生野の街と在日朝鮮人

生野区聖和社会館館長(当時) 金徳煥

1996年6月19日生野区中川小学校教職員研修会における金徳煥(キム・トックァン)さんの講演テープをおこしたもの。文章責任は太田利信にあります。

<はじめに>

「猪飼野」という地名は今では公式にはなくなっているが、日本書紀に登場する「猪甘津(ゐかひのつ)にさかのぼる古い地名。この猪飼野新橋に見られるように、復活させようという動きもある。橋には日本書紀の仁徳天皇十四年にある「為橋於猪甘津即号其処曰小橋也(ゐかひのつにはしわたす。すなはちそのところをなづけてをはしといふ)」の15字が上の写真の「為」のように一字一字欄干につけられている。

 聖和社会館で噺家のみなさんを招いて寄席を開いたりしているのですが、その中の桂米之助という噺家が、私たち在日朝鮮人にふれた落語をしておられます。

 実は、この話の背景は、済州島(チェジュド)から来た人たちの生活の話であるわけです。ようするに「済州島にいる妹さんを招び寄せたいのだけれども、その渡航証明書を書いてくれ」。ところが、渡航証明書を書いてもらうためにはいろんな手続きがあって、籍の問題とかいろいろしていますと最終的に裁判所に罰金を払わんといかん。それなら「もう、いらんわ」ということになってしまうのです。

 この米之助という人が、こういう話をする中で、当時の朝鮮人のおかれていた状況をあらわしながら、一方そういう厳しい中で生きている人たちの生活というものを、落語という場に反映したというのは、貴重な話だなあと思っているわけです。こういった事柄が、日本の社会の中で、大阪の事柄としての話の中に出てくるには、それなりの背景というものがあるわけです。とりわけ、私たちが今住んでいる街、生野区は在日朝鮮人が日本の中で最も多住する地域であるわけですし、その背景みたいなものを、これから話していきたいと思います。

<戦前の生野の街>

 今、生野の人口が約15万人そこそこです。そのうちの3万8000人が韓国・朝鮮人、他の外国人も含まれます。4人に1人という割合です。中川小学校・御幸森(みゆきもり)小学校校区いわゆる旧猪飼野(いかいの)地域では60%ぐらい。聖和社会館の周辺では、80%が韓国・朝鮮人という多住地域になっているわけです。

 しかし、戦前のことを言いますと、確かに多住ではありますが、決して、生野だけが突出した多住であったわけではないのです。大阪市内の人口の分布を見ますと、1942年ぐらいの警察統計局の資料では、東成区(当時生野区はない)9万人、旭区2.5万人、西成区3.4万人、東淀川区3.2万人、西淀川区3.1万人というふうに結構多住地域というのは多かった。1942年といえば戦争も激しくなり、いよいよ強制連行といったものが現実化してくる。ですから、市内にあります軍需工場中心に、朝鮮の人たちが徴用なりいろんなかたちで働かされた時代であります。

 戦争が終わりますと、こういった居住状況というのは一変してしまうのです。何故かと言いますと、解放されましたから祖国に帰っていくのです。生野区だけが、その後も朝鮮人の多住する地域として残っていくわけです。じゃあなんで生野区だけが、朝鮮人の多住地域として残っていったのか、というところがこれから言う生野区の戦前のようす、そしてそれは、ひいては戦後の生野の在日朝鮮人の歴史に深くつながっていくということになるわけです。

 いったいいつぐらいから朝鮮人がこの地域に住み始めたのかということです。今のKCC会館の裏に在日大韓キリスト教大阪教会というのがあります。これは、昔は鶴橋教会と言われていたのです。正確な資料によりますと、その鶴橋教会の創設が1921年です。当時そこに教会があったということは、集落があったということになるわけです。じゃあ何故1921年、そんな時代にこの地域に朝鮮人が住み始めたのか。当時の人口の比較を見てみますと大阪では朝鮮人が7000人ぐらいしか住んでないわけです。そんな時代にここに集落があった。

1910年に朝鮮が日本の植民地支配を受けるといういわゆる「日韓併合」があるわけですけれども、当時の社会的な状況をこの地域を中心に考えてみましたときに、ご存知のように1905年に日露戦争が終わります。みなさんは、私もそうでしたが、歴史の中で、日本がロシアに勝ったように学んで来たのですが、実は、確かに形式的にはそうですが、実態としては大変な日本の状況で、それ以上戦争を続けたら日本はもうどうしようもないぐらいに経済が疲弊して、大変な状況だったのです。それが反映して、反戦運動、社会主義運動などがさかんになるわけです。それに対抗する形で、当時の内務省を中心に、あるいは、国粋主義的な立場をもった人たちが、その立場からの社会改革運動を興していく。その中心的な役割を、この生野という地域で始めていくわけです。

