「小猫に寄せる」    
                                 那田 尚史



 その小猫と出会ったのは3年半前、愛媛県の明浜町という宇和海に面した美しい町の防波堤だった。当時、波止場釣りに凝っていた私は、たまの家族サービスを兼ねて妻と2人の子どもを連れ、その防波堤にアジ釣りに来ていた。明浜近辺のアジといえば世評高い「関アジ」が回遊してくるために、脂が乗って身が甘く、釣り道楽で知られる俳優の梅宮辰夫が絶賛して自身の経営する魚屋に直送しているほどの逸品である。

 この刺身で飲むビールは殊のほか旨いのだ。が、釣りは自然の気まぐれとの戦い、特にアジ釣りは当たり外れが顕著で、その日はあいにくの不漁となった。その代わりに神様は思わぬ贈り物を用意していた。テトラポットの間から実に美しい小猫が顔をだし、私の家族の跡を追いかけてきたのである。当時7歳の娘が、この猫飼っていい、としきりにせがむ。私は猫を飼うのは初体験だったので、気がすすまなかったが、白地の体に背中から尻尾にかけてチョコレート色の帯がかかり、長く伸びた尻尾に至るに従って黒くなるシャム系(トンキニーズに一番近い)特有の優美な色合い、明浜の海の色と同じブルーの瞳を持つその小猫の姿に、ふと酔狂な気分が湧き起こった。そこで一つの賭けを思い付き、駐車場の車のところまで付いてきたら飼うことにしよう、と娘に約束した。

 果たしてその猫は、私たちの後を追って、長い堤防を通り、急な坂道をよたよたと登りきり、無事に愛車の前まで辿り着いた。娘は猫を抱き上げにっこりと笑った。本を読むのが大好きな娘は、遠くの海の町から四国山脈の中腹まで旅することなったその猫を、冒険小説家のジュール・ベルヌにちなんでジュールと名づけた。この猫が、私の最大の喜びと悲しみを与えることになるとはその時はまだわからなかった。当時の私は、様々な持病を抱えて静養すべき立場にありながら、東京に家を買う資金を貯えるために、一日の休みもなく学習塾を経営せざるを得ない立場にあった。東京に家さえあれば、貧しくても私は私の能力を生かせる仕事につけることができる。しかし、故郷でいくら安楽な生活を得たとしても、精神的には死人同様、という境遇に陥っていたのである。

 大学院を修了してから塾の経営をするまでの丸三年は、何の仕事もせずにひたすらに遊んで日々を過ごした。30代後半の男が妻子を連れたまま、経済を老婆に頼り、ただぶらぶらと生きるというのは、誰よりも本人が一番辛いものである。なんといえばいいのだろう、自分には生まれてきた使命があり、それは何か日本の文化に貢献するものに違いない、という漠然とした使命感が心を支えていたのだ。そのぼんやりとした自負がなければ3年もの間遊び続けることは決して出来なかった。けれど、肝臓、膵臓、頚椎、などに重い病いを抱え、その治療は薄紙を一枚ずつ重ねて山を築くような根気を要したので、その漠然とした使命感はしばしば崩れそうになった。そういえば、自分の葬式の夢をよく見た。もし長生き出来ないのであれば「要人テロ」を実行して短い人生を飾ろう、と本気で思っていたものだ。例えば、誰かが池田××を暗殺する計画でも持ち掛けてきたとしたら、私は喜んで身を投じたかもしれない。しかし、幸か不幸かそんな義侠心を持った愛国者との面識を得なかったために、私はテロリストとしての名前をこの世に残さずに生き続けたわけである。

 その静養期間に覚えたのが、車の運転、海釣り、野草集めなどで、山芋堀りにも一時期没頭し、贅沢な話だが、食べ飽きるまで掘り集めた。アオリイカとタチウオの腕に関しては、宇和海ではちょっと名の知れた存在になっていた。それはそうである。仕事もせずに3年間毎日のように釣っていれば、嫌でも名人級になる。安物ばかりだが釣竿も20本は買い揃えた。

