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§タイと日本

 タイ王国と日本の長い友好の歴史です。

▼日本は最高のパートナー 2006-12-27

 プリディヤトン副首相兼財務相は26日、ニュースクリップのインタビューに応じ、対日関係を重視する姿勢を鮮明にした。

 私個人は、97年の経済危機から現在まで、日本は最高のパートナーだったと思っている。危機の際にも我々を捨てず、助けてくれた。タイの自動車産業がアジアのデトロイトまでもう一歩のところまできたのも、日本のメーカーの投資のおかげだ。来年は日タイ修好120周年に当たるが、日本との友好関係は今後も大事にしていきたい。

プリディヤトン・テワクン副首相兼財務相
1947年生まれ。王族。
米ペンシルベニア大学ウォートン・スクールで経営学修士号(MBA)を取得。
縁戚のラムサム財閥がオーナーの商業銀行カシコンバンクに勤務。
アナン暫定内閣で副商務相。
1993~2001年タイ輸出入銀行総裁。2001~2006年タイ中央銀行総裁。

▼人間不信のゾウ愛した父の30年 「はな子」飼育員の記録 息子が本に 2006-09-27

 戦後初めて来日したゾウで、いまも井の頭自然文化園(武蔵野市)で飼育されているはな子(59歳)を親子2代で世話した飼育員の山川宏治さん(52)が、飼育の様子をつづった「父が愛したゾウのはな子」を出版した。2度も人を踏み殺し、鎖につながれたはな子が、父清蔵さんの献身的な飼育により人間との信頼関係を取り戻していく様子を描いている。宏治さんは「殺人ゾウと呼ばれたはな子と、はな子に生涯をささげた父の姿を記録に残したかった」と話している。

 はな子は、1947年にタイで生まれたアジアゾウで、49年、上野動物園にやってきた。当時は、戦時中の「猛獣処分」で大型動物が軒並み殺処分されたため、ゾウは全国でも名古屋市に2頭しかいなかった時代。はな子は、子ゾウを一目見ようと駆けつけた子供たちで移送トラックが前に進めないほど歓迎された。

 動物園のアイドルとなったはな子は、後から来たゾウと2頭で飼われていたが、54年に井の頭自然文化園へ1頭で移された。ひとりぼっちのストレスからか、はな子は飼育員の言うことをなかなか聞かず、56年には酒に酔ってゾウ舎に侵入した男性を、60年には担当の男性飼育員を踏み殺す事故を起こした。危険視されたはな子は、4本の足を鎖でつながれ、ゾウ舎に閉じこめられた。

 事故の6週間後に飼育担当となった清蔵さんは、周囲の反対を押し切って着任4日目で鎖を解いた。人間不信とストレスでやせ細ったはな子に暇を見つけては駆けより、絶えず語りかけた。便秘になると、腹に自分の頭を押しつけてマッサージし、歯が抜け落ちると、40~50キロ・グラムの餌を毎日何時間もかけて包丁で細かく切り刻んで与えた。

 はな子が初めて清蔵さんの手をなめるまで6年、体重が元に戻るまで8年かかった。無口な清蔵さんの唯一の口癖は「はな子は、おれがいないとダメなんだ」。90年に定年退職するまでの30年間、清蔵さんは、はな子に付きっきりだった。そんな姿を、宏治さんは「家族旅行や父に遊んでもらった記憶はない。はな子が最優先だった」と振り返る。

 「なんとなく飼育員になって」からも、清蔵さんのはな子に対する思い入れが理解できなかったという宏治さんが、はな子の担当になったのは清蔵さんががんで亡くなった95年の約2年後だった。

 「初めは怖くてしかたなかった」が、清蔵さんがつけていた飼育日誌を読み、はな子の人なつっこい性格などを知った。清蔵さんの退職後、再び飼育員にけがをさせ、柵外から世話する「間接飼育」に戻っていたはな子に、父と同じように語りかけ、触れあった。

 担当になって3年後に、客がゾウ舎や運動場に入り、好物のパンを与えるイベントが開けるまでになった。宏治さんは「はな子は世界で一番手がかかるが、感情的で人間に一番近いゾウ。父がのめり込んだ気持ちが良く分かった」と語る。

 宏治さんは2004年に多摩動物公園(日野市)に転勤。本は、はな子の飼育日誌を基に、清蔵さんの同僚らに取材し、1年かけて書き上げた。宏治さんは「はな子の世話と本の執筆を通して、初めて亡き父と語り合えた気がします」と話している。