 わたしたちが子どもの頃の生野というのはその面影が残っていて、大池橋から南には田圃がありました。それから平野川ということで代表されて言われていますけれど、生野は平野川だけではなくて、猫間(ねこま)川などいくつかの小さな川がたくさん流れていた。学校のすぐ東側の前の道路ですね、あれも川だったのです。わたしたちが小さいときには、ザリガニ取りをしたのです。それ以外に、小さな川がこの付近にもたくさんありました。土地の歴史をひもといていきますと、もと小川というようなところがたくさんあります。そういう湿地帯だったのです。湿地帯ということはどういうことかと言いますと、雨が降りますとぬかるみますし、農業地としても非常に貧しい、生産が少ないということで、じゃあ、生野はどうして生計をたてていたかと言いますと、養鶏場がありました。生野の地玉子というのは、大阪では有名であったようです。ここでもその名残があります。この第2グランドの裏は養鶏場でした。大きな養鶏場だったのです。また養豚業も行われていました。

 このあたりはそういう地域だったので、もともとの大阪市というのは4つの区しかなかったのですが、農村から都市に多くの人々が流れてくる。都市が大きくなっていく中でちょうど境目でありました東成郡の農村地帯を市街化していく土地改良が求められていくわけです。そこに、先ほど言いました国粋主義的な立場の、今日で言う“街づくり”を目指した人たちがいまして、府・市と協力する中で、ここでの街づくりを始めていくわけです。

<河川の埋め立てと地域産業の育成>

どこまでも真っ直ぐな今日の平野川

2つのことをやっていきます。1つは、土地をつくっていく。小川や湿地帯を埋め立てて土地をつくっていく。もう1つは、ここで地域産業を育成していく。この2つを進めていくわけです。土地をつくっていくにあたってどういうことをしたかと言いますと、これは大阪でも十数カ所つくったのですけれども、耕地整理組合をつくります。その中でも生野区は3組合つくりますが、一番大きなものが鶴橋耕地整理組合です。これは、今もそのまま組織が残っています。もともとの地主さんたちが中心になりまして、そういう組合をつくったのです。これが埋め立て事業をする。平野川は当時蛇行していましたし、猫間川というのは、今の環状線沿いにずっと流れておりましたが、これらはいつも問題になっていましたので、そこを埋め立てていく。蛇行する平野川をまっすぐにしまして、寝屋川や南の方の大和川などとつなぐような形の運河をつくっていくことを始めていく。それが1900年代に入りましてすぐに始まります。本格的な工事は1910年代の半ば、1920年代にもつづきます。

そのように土木工事がどんどん行われていく、地域の生産、家内工業ですが、市街化が広がっていきますときに、ここで育成され大きくなったものがあります。それは、大阪城に陸軍の砲兵工廠がありましたが、武器・大砲をつくるのですが、そのために、地域に金属工業、家内の金属加工業がたくさん存在します。ほかにも、鍵屋さん、錠前屋さんですね、それからゴム屋さん、生野・東成についてはゴム産業というのは、切っても切れない関係にあります。あるいは、ブラシ、これも何軒かこの地に残っています。刷毛屋さんですね。このように家内工業の産業が育成されていくわけです。

ですから、土地ができて市街地域となり、人が住んでいく。まだまだ養鶏場経営というような苦しい生活だったところへ、地元産業が興ってくる。土木工事などの仕事場がそこにある。そういうことで、今とも相通じていますけれども、たとえば、外国人労働者が日本に出稼ぎに来る。その際にどこに行くかというと、だいたいそういった地域に行って住むわけですけれども、まさしく、時代背景の違いはあれ、今日の情勢と共通した部分で朝鮮からたくさんの人たちが、ここに生活の糧を求めてやって来る。いったんそういうものが始まりますと、そこには、人の居住している生活空間というものは、だんだん広がっていくということ、これはどこでも当たり前のことです。