 そうこうするうち、どういうわけか中高生相手の家庭教師の依頼がぽつぽつと集ってきた。教え子たちはすぐに順位を上げていった。その噂を聞きつけてまた生徒が増えていく。どうせなら同時に教えようと考えた結果、自然と私の勉強部屋は学習塾のようになっていった。やがて8畳の勉強部屋では手狭になり、本格的な学習塾に改築した。改築、といっても工務店に頼んだのではない。建材を買ってきて私自身が、柱をたて壁と天井を張り、15畳ほどの教室を造ったのである。なんにでも凝り性の私は日曜大工にも情熱を注いでいだ。大量の書籍を収納するための書斎も、畳をはがし床をコンクリートで塗るところから始めて、全て自分一人で作りあげたことがあり、その経験が大いに役に立った。高校生に数学を教える塾が他になかったことも手伝って、手作りの学習塾は数年で町一番の規模にまで育っていった。

 さて、猫の話に移ろう。夜の5時から11時まで、2つのクラスを教え、居間に辿り着くとその猫が私に飛び掛かってくる。そして私を親猫だと思い込んでいるかのように、私相手に噛みつき、じゃれつき、小一時間も遊び回るのである。私はビールを飲みながらジュールの親を演じることに熱中した。第一、ジュールは姿がいいだけでなく、頭のいい猫だった。猫は「お手」を覚えない、と人が言うので試しに教えてみたら、ものの15分で覚えた。猫は風呂が嫌いだ、と本は書いてあるが、最初こそ水を恐れて大騒ぎしたものの、2度目からは目を細めて風呂に浸かり、じっとしている。彼は言葉さえ理解した。ジュールが手持ちぶさたにしているので、ジュール、ご飯でも食べな、と声を掛けるとすっと台所の餌場に行ったものだ。それも一度は二度ではない。ある時は、寝転がっていた私のお尻の後ろにヤツが蹲っているのを知らず、家人がいないのを見計らって大きな放屁をしたところ、ニャゴ、と一声鳴いて私のお尻を蹴り飛ばし反対の方角に逃げていったことがある。その時の顔ときたら、本当にこれはたまらん、言った風で、私は思わず吹き出してしまった。ゴメンねジュール、わざとじゃないんだよ・・・そのジュールが突然家の前で車に曳かれ、死んだのである。

 顔見知りの男が飛び込んできて事情を告げ、私と妻が表に飛び出てみると、ジュールは首から細い血潮を噴水のように吹き上げながら、ガクッ、ガクッ、と首を落としていった。生き物が物体になっていく瞬間だった。その時から私の胸には穴が空いた。父親が死んだ時でも、そんな馬鹿げたことはしなかったが、庭に作った墓の前に立って、子どものように、生き返れ!と念じてみてもした。もちろん草一本揺れはしなかった。

愛猫の死から一ヶ月もしたころだろうか、塾での授業をしている時に急に簡単な暗算や移項が出来なくなった。目眩が続いて、突然発汗し、テレビを見ていると、画面酔いのために倒れそうになった。そして病院で種々検査をした結果、鬱病と診断されたのである。

