアを開き――行ってしまった。
「…………クソ、軸がぶれてんな……」
 トランクスの中でベンチプレスしてる場合じゃない。だいたい、なんで……。
 俺は、しばらくあの瓶を見つめてしまっていた自分に気がついて、孤独な罵倒をまき散
らしてから、鉄アレイを上下させる作業に戻った。


□ Dance hole

「おう、すまねえなジュリオ。待たせちまった」
 ジャンさんの足音がいつもと違うのは気づいていた。白いマフのスリッパを履いて、白
のガウンを着たジャンさんがホールに入ってきて、俺は座っていた椅子から、立つ。
「――いえ、大丈夫、です。とくに、なにもしていませんでしたから」
 いつもと違う姿のジャンさんが歩いてきて、近づいてきて、俺の鼓動が早くなる。
「その……なにか、問題……が?」
「いや、そういうのじゃねえんだけど、さ」
 肩をすくめてみせたジャンさんから、まだかすかに残っている浴場石鹸の匂いと、温め
られた身体から発せられる匂いが、体温とともに、ふわりと発散されていた。
 ――よかった。
 新年くらいからずっと働き詰めで、ひっきりなしにやってくる客と仕事のせいでジャン
さんは疲労し、体調を崩しかけていた。
 だが、いまは――少し、よくなった。体臭に混じっていた、不穏な体内毒の匂いは薄く
なっていた。サウナで汗を流せたせいだろうか。
「そういやジュリオ、どうして……ダンスホール? レコードでも聴いてたのか?」
「いえ……少し、ひとりでいようと思って――」

 嘘だった。
 ……本当は、あなたのことを冷静に考える時間が欲しかったんです――
 ……そんな言葉を、言えるわけがないし言うわけにはいかない。
 ……ジャンさんは、俺のボスで、組織にとって重要な人物だ。
 ……俺以外の人間をたくさん背負って立っている、カポだ。
 ……そして、ジャンさんは立派な男だ。
 ……俺がなにを感じて、なにを思おうと、それは変わらない。変えるわけにはいかない。