 よく、朝鮮半島から労働力としてたくさんの人々が強制的に連れてこられた云々の話があるのですけれども、ちょっと、それだけですっと言ってしまうのはどうでしょうか。確かに埴民地支配と戦争、日本と朝鮮との歴史の中にそのことは重大な問題として忘れることは出来ないのですが、全て一括りにして、強制連行・強制徴用ということにしてしまうと、そこでは人の生活とか、人の生きる息吹とか、そういったものをなかなか感じとることができない。もうちょっと、そういう意味では、在日朝鮮人がこの地域でどういうふうに生きてきたのかということを見ていくべきだし、そこからこの地域社会を知っていくと いうことは、これは在日朝鮮人自身にとりましてもそうですし、日本人にとっても重要なことではないかなあと思っているわけです。

 この地域は済州島(チェジュド)の人たちの街だと言われます。戦前から済州島の人たちがたくさん住んでいたように言われているのですが、実は最初にこの地域に住み始めたのは、済州島の人たちと言うよりも、慶尚道(キョンサンド)の人たちだったのです。慶尚道というのは韓国の南東部にあたりますがそこの人たちが生野に住み始めた。その人たちが1920〜30年と経ていくうちに割合が少なくなっているのです。その理由はよくわかりません。

文中に出てくる桃谷本通商店街。大阪によくある長いアーケードがJR桃谷駅から続く。

 わたしは忠清道(チュンチョンド)出身です。長屋にして20〜30軒、周りはみんな忠清道の人たちでした。今は一人も忠清道の人はいなくなって、みんな済州島の人が住んでいます。この地域でも、それぞれの地域出身の人たちが集まって住んでいた、いわゆる“朝鮮人部落”と言われる地域がありました。1920年代に入ってきまして、ここで平野運河の開鑿工事なんかが始まったり、それにともなって、猫間川の水を全部出してしまわなければいけない。実は、猫間川というのは、山から流れてくる川とか、寝屋川から流れてくる川ではないのです。川というよりも、どっちかというと堀のようなものだった。その水を、全部出してしまわなければいけない。湧き水が出てきたりする川でしたから、それを全部汲み出してしまわなければいけないということで、最初に平野川を今のようなまっすぐにする工事をして、そして猫間川から平野川まで通じる暗渠をつくって、いったん猫間川の水を全部出して、埋め立てて(今の桃谷商店街の真ん中あたりです)、それから暗渠をつくって、護岸工事をしていく。そういう工事をしたのです。

 そこに済州島の人たちがたくさん来るということになるわけです。最初は女性がたくさん来ました。なぜ女性がということですが、これは生野に来たわけではないのです。どこに来たかというと、岸和田にたくさん来た。岸和田と言えば、在日朝鮮人女性史に欠かせない地名でありますが、ここには紡績工場がたくさんありました。岸和田の女工さんとして、朝鮮の若い女性が働いていました。岸和田紡績の労働運動では中心的な役割を担います。女性はそこに来て、男性は生野に来て、土木工事や家内工業に従事するわけです。そうした男女が、昔は結婚というのは間に立つ人がいて、その人が二人を連れ添わせるというのが私たちの問では普通だったのですが、そうしてこの生野に朝鮮人が家庭をもっていくということになるのです。このようにしてこの地域が朝鮮人社会として形づくられていったのです。

<“三多”の島=済州島>

1945年に戦争が終わりました。当時、200〜230万人の朝鮮人が日本に住んでいた。これは強制連行も含めて、日本に渡ってきた人々です。戦争が終わりますと、どっと祖国に帰っていって、最終的には60万人ぐらい残ります。大阪でも先程数字をあげて言いましたが、多住していた地域のほとんどの人たちは祖国に帰っていきます。では、なぜこの生野だけがたくさん残ることになったのか。それは明らかに生活の基盤の違いなのです。1910年代の半ばぐらいから住み始めた朝鮮の人たちは、45年の当時で言いますと、もうすでに3世が生まれるような状況で、そこでの生活の基盤というものが存在していたわけです。ところが他の地域に住んでいる朝鮮の人たちの居住区というのは、多くの場合、軍需工場とか、徴用であるとか、それも戦争が激しくなってきて、いわゆる強制的に徴用なり、連行なりされてきた人たちが住んでいる。ですから、戦争が終われば自分の田舎に帰る、ということになるわけです。ここの人たちは、生活の基盤というのはある程度できていた。

 それからもう1つ、帰れない理由というのがありました。それは済州島という島のことについて、ふれておかねばなりません。済州島というのは小さな島です。今は快速艇が出ていますが、以前は木浦(モッポ)というところまで6時間ぐらいかかりました。昔は済州島は耽羅(タムナ)の国と言われていました。沖縄(琉球王国)を想像していただけばいいと思います。独立した国だったのです。朝鮮が中国を宗主国としていたのと同じように、耽羅も中国を宗主国として独立して存在していたのです。

