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2009年1月21日 (水)

ユナイテッド航空からの手紙

今朝のオバマ大統領パレードのニュースを見ながら、ちょうど1ヵ月前あの道を通ったゼ!ペンシルバニア通りというのか!と気がついた。

ワシントンDC・ダレス空港からサンパウロに向けて飛び立ったユナイテッド航空機が途中引き返したということを書いたら、ユナイテッド航空からお詫びの手紙とともに250ドルのバウチャーが届いた。もちろんブログに書いたからということではなく、乗客全員に事務的に送られたものでしょう。飛行機遅延で特別なダメージ受けたわけでもなく、突然のハプニングを楽しむ余裕もあった経験だったから、こうなると現金なものでこのバウチャーで次回もUA機を使って旅行しようかなどと思ってしまうのだ。

さて、

成田から40時間を経てやっとサンパウロに到着したのに、いきなり帰国したハナシでナンだけど。帰国してパソコンのメールボックス立ち上げたら見たことのないメールアドレス。宣伝メール→ゴミ箱行きにしようとして気がついた。

サンパウロのリベルダージでのこと、有名な鳥居をバックにブラジル女性をナンパして写真を撮ったら、彼女は日本語を勉強しているということで帰国後写真を送る約束をしていたのだ。その「写真を楽しみにしています」というメールが私の帰国以前に届いていたというワケ。

早速写真を縮小して送ってやったら、10分もしないうちに丁寧な日本語のお礼が返信されてきた。

ムカシだったら海外で写真を撮って「送ってやるから」とアナログの住所交換してもついつい面倒くさくなって約束破りをしたこともあるけれど、現代のデジタル時代ではこんなふうにメールで簡単に送れて、即お礼のメールが届いてしまうという、そんな時代になったんだなぁということを実感。

そういえば、航空券だってワザワザ旅行代理店まで行かなくても、ネットで申し込みネットでお金を振り込み、送られてきたE-チケットをプリントアウトしてそれで世界中どこでも問題なく旅程を消化できるという便利な時代になったのです。

でも、私のようなアナログ世代にとっては裏カーボンで綴じた数ページのブック型航空券をその都度一枚一枚剥がしていくほうが、いかにも「旅行をしている!」という感じで好きですねえ。

人口1500万人、ブラジルのみならず南米大陸最大の都市がサンパウロ。またサンパウロはブラジル在住日系人130万人の90%が住む街として知られています(『地球の歩き方』による)。そのサンパウロに日系人が拠点として築いた地区が地下鉄リベルダージ駅近くの“日本人街”でその象徴がこの鳥居ということになります。

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この“日本人街”周辺にはこんな建物があったり、

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路上ではこんな「南米神宮」のおみくじを売る神主さんがいたり。

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セブンイレブンやローソンこそないものの、味噌醤油納豆はもとよりあらゆる日本食品を揃えたスーパーマーケットがあって、どの店も繁盛の様子です。お客も東洋人顔にブラジル人顔と多種多彩。まさに“リトル・トーキョー”そのまま。

この栄える“日本人街”もいつごろからか“東洋人街”と呼ばれている。

当初の日本人コミュニティーに中国韓国系の商店が増えてきて、日本人のみならず広く東洋人が集う街ということで呼び名が変わっていったらしい。サンパウロ在住の叔父によれば、

「この辺りはムカシは墓場で何にもなかったんだ。そこを我々がコツコツとお金を貯めては買い増しして開拓していったんだ。ところがヤツらは本国から莫大な資金を持って乗り込んで買い占めていくんだから。我々は太刀打ちできないよ!」

この言葉には自分たちの街を乗っ取られた無念さのようなものを感じられます。

渡伯50数年、夢に描いた農場経営は叶わなかったけれど5人の子供は既に独立、プール、アスレチックジム、バーベキュースペース、24時間セキュリティつきのアパートでの悠々自適の引退生活。特に裕福ということでもなさそうで、これがブラジル中産階級の住居のようだ。このアパートから地下鉄とバスの無料パスを使ってほぼ毎日この“日本人街”へ通勤しているらしい。

アパートには息子だったり娘だったり、遠縁の姪だとか、説明されても理解できない関係の人間がひっきりなしに訪れ、夕飯を食い、そのまま泊まっていったりの千客万来。顔は日本人でも言葉の通じない従兄弟従姉妹やその友人達と飯を食うというのも初めての体験。

日本では今では死語になりつつある家長としてふるまい敬われる叔父の姿を見て、あぁ、この人にはブラジルの水が合っていたんだ。百姓の末っ子としてあのまま日本に留まっていたんでは現在のような充足感は味わえなかったと実感する。

私が小学生の頃バンザイ!バンザイ!の声に送られた叔父がブラジル目指し古里を旅立ったシーンを思い出す。私がこの年になってリュックサックかついで動き回っているのも、あの時の叔父の姿が原点になっているのだろう、とポルトガル語と日本語が微妙にブレンドされた言葉の中で気がついたワケです。

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