 定価1400円(税別)。全国の書店で取り扱っている。問い合わせは現代書林((電)3205・8384)へ。 - 読売新聞 -

▼優しかった日本兵を私は忘れない

大東亜戦争クンユアム旧日本軍博物館 Mr. Charoen Chowprayoon

 私はクンユアムに進駐してきた最初の日本兵から、帰還する最後の一兵までを知っている。クンユアムの日本兵は村人と共に働き、お互い協力して生活していた。カンチャナブリの博物館で宣伝される日本軍とは違う。優しかった日本兵を私は忘れない。

2005年1月8日 メーホンソン県クンユアム
旧日本軍博物館 財団設立準備総会
ジャルーン・チャオプラユーン(元運輸大臣)

 The Greater East Asia War Japanese Army Museum of Khun Yuam(大東亜戦争クンユ アム旧日本軍博物館)

 ※インパール作戦後、日本兵が敗走した白骨街道。そこでは作戦中、道路建設に駆り出された現地人の多くもまた死んでいる。そのような究極の精神状態での交流を通して、今でも現地の人たちに語り継がれている日本兵が居たことを誇りに思う。

▼愛子様の象

愛子様の象

 2002年10月11日、日本のNGOオイスカ(OISCA)がタイ王国スリン県において20年に渡る植林の国際協力を実施してきた活動に対するお礼と、皇太子ご夫妻の長女敬宮愛子様のご誕生のお祝いに、タイ王国から日本国民に友好のしるしとしてアジアゾウのアティ Artid(太陽、オス5歳)とウタイ Authai(日の出、メス4歳)が寄贈されました。

 2頭のゾウは、スリン県の希望を受け東京都の上野動物園において飼育されることになり、この度の来園となりました。タイからのアジアゾウ来園は、1964年に当時の皇太子殿下(現天皇陛下)がタイ王国を訪問したときに、タイ王国日本留学生会より贈られた「メナム Mae Nam(オス)」(1965年来園)以来37年振りとなります。 - 東京都公式サイトより引用 -

▼天皇陛下の魚 - プラー・ニン(仁魚)

 1964年(昭和39年)、今上陛下が皇太子時代にタイを訪問された時、プーミポン国王から山岳民族であるモン族のタンパク質不足の問題をお聞きになり、繁殖力の強いティラピア50尾を贈られた。その後、タイ全土で養殖されて、1973年にはバングラデシュへの食料支援として50万尾を贈られたという。今では山岳民族だけでなくタイ国民の貴重な蛋白源となっている。この話に感動した中国系タイ人が、御名前「明仁」から一字を頂き、中国語で「仁魚」、タイ語でプラー・ニンと命名したという話が残っている。

 ※タイの市場ではナマズが見当たらない日があっても、プラー・ニンが売られていない日はありません。体長30~40cmのものでも20~30Bで買えます。今では、それほど庶民的な魚です。

▼プミポン国王ご夫妻、靖国神社に公式参拝

 1963年(昭和38年)6月4日、プミポン国王ご夫妻が、靖国神社に公式参拝(中村元司令官が名代)されました。

▼12月8日 - 日本というお母さん -

 「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。
 12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して、重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」

ククリット・プラモード タイ王国元首相(1973年就任)

 ※タイの人々は、目上の人を非常に大切にします。特に父母に対しては、敬意と感謝の念を忘れる事は有りません。国王は国民の父であり、王妃は国民の母と称される程です。そのような国の首相が、就任以前の記述とは言え、「日本という母がいたことを忘れるな」と東南アジア諸国の人々へ発信してくれた事に深い感銘を覚えます。

▼国に帰ったら、殺されるかな

 「日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。アメリカはそっくり返って威張っている。団員は、『こんな気の毒な日本を見ていられるか。』と口々に言いました。だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです。」

タイ王国 元貸与金返還交渉使節団 ソムアン・サラサス最高顧問

 ※帰国後、ソムアン顧問はこのように報告し、最終的に1959年、20億バーツ(当時の換算で10億ドル以上)の巨額な日本側の借金を、実に40分の1の2,500万ドルにまで値引きに応じてくれたのである。また、後日こう振り返っている。

 「国に帰ったら、殺されるかな。」とフッと思った。けれど、「まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから。」と自分に言い聞かせました。団員も同じ気持ちだったのです。