 鬱病、心の病、精神障害・・・・しかし、私の場合、その診断結果に対して、人が想像するほどのショックは感じなかった。ひとつエピソードを語ろう。大学生の時、友人がノイローゼぎみなのを心配した私と彼のガールフレンドは、暗い顔をした彼を大きな精神病院に連れていったことがある。そこで、めったにないこんな機会に全員が心理テストを受けてみよう、ということになった。そうしてペーパーテストと問診を順に受けていったのだが、私以外の二人は、全く異常なしと診断されたのに対し、私は「不眠症」「アルコール依存症」「自己同一性拡散」という立派な病名を3つももらって、安定剤と睡眠導入剤を処方されてしまったのである。2人の友人は気の毒がっていろいろな言葉を掛けてくれたが、私自身の思惑はまた別のものだった。というのも、私は物心ついてから30歳になるまで詩人か作家になることに憧れ続け、詩人たるべきものは狂気や神経症の一つは二つは持つのが当然、と考えていたのである。医者が病名をつけた時、私は太宰治のいう「選ばれてある事の恍惚と不安」の入り交じった感情とともに、これでやっと詩人の資質が証明されたと思ったし、また、自己同一性拡散の病名を聞いた時は、「私とは幻想である」とする寺山修司の主張を身を持って実現しているという意味で、寺山を越えたとさえ思ったものだ。つまり精神障害に対する私の感覚は、普通の人間のそれと逆転していたのである。だから、鬱病と聞いた時は、むしろホッとした、といっていい。実際私は、自分の意志通りに肉体をコントロールできない、という症状を私は小学生の頃から自覚していた。とくに、高校入学以降、家庭で勉強するという行為が全く出来なくなっていた。本はいくらでも読めるのに、学科の学習だけができないのである。当初私は数年に一度の秀才、と鳴り物入りで高校に入学し、教師たちの強い期待を一身に浴びていた。担任は早々から京都大学を受けるよう私に言い聞かせた。しかし家庭学習が出来なくなった私は、一年生の時は授業中の集中力だけで好成績を維持していたものの、さすがに2年生の後半ぐらいから順位が落ちはじめた。

 これは鬱病治療を始めてから後の話になるが、高校の同窓会で担任の教員に、僕は今鬱病と戦っているんです、と打ち明けた時、お前は高校時代から鬱だった、よほどそう言おうと思ったがお前が気を悪くするといけないと思って黙っていたのだ、と答えられた。流石指導者というものはよく見ているものである、と改めて感心したことがある。それだけ様子がおかしかったのだろう。いや、そう簡単に記述するだけでは足りない。正直に語ろう。私は要するに、養鶏場の鶏のように、全員が大学受験に向けて同じ学習をする行動に、生理的嫌悪感を感じていたのだ。才能も人格的にも取り柄の無い奴に限って、受験勉強となると目の色を変えて必死になる姿を見て、ああ俺はあいつと同じ養鶏場の鶏にはなりたくない、と思い、日本の受験体制そのものに反抗したのである。大学入試のための愚劣な詰め込み学習に必死になる生徒と教員が、実に小さな存在に見えた。もちろんそんな感情の裏には、自己の才能に対する驕慢なまでの信頼があった。受験勉強など愚劣なものを俺はやりたくない。しかし、やる気になったら、あんな簡単なことはいつでもやれるのだ。今はやりたくないだけなんだ・・・・中島敦の「山月記」の中で虎に変身する男の性格はまさに私のそれと瓜二つである。私はそういう感受性を、早熟な詩人の魂だと感じていた。しかし、病理学的に見れば「鬱病」ということになるのだ。コインの裏と表である。

 さて、話を元に戻そう。猫の死を発端とした鬱治療は私にとっては人生の転機となる価値ある体験だった。一つには、その過程で「狂気恐怖」と、「対人恐怖によるパニック障害」いう新たな病いが隠れているのを確認したことだ。俺ってつくづく病気の固まりだな、とウンザリもしたが、病名の発見は自分自身の発見である。あとは治療すればいいのだからほの暗い苦痛を抱えて漠然と歩んできたそれまでより遥かに救われた心境になる。二つ目の喜ばしい体験は、私が受けたカウンセリングの担当者が素晴らしい人で、そのユング流の治療のおかげで、大袈裟に言えば世界観が変化し、神秘的存在の尻尾に触れたような気がしたことである。要は精神世界と物質世界の統一の予感を感じられたのだ。(その神秘的な空気はロベール・ブレッソンの映画に見事に描かれているが、多くの批評家が見過ごしている) ここでまた猫の話に戻ろう。読者の中には、愛猫の死が引き金となって鬱病になったのなら、新しい猫を飼えばいいではないか、と思う人がいるにちがいない。しかし、実際にはとてもそのような心境になれるものではない。つまり、新しい猫を飼って自分がその猫を愛することにより、死んだ猫への思い出が薄れていく、そのこと自体が死んだ猫に済まない、と考えてしまうのだ。死んだ猫への殉死的な思想が働くわけである。