 ちなみに、高・梁・夫の3氏、これが実は済州島の始まりの名前なんです。三穴神話というのがありまして、高(コ)さんと梁(ヤン)さんと夫(プ)さんが、穴の中から出てきて生まれたというように言われています。これがもともとの済州島の名前なんだと。この高さん梁さん夫さんの時代がどこまで続いたかと言いますと、蒙古が日本に侵略を始めるその前線基地になったのが済州島ですが、そのときに中国からいろんな人たちがやって来るまでなんです。中国人の学者や兵隊がやって果て、済州島の新しい名前として、皇甫(ファンボ)さん、左(チャ)さんというのが生まれる。今、朝鮮の姓になっているこれらは、もともと中国から来た人々が済州島に住んだことのあらわれなんです。

 それから次に李朝時代。この頃になりますと、済州島に政治犯などの人たちが島流しにされる。このことが後に、済州島に対する本土からの差別視というものが生まれてくる背景にもなるのです。反逆者とか、政治的に左遷されたり、そういった人たちがこの島に住むようになった。

 小さな島に1つの火山、漢拏(ハルラ)山という火山があるのですが、その裾野・海岸沿いに人が住んでいるという所です。海の石はその火山のために火山石・軽石みたいな石です。海は底からいつも水が湧き出しています。そういう島です。

 済州島にはこのような歴史があるのです。ところがここは火山島ですので、農業の生産手段がありません。じゃあどうして生活しているのかというと、男の人は船に乗って出かけていく。あるいは農繁期になりますと、本土に行って出稼ぎをする。

 済州島は俗に“三多島(サムタド)”と言われています。その“三多”は、風、女、石です。石が多いのは火山島ですから石が多いのです。島ですのでしょっちゅう風が吹きます。それから女が多いのは何故か。男が漁船で出かける。ところが、この風のためによく遭難します。男は死にます。どんどん少なくなっていきます。出稼ぎにも行きます。そういうことで、誰がこの島の生活を支えたかと言いますと、女なのです。済州島の女の人たちは、私たちの間ではとても強いと言われます。男はいつもぷらぷらしていて、女の人がメシを食わす。「男にメシを食わすのが女のかいしょや」と言われるような雰囲気が、今もこの地域の韓国人の生活に色濃く残っています。保護者会活動などをすれば、すぐにそういう雰囲気が伝わってくると思います。

 こういう歴史の中で、日本に経済的な糧を求めて出稼ぎに来るというのは、ある意味では自然なのです。植民地支配を受けて非常に厳しい状況があり、今まで出稼ぎに行っていた本土も収奪を受けている。だから、日本に来ることになったわけです。

<済州島4−3事件>

 戦争が終わりました。他の地域の人たちは国へ帰ります。ところが帰ってどうするか。帰っても生活ができない。そんなことであれば、生野のここに経済的な基盤、家族もある。だから、ここでの生活を続ける。ということで、生野が戦後の朝鮮人の多住地域となっていくわけです。

 済州島をめぐる出来事で欠かすことのできないことがあります。歴史の話をしましたので、戦後史に関わる部分も続けます。1947年4月3日、この日は済州島にとりまして、ほんとに悲しい歴史の日なのです。戦争が終わり、南北が分断占領されます。南に米軍が来ます。李承晩(イ・スンマン)政権ができまして、反共政策が徹底的にとられます。それはこの済州島と全羅道(チョルラド)中心に民族解放闘争が激しく起こったからです。先生方は、韓国は自由主義の国、北朝鮮は社会主義の国といったイメージを持っておられるでしょう。ところが、もともと戦前のようすでは、南朝鮮というのは農村なのです。今、北朝鮮が食料危機など、いろいろ大変な状況になっていますが戦前はこちらは工業地域だった。その時代では近代的な産業地域、また中国や西欧との文化的・政治的交流などの中心地域だったのです。南は農村地域で、土着の保守的な、非常に古い価値観を持った儒教的な地域だった。たとえばキリスト教で言いますと、キリスト教の中心は北、ピョンヤンを中心とした北朝鮮だった。この南では古い儒教的なシャーマニズムの地域。そこに、植民地時代の抵抗闘争を闘った地下の社会主義運動がずっと行われてきた。ですから、戦争が終わったときはちょっと今と状況が逆だった。どこと結びつく雰囲気だったかというと、アメリカの雰囲気を持っているのは北の方で、社会主義的な雰囲気を持っているのは南。運動の基盤があったのはね。ですから、互いに分断されたときに、北ではキリスト者たちは帝国主義的であるということで弾圧される。南では、民族解放闘争とか社会主義運動などがやはり弾圧される。というようなことで、1940年代末近くまで、韓国全土でパルチザン闘争が起こるわけです。それを米軍と初期のイ・スンマン政権がいっしょになって弾圧する。