 ※更に、ソムアン顧問とその父で戦前に経済相を務めたプラ・サラサス氏は、「あまりにも日本の子供達がかわいそうだ。」と言って、私費で象の「花子さん」と米10トンを贈っている。プラ・サラサス氏はまた、マッカーサーと直接会って、「将来、アメリカはソ連とかならず対決する日が来る。その時、力になるのは日本である。日本をいじめる事は、アメリカの為にも、アジアの為にもならない。」と進言している。

▼1944年7月 第二次大戦対日の砦 タイ、幻に終わった遷都

 タイの首都は2世紀余の長きにわたりバンコクであり続けている。そのタイで第二次大戦中の一時期、遷都準備が進められたことがある。劣勢となっていた旧日本軍に見切りを付け、新しい山間部の首都を拠点に、同軍との戦闘態勢を整えようとしたのだ。“幻の首都”、北部ペチャブン市にその跡を訪ねた。

 バンコクからバスで北へ約5時間。同市にはそこを首都と定めた記念柱が残っていた。ペチャブン首都設置法の緊急勅令を唐突に発表した時のピブン首相が、1944年4月に建てたものだ。
 欧米列強の植民地支配を免れたタイは、大戦初期の旧日本軍の優勢をみて日本と同盟を結び、米英両国に宣戦布告した。
このため、バンコクは連合軍による猛空爆にさらされる。首都にわずかに存在していた旧日本軍の兵力はしょせん、空爆には無力で、日本の敗色もそのうち濃くなってきた。
 そうした中で立案された遷都事業の表向きの理由は、空爆から政府機関を守ることにあった。

 だが、同市のウィサン現市長(47)は「タイの軍を山に囲まれたペチャブンに避難させ、近い将来、連合軍とともに対日戦争を戦う準備をしようとした」と説明する。
 ピブン首相は43年11月に日本が開いた大東亜会議への再三の出席要請を断って代理を派遣、日本離れを顕在化させ、親米英勢力による自由タイ運動も盛んになっていた。日本敗戦を見越した動きが進んでいたといえる。
 首都建設は、旧日本軍に悟られないようひそかに行われたものの、日本側はペチャブンでの不穏な動きを察知していた。「日本軍はペチャブンで諜報(ちょうほう)活動をし、軍機が飛来したこともあったそうだ」(同市長)という。

 首都移転はしかし、結局、実らなかった。首都建設は、旧日本軍による泰緬(タイ・ビルマ)鉄道建設のように、短期間で行われ、過酷な労働やマラリアで作業員数千人が死亡したといわれる。
 独裁的なピブン政権への反発も強まり、44年7月、国会は首都設置法を48対36で否決、そして、ピブン政権も倒れた。終戦後、対米英宣戦布告の無効が宣言され、ペチャブンへの遷都は二度と語られることはなかった。

 だが、「建設工事が行われた1年半、住民にとってペチャブンは紛れもなく首都だった」と、ウィサン市長は振り返る。
 実際、首相府、官邸や各省庁の仮庁舎が建設され、このうち財務省仮庁舎は山中に建てられた。近くの洞穴には金を隠す準備まで行われていた。
 洞穴を訪れてみると、内部は仏像が置かれて僧侶の修行の場になっていた。近くに住む尼僧のサンワンさん(66)は「ときどき観光客がやってくる。日本人も見かけたことがある」と話した。

 70年代になって、タイではタイ共産党が武装闘争を本格化させ、ペチャブン近郊は同党の根城になった。ペチャブンは、タイ軍兵士が駐屯し、ミニ経済ブームに沸いた。バンコクへの幹線道路が整備され、発電所や電話線も開設されている。
 今、地元が期待しているのは、ベトナムからミャンマーまでを結び、物流の活性化によって経済発展を目指す東西経済回廊の整備である。ペチャブンは回廊の沿線であるタイ東北部と北部の経済圏の中継地点に当たり、“回廊効果”による発展を目指しているという。- 産経新聞 -

