「春が訪れるたび、若いころに食べた三宝柑(さんぽうかん)を思い出します。今のデコポンのような形で、味のさわやかなミカンでした」(千葉県香取市、主婦、大友美恵さん)「福岡市郊外の庭で、父が丹精込めて育てていた『ほうらい柑』。洋梨形の淡黄色のミカンで、中身も薄い黄色。70年前の思い出です。夢でもいい、もう一度食べたい」(兵庫県西宮市、無職、喜多フジ子さん)。いずれも半世紀も前の思い出である。「三宝柑」は広辞苑にも載っているが「ほうらい柑」の名は見当たらない。だが、便りを読む限り、ともに形は洋梨タイプの晩柑類。もしかしたら、呼び名が違うだけの同じものではないのか--。【津武欣也】
「三宝柑はこれから。数は少ないが2月下旬には入ってくる」と高島屋柏店(千葉県柏市)のフルーツショップ。和歌山県湯浅町が昔からの産地だという。甘夏、伊予柑、デコポン、はるみ--と新品種が次々と登場する“晩柑戦国時代”のなかで、しぶとく生き残っていたのだ。
新大阪駅から特急で1時間半。湯浅町栖原地区を訪ねると、温州ミカンの収穫を終えた段々畑のところどころに、黄色いミカンが見えた。それが「三宝柑」だった。果梗(かこう)部(へたの部分)の盛り上がった果実の姿は、まさに洋梨形。テニスボールを一回り大きくした大きさで、デコボコの肌がユズに似ていた。
「収穫は2月中旬から4月初旬まで」とマルス栖原三宝柑出荷組合(63人)の組合長、矢櫃祐一郎さん(56)。マルスは「栖」の字を丸で囲んだ同組合の呼称だ。
栖原地区の三宝柑栽培は明治10年代から。夏ミカンが出回る前の果物として人気を呼び、大正、昭和を通じて栽培面積を増やし続けた。最盛期の昭和40年代は「見渡す限りが三宝柑。白い花の咲く初夏には、その香りが沖の船まで届いたといいます」と矢櫃さん。だが、新たに登場した甘夏や伊予柑、デコポンにその座を奪われ、最盛期には2000トンを超えた三宝柑も現在は150トン。栽培面積も約5ヘクタールに減った。
「果皮が厚く、大きさの割には中身が小さい。しかも実に種子があり、袋ごと食べられない。それが敬遠された理由でしょうか。香りが高く、さっぱりとした口当たりは、今の柑橘(かんきつ)にはない特徴なのですが」。矢櫃さんに勧められ、江戸の昔から伝わる三宝柑を初めて味わった。厚い皮はむきやすく、気の鎮まる清らかな香り。口に含むと苦みを抜いた夏ミカンの味がした。その適度な酸っぱさが、甘いミカンに慣れた舌に新鮮だった。
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矢櫃さんに「ほうらい柑という晩柑がありますか」と尋ねた。返ってきたのは「いや、初めて耳にする名前です」。もしかして--の願いは外れた。和歌山県果樹試験場に当たると「日本柑橘図譜」(昭和23年訂正第3版、養賢堂)に三宝柑の異名として蓬莱柑(ほうらいかん)が載っている。だが、現在は宇樹橘(うじゅきつ)を蓬莱柑とする専門家が多い。宇樹橘も果梗部が膨れている。
三宝柑には「蓬莱柑」のほか、「つぼ柑」「だるま柑」「ほぞ高」など、地方ごとに異なる呼び名があることが分かったものの、「宇樹橘」の別名である「蓬莱柑」が今も栽培されているかどうかは不明だった。さらに取材するうち、夏ミカンの古里・山口県萩市内でわずかばかり栽培されていると分かった。
JAあぶらんど萩・萩阿西営農指導センター(萩市)の柑橘担当、堀正人さん(48)に聞くと「ここらでは宇樹橘を『ゆずきち』と呼んでいる。栽培面積は1ヘクタールほど。もっぱら酢を取る香酸果樹として未熟なうちに収穫(10月ごろ)しており、生果では売られていない」と話す。年を越し、3月ごろまで実らせておくと「甘みものって美味」というだけに、なんとも惜しい気がする。
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三宝柑の特徴ある形と香りは、菓子や料理にも生かされている。和菓子の老舗・廣瀬屋(福島市)は中身をくり抜いた湯浅産の三宝柑に、搾った果汁とゼラチンを入れた「三宝柑ゼリー」を開発、年間1万個を販売している。東京都内の有名菓子店で修業した工場長のアイデアで「販売は12月から翌年5月中旬まで。贈答用に好まれており、我が社の看板商品となっている」。
産地・湯浅町の旅館「栖原温泉」では三宝柑を容器にした茶わん蒸しが売り物。おかみの千川豊美子さん(41)は「先代のおかみが始めたもの。蒸しても黄色の果皮の色が変わらず、香りも豊か。一番の人気です」と話す。果皮の厚い三宝柑ならではの活用法で、関西風ちらしずしを盛る器にも利用している。
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■購入など問い合わせ
葉つき三宝柑L級(53個入り)、LL級(45個入り)ともに1箱3000円。送料別。3月20日ごろまで販売する。
三宝柑ゼリー1個550円+消費税。送料別。1個から販売するが5、6、8、10個の箱入りもある。支払いは代金引き換え。
毎日新聞 2010年2月22日 東京朝刊