 その最も悲惨な事件がこの済州島で起こったのです。本土から差別を受けている地域、より厳しい状況におかれます。当時の島民の3分の1が虐殺されるという大変な事件。4-3事件と言われています。韓国ではこの事件はタブーです。ようやくこの数年の間に若い人たちを中心に、主義的なものによる真相究明ではなく、まだまだそういう立場からは今の韓国では無理ですので、事実だけははっきりさせようではないかという動きが出てきています。そのときに親類縁者を頼って、政治亡命的に猪飼野に逃れてきたのです。その人たちは、今でもそのことについては口を閉ざして言いません。何故か。猪飼野にも、済州島にも、家族兄妹がたくさん住んでいるからです。非常に悲しい歴史として“4・3事件”はあったのです。

<ムラ社会と済州島>

 済州島というのはいわゆるムラ社会です。○○のムラ、××のムラと、典型的なムラ社会をつくっているのです。ちょっとたとえが悪いのですが、アメリカのマフィアを想像してください。マフィアはどこから来ているか。イタリアのシシリー島です。よく似ていますね、朝鮮半島と。あの長靴の先にある火山島なんです。シシリー島も火山島です。出稼ぎにアメリカへ行く。アメリカに行ったシシリー島の○○の村の出身の人たちが、シンジケートをつくって、マフィアの親分になり、村同士で殺し合いをするのです。そういうふうに似ている背景はあるのです。もちろん、済州島の人たちが日本に来て殺し合うわけでは決してないのですが……。

 ですから、ムラ単位の結びつきは非常に強いのです。私たちも済州島の人たちと親しくしていますが、もともと韓国人というのは家族の関係・兄妹の関係はとても濃いのです。従兄弟ぐらいというのは、ほんとに親子兄妹ぐらいです。ところが、済州島の場合は、8親等ぐらいまでは、ほんとに親しい兄妹、身内なのです。そういった人たちが日本に住んでいる親類縁者を頼って、1960年ぐらいからどんどん来たわけです。そのような家族とかムラとか、いろんなつながりがあるわけです。ところが、ムラ単位の共同体社会はできるのですが、島全体の共同体はどうかということになりますと、非常に難しい。そこが済州島の難しさであり、実は、その難しさが、この生野に住んでいる在日朝鮮人社会の難しさであるわけです。あんまり言い過ぎますと、ちょっと齟齬があるかもしれません。録音テープも回っていることですし……。

<生い立ちの中での民族差別>

 戦後私たちの民族は解放されたと言いますけれども、たとえば私自身の小さいときのこの中川小学校での思い出もそうなんですが、授業中でも非常に厳しかったです。朝鮮人であることを、なんとか隠そうとね。ところが学校の中でもあからさまに差別されていました。出席簿の場合でも、アイウエオ順に名前が並んでいますね。今では、まさか、そんなことはないと思いますが、私たちのときは、日本人の児童が全部終わりましてから、2番ぐらい空けて朝鮮人の児童の名前が載っているのです。朝鮮人は私も含めて通名、日本名でしたけれども、それでも日本人の友だちから2番ほど空けて、下に朝鮮人の私たちが並べられているのです。

 1945年8月15日は、私たちの生活実感としましては、必ずしもほんとの解放ではなかった。今思っても切ない思い出ですが、今は激辛ブームとか言ってみんなキムチを食べますが、私たちの頃は、朝御飯にキムチを食べなかった。なんでか言いましたら、キムチはニンニクの臭いがするでしょう。当時、ニンニクとかホルモンというのは、差別の代名詞みたいなものでした。だから朝キムチを食べて学校へ行きますと、臭いがしますから、やっぱりイジメにあうわけです。ですから朝はキムチを食べない。どうしても食べたいときは、お茶碗に水を汲んできまして洗いまして、真っ白になったキムチを食べる。そういう切ない思い出があります。