▼東条首相、タイを訪問

 1943年(昭和18年)7月、東条首相はバンコックを訪れ、イギリスやフランスにもぎ取られた旧領地をタイに戻した。タイ国民は躍り上がって喜んだという。

▼タイ、米英両国に宣戦布告

 米英はタイが日本と同盟したというので、タイの地方都市の空襲を始めた。ピブン政権は、1942年(昭和17年)1月8日、米英両国に宣戦布告する。

▼米英の圧迫打破 - 1941年12月16日 ピブン泰首相公式放送

 われわれはタイ国家興隆のために生きねばならぬ。働かねばならぬ。しかも果敢に行動しなければならぬ。この重大時機を乗切るためには全タイ国民は政府と足並を揃えて断乎とした行動をとらねばならぬ。
 過去をふりかえってみよう。最近には仏印と武器を執って戦わねばならなかったが、日本の強力な援助によって失地を回復し得た。遠い昔から日・タイ間にはただの一度として不愉快な思い出を残したというべきなんらの記憶もない。タイの国土は次第に小さくなって来ている。これは一体どこの国の仕事であったか。今さらいうまでもない。彼ら列国の間で条約まで結んだメナム河を国境としてわがタイ国を分割しようとしたのではないか。
 タイは今まで堂々独立国家として自由に存在して来た。これまでになぜわれわれは欧米諸国に与えたような親善を日本に対して与えなかったのであろうか。これはよく考えてみると実に巧みな米英第五列の宣伝のためである。われわれは彼らに欺かれてはならぬ。
 いま日本は全東亜民族を英米から解放するために戦っている。しかも日本はかつてのわがタイ国の土地にあって戦っているのだ。タイは今この機会を逸することなく立上らねばならぬ。そして米英の奴隷的圧迫を打破するために戦わねばならぬ。 - 毎日新聞 -

 ※マレーシア侵攻に先駆けて、日本政府はピブン首相にタイ国内通過許可を要請したが、あいにく?首相は居所不明。態度のはっきりしないタイ政府を無視して進駐(1941年12月8日)した日本軍と、チュンポーン県で局地的に戦闘状態が発生した(真珠湾攻撃の数時間前)。この記事はその後の国民向け声明文。

▼タイの外交政策 - 1941年12月7日

 泰国の外交政策は各国平等、平和親善と厳正中立を守って来たのであるが、実際問題としては必ずしも然らず。実力を有し厚意を示す国家群に対しては相当の親善ぷりを発揮したに拘らず、然らざる国家に対しては、特に冷眼視して来たのである。かかる国民的心理は小国の共通性であるが、但し親善といい反日と称するも、そこに一定の限度があることを見逃してはならない。
 これが大国であるならば、場合によっては宣戦を布告し、あるいはまた同盟を結ぶなど百パーセントの意思表示を行うことも可能であるが、小国としては僅かに親善の度合に伸縮性を持たせ僅かにこれを表明し得るに過ぎない。その程度は高潮に達して七割、最悪の場合といえども三割を下るを得ない程度のもので、つまり三割から七割の間を伸縮往来しているに過ぎない。 - 毎日新聞 -

 ※タイの日和見外交を容認している、当時の新聞記事。

▼泰の性格 - 1941年4月3日 田村大佐放送

 前駐泰大使館附武官陸軍大佐田村浩氏は四日午後八時より「泰国最近の情勢」についてAKより放送、日本と攻守同盟を締結した前後の事情、最近の同国の政情、泰国人の特性、ビプン首相の人なり、泰国軍などを詳述したのち日本人が泰人に対する態度について次の如く述べた。
 泰国人は面子を非常に重んじる。ゆえに彼らに接するにはその体面を傷つけぬように注意せねばならぬ。小さいことではあるがたとい低い身分の泰国人に対しても衆人の面前で口汚く罵ることは避くべきである。
 また泰国人は深い仏教徒であるから仏様に対して不敬になるようなことをしてはならない。仏像や僧侶を大切に取扱うことが必要である。僧侶は王様や貴族に対しても絶対に頭をさげることをしないし礼をすることもない。これが小乗仏教の習わしであってそれくらい僧侶は権威を有している。
 また泰人に体罰を加えることは屈辱を加えることになる。日本人は一寸したことですぐ他人の頭や頬っぺたをはることがあるが、これは泰人に対しては絶対にいけないことである。殊に泰人は頭は最も神聖なるものとして宗教的信念をもっている。可愛いからといって小さな子供の頭を撫でることも避けた方がよろしい。
 また泰人がてきぱき返事をしないからといってむきになってはいけない。明瞭に「ノー」ということを彼らはいわない癖がある。 - 毎日新聞 -

 ※タイ国進駐に際して日本人がタイ人と接する時の注意を促した言葉。驚くほどタイ人気質を熟知しており、相手国の文化と国民性を尊重し、慎重な態度で臨むように述べている。