 鬱治療を始めてすでに3年が経過した。私は念願の上京を果たし、経済的には恵まれないものの、生きがいのある仕事に就くことができた。鬱病に特有の抑鬱症状も日々に治まり、天気に喩えれば、氷雨の日々から、晴れ時々曇り、にまで回復した。いやむしろ、晴れ間が時々見えるようになって初めて、それまでの自分の心がいかに酸鼻な天候の中に吹きさらされていたのかを知った、というべきだろう。そんなある日、山崎幹夫の8ミリ映画「グータリプトラ」を見ていたら、作者がノラ猫と毎日戯れることで孤独を癒すシーンと出会った。映像全体に力があるので、そのさりげない行為が愛に溢れ、際立って美しいものに感じられた。部屋の中にペットがいる、ということは、人工物と人為の中に自然が乱入しているという意味で、例えば、畳の中から竹の子が生えて天井を突き破っているようなものである。ここに孤独な、そして極端に寂しがりの私の自我を変革する契機があるかもしれない。なにより、猫は優美ではないか。よし、猫を飼おう、私はその映画を見ながら決心した。

 私の地元八王子には、捨て猫の里親を探すボランティアグループがある。そこに電話をするとすぐに二匹の黒猫を自宅まで届けてくれた。生後二ヶ月で二匹ともなかなか可愛い顔をしている。始めはその内から一匹だけを撰ぼうと思ったのだが、自分も相手も分からないほどに仲良くくっついている2匹の姿を見ると、切り離してしまうのが可哀相になり、結局、兄妹揃って飼うことにした。名前は直ぐに決まった、雄は「ダダ」、雌が「シュール」である。もちろん戦前の前衛運動の名前にちなんでつけたのである。

 さて、黒猫の兄妹を飼いはじめて今日で十日目になる。幸いこの間、鬱病に特有の抑鬱感情は一度も現れていない。雌のシュールは好奇心旺盛な性格で人間にもすぐなつき、雄のダダは臆病者で逃げ回ってばかりいる。夜中には決まってかけっことプロレスごっこを始める。昼間は団子を重ねたようにくっついてソファーの上で眠っている。この二匹の猫が空洞になった私の胸をジワジワと周りから埋めていくのが実感される。私の鬱はもしかするとこれをきっかけに消えてしまうかもしれない、という希望さえ湧いてくる。本当に猫を飼ってよかった。実際、飼う気が起きるのに3年半の時間を要したのだった。しかし、それにしてもジュールよ。今ごろは故郷の家の庭の石の下に、空色の毛布に包れて白骨となっているに違いないお前。お前を忘れることは出来ないのだよ。今度生まれたら、また私の家で一緒に暮らそう。今度こそ家の外に出さないように気をつけるからね・・・・・私は人なつっこいシュールを膝に抱きながら、ジュールの墓を思い浮かべる。猫の墓のある庭、そこに寄り添って建っている我が家、その家には年老いた母が住んでいる。母が住む山間部の街は日々過疎化が進み、商店街のシャッターはあちこちが閉ざされ、若者たちは街を見捨て、活気はもう二度と蘇ってこないのに、母はその町から離れることが出来ないのだ。猫の墓と、母の住む家と、故郷と、寂しさに寂しさが取り巻き、三重の同心円を描くその光景を私は心に浮かべてみる。かつての私なら、裸で氷雨の中に立つような抑鬱感情に襲われ、胸を掻きむしってその場に蹲っていたにちがいない。しかしその風景を、今の私は何の感情も無く、突き放して見つめることが出来る。私はこれまでの人生をかけてその非情さを憎んで生きてきたが、今はその非情さを手に入れたことを嬉しく思う。私はおそらく回復するだろう。

「愛媛からの手紙」

那田尚史さんのメールアドレスは nada@mx2.ttcn.ne.jp

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