<生野の街の”三多”>

1965年の日韓条約の締結は、当然のことですが、在日朝鮮人の生活に大きく影響を与えました。朝鮮半島の南の半分だけと日本との国交回復という、その是非は別としまして、国交回復が行われるということは、人の行き来やいろんな意味で影響を及ぼしていくわけです。ご存知のように、この当時というのは日本は東京オリンピックを前にして、高度経済成長へ向け突っ走っている時代でした。

その経済成長政策が行われているときに、生野で大産業が興るわけです。もともと、小さな家内工業が営まれていたところへ、爆発的に興ったものは何かといいますと、ゴムのサンダル、ケミカルサンダル、いわゆるヘップサンダルの産業なのです。

また余談になりますが、知ったふりをして何回も同じ話をするのですが、“ヘップ”という名前がどこからきたかということです。先日亡くなりましたが、私の知っている古老でこの産業に関わっていた人で、「ワシが名前をつけたんや」と言っていた人がいます。オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」という映画を観られますと、たしかに素敵なサンダルを彼女がはいています。「ヘップバーンがはいてるサンダルを真似してつくった。だから、“ヘップ”や」と。ほんとかどうかはちょっとマユツバのところもあります。でも、まあものの名前というのは、案外そういうもんかなあとも思います。

これが爆発的に売れます。売れて売れて、ほんとに売れまくりました。生野の今の人たちには、「あの夢をもう一度」と思っている人もあるようですが。まあ、そういう時代は二度ともう来ないだろうと思いますが……。実にすごい産業の盛り上がりだったのです。

こうして産業が興ってきたときにどうしたかと言いますと、さっきの話ですが、済州島にいる人たちを、親戚関係・ムラ社会を通じて、どんどん招ぶわけです。「日本に来て働かんか。金儲けになるで。」というわけで、たくさんの人たちが日本にやって来ます。ただし、パスポートはありません。いわゆるドンドコ船と言いましたが、1週間、2週間、飲まず食わずで、漁船の底に潜んで日本に来るのです。日本に来て、親類の人の所へ着けば、それでもうなんとか匿われるわけですから、どんどん密航という形で、大阪へ、生野へやって来るわけです。もちろん当時の入管警察は、形の上で摘発はするのですが、適当で、ほっとくわけです。何故かというと、働き手が必要なのです。それが日本の経済発展にとって必要なものなんです。それでどんどん人が来ます。

 その結果、いろんな生活革命をこの生野に起こしていきました。今日の生野の在日朝鮮人の生活状況にものすごく大きな影響を及ぼしています。

 生野には、済州島の“三多”ではないですが、やっぱり“三多”があります。1つ目は、“社長さん”です。なんで“社長さん”が多いか。密航で来ます。親類の会社で働きます。お金をもらいます。アパートを借ります。また働きます。働いてお金を貯めてそのうちに、中古の機械を買います。中古の機械を入れた途端に、その人は“社長さん”になるわけです。在留資格も何もないのですけれども、なにしろ働けば売れて売れてお金が儲かるわけですから、その人は“社長さん”になるのです。

 その‘社長さん”たちの影響で、次に、何が生野の街にできるかというと、“喫茶店”です。生野には喫茶店が多いです。ほんと。喫茶店が多いのにはそのわけがあるのです。その意味を考えて欲しいのです。その人たちは、中古の機械を置いて商売を始めるのですが、事務所がないのです。商売の取引の場所がない。どこでするかというと、喫茶店でするのです。ちゃんとコーヒーを運んでくれますし、ソファがあります。喫茶店が事務所のかわりになるのです。経済情報とかいろんな情報交換の場になる。もう少し後になると、これが別の役割を持ってきます。そういった“社長さん”たちが結婚します。子どもが生まれます。でも忙しい。朝御飯をつくってる間がない。そしたら、喫茶店が朝御飯を食べるところになるのです。朝、この地域の喫茶店はいっばいです。日曜日になれば、家族みんなで行って食べる。これもまた、ウソかホントか……。モーニングセットの発祥の地はこの生野やということです。今でも、300円、安いところでは280円で、コーヒー、トースト、卵、フルーツ、野菜サラダを食べれるわけです。こんな所は、日本広しといえども生野しかない。