 ――俺は、これでいい。

 ジャンさんは、スリッパを磨かれたホールの床で滑らせながら、何かを言いづらそうに
して、同じ場所を行き来していた。
 俺は……黙って、立っていた。ジャンさんがなにをしに来たかは、なにを俺に命令しに
きたかは、だいたいわかっている。
 命令されたら、ふたことで済んでしまうことだ。
 だが、ジャンさんは……それを言わずに、言い出しづらそうにしていた。
 俺のことを気遣ってくれているのだろうか。
 俺は、それが嬉しくて、そしてつらかった。
 唾でも吐くように命令してくれた方が楽だ、と思うのと同時に、ずっとこのままジャン
さんがここにいてくれたら、二人きりでいられたら、と俺は思っていた。
「あー。すまん、ジュリオ。なんか、状況がフラフラしてて……」
 ジャンさんが足を止め、金の髪をくしゃっとかき、少し俺を見上げるようにして言う。
「――あとで、ここにアレッサンドロおやじがくる」
「顧問が。では、ジャンさんは本部にお戻りに……」
「ああ。まあ、そうなんだが……」
 おそらく、自分の予想は当たっている。俺は失望と、ジャンさんと同じことを考えられ
た喜びを、心臓の奥でゆっくり鼓動させる。
「俺に変わって、おやじが客人とハナシをするんだがな。俺たちは、もう街にもどらない
 といけないからな、護衛はそんなにおいていけないんだ」
 やはり、そうだった。
「では――ボストンの客人が帰るまで、俺は、ここで彼らの護衛を?」
「……そう。マッドドッグの話はしておいた。……すまねえ、ジュリオ」
 ジャンさんは、サムエルの祈りのように手を組んで俺にあやまる。
 俺は、そんなことをされて戸惑いながら、ジャンさんにあてにされたことで、役に立て
ている喜びの、二つの感情を胸の奥にしまう。
「……わかりました。では、俺以外の幹部が、ジャンさんの護衛に――」
「いや、それがな」
 ジャンさんはため息をついて、檻の中の犬のように歩いて、ホールの壁際においてあっ
たソファに腰をおろす。
「みんな、色々仕事がたまっててな。ベルナルドは、このあとすぐにフィラデルフィアに
 出張だ。向こうで新しい鉄道を敷くハナシに噛んでくるらしい。ルキーノはカヴァッリ
 爺様の屋敷で、役員会の会議に顔出し。イヴァンは、俺をデイバンまで送ったらすぐに
 港に張り込みだ。どうも、南米からクスリ持ち込もうとしてるヤツがいるらしくってな、
 下手に水揚げされるとヤバイ。他の組とBOIにガン飛ばされる」
 なにかを確かめるように、ひとつずつ話して――ジャンさんはソファに背をあずける。
「……ジャンさんの護衛が、心配ですが――」
「ああ、それならイナフ。心配ない。俺も手紙と書類の仕事がたまってる、たぶん向こう
 1週間は本部から出られねえ。念のため、掃除屋を本部に泊り込みさせてあるがな」
「そう、でしたか……」
 ジャンさんと1週間、いや、おそらく10日ちかく会えなくなる――
 俺は気分が沈んだが、だがしかし――この満足感は、きっとジャンさんの役に立ててい
るからだと思う。
 このまま、ボストンの大物たちを無事に匿いきることができれば、ボストンの組織だけ
でなく、東海岸連合でのジャンさんの立場はこれよりも強固なものになるはずだ。
 いつかは……。
 ジャンさんは、俺なんかがついていなくても安全なくらい、立派な、本物のカポになっ
て、CR:5だけでなくいくつもの組織を、いや、連合そのものを支配する、文字通りの
カポになるはずだった。
 俺は、そう思うだけで――確信とも言えるその思いを胸にするだけで、それが誇らしく
て、そして寂しくて――最近は、ジャンさんのことを思うと、いつもこれだ。
 喜びと、悲しみが、二つの相反する感情がヤヌスのようにひとつになって俺を満たす。
 そのとき、ふと――
「あ…………」
「…………ん、あ。しまった……」
 ジャンさんの目が、まぶたが重そうに落ち、かくんと首が揺れていた。
「やべー、寝そうになった。すまん」
「いえ……。あの、お休みになったほうが」
「いやー、5時にさ、イヴァンとここを出るから。下手に寝ると、起きられん。まずい」
 俺は、ジャンさんの視線を誘導するために壁にかかった古風な時計を見る。
「……そろそろ、3時ですので……。そのソファで、少しお休みになりますか? 俺、こ
 こで見張って――5時前に、ジャンさんを起こします」
「え。でも、それだとジュリオ寝られ……」
「俺は、いつでも寝られますから。どうぞ――」
「……うわー、こんなキョーレツな誘惑、俺の人生でも初めてだぜマジで」
 ジャンさんは笑って、おどけてみせてくれて……そして時計を見て、ふう、となにかを
あきらめたため息をひとつ。
「じゃあ、ちっとお言葉に甘えるか」
 ジャンさんは気持ちよさそうに背伸びをすると、そのままソファに沈み込む。
「じゃあ、支度があるから4時半チョイくらいに頼むな」
「わかりました――」
「……くそおおお! 寝る、寝れるぞおおお。サイコーだ」
 俺は、ジャンさんの邪魔にならないように下がり、ステージの方で――ジャンさんを見
守る。ジャンさんは、息もしていないような静かさで、だが、
「……くそ、疲れすぎか……変な耳鳴りがしやがる」
「……クスリを、お持ちしますか?」
「いや……起きられないと、まずい。だってよー、ジュリオ。俺が駄々こねたらそのまん
 ま寝かせそうだしなー」
 俺はそれに答えられず、
「では……なにか、静かなレコードでもかけますか?」
「おう、それいいな。なんか寝れそうなの頼むわ」
「――わかり、ました……」
 ジャンさんは、寝返りをうってこちらに背を向けた。真っ白なガウンから、金の日差し
のような髪だけがのぞいていた。
「――…………」
 俺は音をたてないようにしながら、ステージの背後、カーテンの裏側にある支度部屋に
入り、警備の時にみつけておいたバイオリンを取り出す。
 そして電気を消し――
「……月、か…………」
 カーテンが閉じられた窓、その隙間から青白い光線が差し込んでいた。
 俺は、銘は入っていないがかなり状態のいいそのバイオリンを確かめ、ルビーのような
松脂を弓に塗る。
 そして――
 ゆっくりと、最新の注意を払って弓を滑らせた。共鳴と振動が、ぎりぎり音楽になるだ
けの音量で、俺はバイオリンを弾いた。
 引き始めてしばらくして、自分がシューベルトのセレナードを弾いている、と気づく。
「……………………」
 よかった。ジャンさんの背中から、小さな寝息と、思い出したような軽いいびきが聞こ
えてきた。俺は、演奏を続ける。

 俺は――幸せだ。
 この時間がすぐに終わるのがわかっていても。
 頭のおかしい俺の気持ちが、ジャンさんに通じたりすることが絶対に無くても。
 いつかは、俺も俺が殺してきた人間と同じように死ぬことがわかっていても。
 今日のような時間が、もう二度と訪れないとしても。
 その理由。それは…………。

「……おやすみなさい。ジャンさん――――――」
END
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