▼日本女性がタイ貴族女学校の校長に

 近代女子教育のために設立されたラーチニー(皇后)女学校では、国王の意向で、イギリス人教師を雇う従来の習慣が変えられ、日本人女性、安井てつ(1870~1945)が事実上の校長として招かれた。1904年から、3年間、安井は当時の貴族名門の子女約200人ほどを教えた。それから再度のイギリス留学の後、帰国後は東京女子大学学長、東洋永和(現・東洋英和)の校長を務め、日本とタイ両国の女子教育に大きな足跡を残した。

▼ 覚王山日泰寺 - 日本で唯一お釈迦様の遺骨を安置する寺 -

 1898年、英国人考古学者が、ネパールに程近いインド北部の古墳での発掘作業中に、人骨が納められた西暦紀元前3世紀頃の古代文字が刻み込まれた壷を発見しました。 その壷を採取、文字を解読したところ、中に納められた人骨は仏舎利であることが判明、つまりは釈尊なる人物はこの地上に実在しなかったとする見方を覆し、その実在が立証されたわけであり、この発見はアジアにおける一大発見となりました。

 当時インドを治めていた英国政府は、こうした真の仏舎利は仏教徒にとって最も価値あるものと考えました。タイ王国(当時のシャム)が唯一の独立国家としての仏教国であったため、タイ国王が当時世界で唯一仏教を守る人物であると理解したインド政府は、この仏舎利をチュラーロンコーン国王陛下に寄贈、国王陛下はバンコクのワットサケート寺のプーカオ・トーン(黄金の丘)の仏塔に安置されました。

 その後日本を始め仏教を信仰する各国の僧侶、外交団等からこの仏舎利を分与して欲しい旨依頼があり、国王陛下は仏舎利をこれらの国々に分与、日本に関しては宗派を特定しない日本のすべての仏教徒に対する贈り物としてお分けになられたのです。

 日本仏教各宗管長は御真骨を自国に持ち帰るためにバンコクに使節団を派遣、1900年6月15日にチュラーロンコーン国王陛下より御真骨を拝受、御真骨奉安のための寺院を超宗派で建立することをお約束申し上げたところ、御本尊にと釈尊金銅仏及び建立費の一部を下賜されました。この釈尊金銅仏は大変美しくまた伝統あるもので、当時のタイ国にとって重要な芸術品のひとつでした。

 使節団がタイ国から帰国後、仏教各宗派の代表と協議した結果、名古屋市民の要望が強かったことから名古屋に新寺院及び奉安塔を建立することになりました。そして、タイと日本の友好を象徴する日泰寺が1904年11月15日に名古屋(現在の愛知県名古屋市千種区法王町1-1)に誕生しました。

 釈尊御真骨を安置する奉安塔は、東京大学伊東忠太教授の設計により1918年に完成しました。この奉安塔は伊東教授の代表作となり、後々日本国内で壮麗な仏教建築と賛辞を受けることになります。

 タイ国から拝受した釈尊金銅仏を安置する新しい本堂は1984年に完成しました。プミポン・アドゥンヤデート国王陛下にこの新本堂の完成を御報告申し上げたところ、金銅釈迦如来像と直筆の勅額一面を下賜されました。勅額にはタイ文字で「釈迦牟尼仏」と記され、両脇にはそれぞれプミポン国王陛下とチュラーロンコーン大王の御紋章が刻まれており、現在は本堂外陣正面に掲げられています。

 その名が「日本とタイの寺院」という意味を持つ日泰寺は、二国間の良好な関係を表す寺院であり、いずれの宗派にも属していない単立寺院であって、その運営に当たっては現在19宗派の管長が輪番制により3年交代で住職を務めるという、日本でも特異な仏教寺院です。

 日泰寺は、チュラーロンコーン大王が日本人仏教徒のためにと釈尊の御真骨と釈尊金銅仏を下賜されたことから建立された寺院で、タイ国にとても近い存在です。特にタイ国王室との関係は特別なものがあり、王族の方々が幾度となく訪れていらっしゃいます。1931年、訪日中でいらっしゃったプラチャティポック国王陛下(ラマ7世)とラムパイパンニー王妃陛下が日泰寺を御参詣され、1963年にはプミポン・アドゥンヤデート国王陛下、シリキット王妃陛下も御参詣されました。また、日・タイ修好百周年に当たる1987年、日泰寺は本堂前にチュラーロンコーン大王像を建立、同年9月27日の祝賀法要にはワチラロンコーン皇太子殿下に御臨席を賜り、銅像の除幕式を執り行いました。