 さて3番目。働いて働いて、そして次に何が欲しいかというと、その体と心をなごませてくれる“お酒”なんです。ということで、“酒屋さん”が多い。一杯呑み屋さんです。最近少なくなりましたけど、アル中の人もすごく多かったです。自転車で商品を配達していて、酒屋さんの前でとまりまして、「おっちゃん、塩っ。」と言うのです。この手の上に塩をひとつまみのせて、お酒をぐいっと呑んで、塩をペロッとなめて、また自転車を走らせて行くんです。そこまでいきますと、かなりアルコール中毒症になっています。しかし、それがまた、さらに働くバネになっていたのでしょう。15〜6年前、私がこの仕事を始めた頃は、結構アル中の在日朝鮮人と付き合いがありまして、ほんとに、何とも言えないユニークな付き合いをしました。

 番外編があります。“医者”が多いです。それはそうです。働いて働いて、酒をあおるように呑んだら、次に行くところは決まっているわけです。ただし大きな病院はありません。個人の医院。今でもそうです。男も女も働きますね。遅うまで働いて、明日もまた働かなあかん。痛い所がある。そこで医者へ。でもこの当時は保険がありません。保険がないから現金払いです。医者からみて、こんな現金商売のいいお客さんはないわけです。それも筋肉注射で、モルヒネみたいな注射をグワッと打つんです。そしたら「楽になった。治ったなあ」と。全然治ってないんです。ただ、マヒさせてるだけなんです。そういう医者がすごく流行った。ですからその名残で、今も個人病院がたくさんあります。大きな入院施設のあるような病院はありません。共和病院とか、いくつか数えるぐらいで、ほとんど個人の医院なんです。

<在日5世の時代に入る生野の街>

 さて、生野の在日朝鮮人の中で、済州島の人たちがどれぐらいかと言いますと、新しい統計で約83%になっています。そのうちの50%が、戦後日本に来た人たちとその子どもたちなのです。古くから住んでいる人たちでは1910年代から始まって、今や5世になります。よく在日朝鮮人の1世と言いますが、私たちの中で、1世の人はほとんど見ることはできません。1930年〜40年代ぐらいに来た1世の人たちは見ます。私たちが子どもの頃は、白いチマチョゴリを着て、髪を束ねて後ろでくくったおばあさんたちはたくさんいました。今はもうほとんど見れません。おじいさんでも、韓国の田舎にいるような、つばの大きな帽子をかぶって、長いキセルを持っている、あのおじいさんがいました。そういう人たちが、私の感覚から言えば、ほんとの1世です。今1世と言われる人たちというのは、私の親に近いぐらいの人たちですね。私は父親からは2世、母方からは3世、息子は母方からは4世になります。あと何年かしたら私にも孫ができるかもしれませんから、その子は5世ということになります。もうそんな時代なんです。

 そういう時代に、この生野・猪飼野の街も入ってきているわけです。ところが、ここに住んでいる多くの人たち、日本人の人たちは歴史的な朝鮮人に対する偏見・誤った価値観から抜け出せず、また朝鮮人自身もそういう今の自分たちが住んでいる状況についての知識なり認識なりといったものが、残念ながらほとんどないのです。育ってきていない。

 これは単刀直入に言い過ぎて、問題をかもし出してしまうかもしれないのですが、1つは済州島の人たちの気質として、ムラ社会・小さな家族のコミュニティーとしては、ほんとに共同体意識があり、支え合って、助け合ってするのですが、それが一つになって、この地域に住む人たち全体の共同休になるかと言うと、なかなかそうはいかない。済州島の道民会というのが、ようやく最近できました。でも、その活動よりも、むしろ、どこそこのムラの会というものの方が、よっぽど活発なわけです。それらの互いの連携というものがあまりないのです。そういったものが、今のこの地域の在日朝鮮人社会というものに、かなり大きく影響している。もちろん、それだけではありません。いろんな要素がありますから、簡単にそれを言ってしまうのには問題があると思いますが。

 一方、日本人社会もまた、5世までが生まれ育ち、近所付き合いをしてきている状況であるにも関わらず、未だに朝鮮人を受け入れない。私なんかたまたま機会を得て、地域のことをいろいろやってくる中で、ほんとに難しいなあ、この垣根をどう越えていけばいいのかなと思います。

 もうはっきりしているのです。私たちの頃は「祖国へ帰る」という意識が強かったですが、今の子どもたちは、この地域に育って、この地域社会で生きていく、そういう“地域の人“なのです。ところが、お互いにまだそういう意識といったものが育ってこない。難しい問題をそのまま引きずっている。日本の人たちにこういう話をしましても、まだ在日朝鮮人ということに、やっぱり距離を感じておられる。歴史観とかそれはともかくとしても、地域に共に住んでいるということを事実として見る、そこで、互いの存在を認め合って、民族的な立場・文化を認め合っていくということが、ものすごく大事なことだと思っているのですが、なかなかそうはいかない。

