バスケットボール少年の金川淳一君(兵庫県伊丹市、当時15歳)。筋肉にできるがん「横紋筋肉腫」との闘いには、あるバスケ選手も応援団として加わってくれた。入院して4カ月が過ぎた05年2月、難病の子どもたちの夢をかなえるボランティア団体「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」を通じ、病状やバスケへの情熱を聞いたその選手は、愛用のリストバンドを添えて「元気になって試合を見に来てほしい」とビデオメッセージをくれた。
同年7月には、千葉県内での選手出演イベントに招かれた。ちょうど、骨盤や肺に転移し、抗がん剤治療を再開した時期。大阪府内の病院から駆け付け、車いすに乗って技に見入った。
中学2年の時、地区で最優秀選手賞に選ばれた淳一君。小柄な身長でも互角に戦えるよう、暇があれば常にボールに触れ、手と一体化するような感覚を磨き続けた努力のたまものだった。病床でも、傍らにはボールがあった。
だが8月になると、積極的な効果を期待する治療は難しくなった。眠ったままボールを抱え、仲間に指示を出す仕草を見せたこともある。「バスケットをもう一度」。9月16日朝、淳一君は1年近く病と闘い続けたコートを、静かに去った。
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今年1月、淳一君の家には、成人式を終えた親友が顔を出した。母富子さん(52)は、懐かしい話をうれしく聞きながら、人生の節目に息子がいないさみしさも感じた。「今も、外出の時には下を向いたまま歩いてしまうことがある」と富子さんは打ち明ける。
それでも、2年ほど前から、茨木市内で小児がん治療の専門施設作りを進めるNPO法人「チャイルド・ケモ・ハウス」の活動にかかわっている。イベントや会合などに行き、自分たちの経験を話す機会も増えた。亡くなってしばらくは、淳一君のことを人前で話すことなどできなかった。「何を話したら、分かってもらえるだろう……」。思い返してみた時、面会を制限された日々や、ICU症候群で一時的に情緒不安定になった息子の姿が浮かんだ。「私はもっとそばにいてやりたかったし、痛みは少しでも背負ってやりたかった」
家のような空間での医療を目指すチャイケモの取り組みは、淳一君や富子さんが感じた苦い思いをなくす大きな一歩だと感じる。「がんを患って生活する子どものことを知ってほしい。そしてチャイケモの思いを多くの人に知ってほしい」【青木絵美】
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毎日新聞 2010年3月16日 地方版