 毎年10月23日のチュラーロンコーン大王記念日には、タイ政府関係者及び在日タイ人が、大王の慈悲深い御心を今一度思い起こすために献花に伺っております。

 日泰寺は、2000年6月15日にチュラーロンコーン大王からの釈尊御真骨及び釈尊金銅仏拝受百周年を祝い、また2004年11月15日には建立百年記念法要を執り行いました。

在東京タイ王国大使館公式サイトより引用しました。
在東京タイ王国大使館公式サイト http://www.thaiembassy.jp/
覚王山日泰寺の歴史 http://www.thaiembassy.jp/TJrelation-j/j-nittaiji.htm
覚王山商店街振興組合公式サイト http://www.kakuozan.com/
覚王山日泰寺フォトギャラリー(老川良一) http://www.a-namo.com/ku_info/chikisaku/pages/oikawa.htm

▼政尾虎吉博士がタイの法典編纂に従事

 タイが欧米各国から招いた20数名の法律顧問の首席だった政尾虎吉博士は、1897年(明治30)から大正2年までの16年間、タイにとどまり、新法制と法典編纂の事業に取り組んだ。博士が大正10年に亡くなられた時は、タイ政府は国葬の礼を持って遇した。

▼靖國神社参拝、外国要人第一号はタイの外務大臣

 1887年(明治20年)9月22日、シャム(現在のタイ)国王の弟で外務大臣のデヴァウォングセ閣下が、外国要人として初めて靖国神社に公式参拝されました。

▼日タイ交流の始まり

 1882年(明治15年)、東伏見宮殿下がバンコクを訪問されて、国交関係樹立について会談された。

▼長崎から江戸まで、象が歩いた

 『享保のロンリー・エレファント』薄井ゆうじ著 岩波書店

 安南(タイ国)からの唐船が長崎に到着したのは、享保13年(1728年)6月13日だった。その唐船の船倉には、安南から載せられた雄雌2頭の象が収まっていた。

 長崎の海から象を陸揚げするのが大変だった。船と波止のあいだに、長崎中の人夫が集められ、突堤を築いた。この象は、時の将軍徳川吉宗が所望したものだった。

 それにこたえて長崎に到着した象の運命を、長い道中でのエピソードを、短編小説のように連ねたのが本書。

 南蛮からの情報は、幕府には細々と伝えられていたが、庶民にはあずかり知らぬこと。巨獣を見たことのない沿道の庶民たちの反応が面白い。

 長崎に到着した象のうち牝象が原因不明のまま死んだ(たぶん日本の寒さのためか)。残る1匹は長崎で冬を越した。南蛮の動物は寒さに弱いだろう、という配慮からだった。

 象の長崎出立は翌年3月となった。象の通り道に当たる諸藩には細かな布令が出された。内容は詳細をきわめた。

 牛馬を遠ざけよ。道を普請し小石を取り除け。寺の鐘は鳴らすな。用意する象の食べ物は莫大だった。大量の新鮮な水、藁100斤、笹の葉150斤、草100斤、饅頭50個。誰もがその量の多さに驚いた。でも象は将軍様のもの、あだやおろそかには出来ぬ。強い好奇心も手伝って、恐れ多い象の通り道には、見え隠れして大勢の人々の目があった。

 象は東海道ではなく「姫街道」を通った。いわゆる中山道である。

 巨大動物は江戸に入ると浜離宮に納められた。武蔵野一円の農夫に、米作ではなく藁や笹の葉の持ち込みが命ぜられた。藁と笹の葉を積んだ大八車が列をなした。

 徳川吉宗は嫡男(次の将軍家重)とともに浜離宮の象を訪れた。発達障害気味の家重を、吉宗は心から心配していた。「父上」の一言も言えなかった。

 吉宗、家重親子は浜離宮に象を見に行った。そして象と対面した。薄ノロだと陰口を囁かれていた家重は、象の背中に乗った。象の背中の上で家重ははっきりと「ちちうえ」と叫んだ。吉宗は心から喜び、将軍家もこれで安泰だと、肩の荷を降ろした。

 象はその後、あまりにも大食いのため持て余される。それでも、歌舞伎の演目(象引)に取り上げられたり、江戸になくてはならない人気者になり、12年もの長期に渡って、江戸住まいをする。

 時代はやがて吉宗の享保から、家重の延享へと移り、江戸の安泰は続いていく。

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