<朝鮮人の若者が日本人の老人をケアーする時代

=地域社会での共生の時代>

 ここに統計があります。2年ほど前のものなのですが、生野区の16才以下の人口です。これが16.1%です。少ないですね。完全に高齢化社会になっておりますね。これは在日朝鮮人も含めてです。ところが在日朝鮮人だけで見ますと29.3%です。若い人たち、子どもたちは、日本人にくらべて圧倒的に多いのです。日本人の若者たちは、どんどん地域から離れていっている。経済状態が悪くなってきていて働き揚がない。ところが、在日朝鮮人の場合は同胞産業などがある。他の地域へ出て行って生きるよりも、まだ生きやすい。いろんな意味で。そうすれば、これからどうなっていくのか。独り暮らしの日本人のお年寄りを朝鮮人の若者たちがケアーしていくことにもなるのです。ところが、日本人と朝鮮人の間に垣根がある。これは深刻な問題です。このような事実について、ほんとに目を向けていかなければならないのです。

 生野区の人権啓発推進協議会の人たちと、一昨年、昨年と、ようやく忌憚のない話ができるようになってきました。その人たちも、私が言うまでもなく、こういうことを感じてきているのです。ところが、地域の日本人社会と朝鮮人社会との垣根というのは、ものすごく高いのです。学校現場の先生方は、そういうことは、ある意味でいろいろご存知だと思います。その人推協の人たちと話しますと「自分らもそう思っている」と言うんです。その人推協が数年前に大阪市の施策でできるときに、私も招ばれて、今日のような話をしたのです。「お願いですから、いろんな難しいこともあるかもしれないけれども、一人でも二人でも、朝鮮人の住民をこの人推協の中に入れて出会って話していって欲しい。」と訴えたのですが、残念ながら入りません。最近、「通名使うてるけれど、一人入ってるでえ」と指摘されました。

 人推協の人たちはこう言います。「難しいです。自分らこの地域で、今の時代考えたときに、朝鮮人ともいっしょに街づくりをしていかなあかんと思う。けれども、40代、50代はこの地域では“鼻たれ小僧”やねん。70を過ぎた人たちがデンとかまえていて、どないもならんねや。自分たちがそれなりの主張すると、『何やお前、朝鮮人のカタ持つんか』とガンとやられる。それでグウの音も出えへんようになる。この地域は難しいんや。」と。「なるほどなあ」と思いながらも、でも、そういう意識を持った人たちも、いろんなこの間のとりくみを進める中で、だんだんと変わってきていると思います。

 その人たちにさっきのことを話したのです。「たとえば将来、高齢化社会がさらに進み、現に生野は一人住まいの老人は、日本人・朝鮮人に関わらず、とても多いけれど、そうした人たちを誰が面倒見るのか。誰が介助するのか。ケアーするのか。朝鮮人の若者たちがせなあかんのです。この一点をとってみてもお互いの支え合いが大切やないだろうか。」と。朝鮮人が、過去の経緯やナショナリズムからすると、日本人との関係は難しいかもしれないけれど、この朝鮮人の若い人たちが、一人住まいの日本人の老人たちを積極的に介護していくということは、ほんとに問われている現実やと思うのです。

 このようにして、日々の出会いがあり、そこから地域社会での共生が生まれてくる。日本と朝鮮との悲しい不幸な歴史を、こうした出会いとふれ合いが越えていく。世代が代わって、5世の時代になってきている私たちこそが、そういう意味では築いていかなければならないのではないか。だから、学校教育こそは、もちろん学校も地域とのいろんな関連で、難しく厳しい問題もあるでしょうけれども、実際には子どもたちがそこに生き、出会っているわけですから、ぜひ、そういったことを踏まえながら、未来をめざしていただくことが、子どもたちに返っていくのではないでしょうか。中川小学校には、パク・チジャ(朴智子)ソンセンニムという、すばらしいバイタリティを持った民族講師がいるのですから、いろいろ議論したり、言いたいことは言い合いながらも、いっしょになって、ここにいる朝鮮人の子どもたち、日本人の子どもたちの出会いを、いっぱいつくってほしいなあと思います。

 ちょっと雑駁な話になったかもしれませんけれども、とりあえず、この地域の歩みみたいなことを話させていただきました。

『むくげ』150号(1997.2.25)より。