『誤訳』の誤解(112)
『誤訳』(W.A.グロータース/柴田武著)は何度か取り上げたが、もう一例。
対象の翻訳はイブリン・ウォー『黒いいたずら』(Evelyn Waugh, Black Mischief) (白水社)である。その冒頭、アフリカの一国であると思われるアザニアの皇帝がインド人の秘書に布告文を口述している。
“We, Seth, Emperor of Azania, Chief of the Chiefs of Sakuyu, Lord of Wanda... do hereby proclaim...”
と物々しい、長い名乗りに始まり、ここまで来た時、窓から見える海に帆船が走るの見える。破滅状態になった国から、国民が逃げ出そうとしている様子である。皇帝は思わず、
“Rats, stinking curs. They are all running away.”
とののしる。
皇帝は、秘書に、重臣たちはどうしたと訊く。「皆逃げ出しました」と答える。「お前は逃げなかったのか」というと「船に乗り切れなかったのです」と答える。皇帝は、「お前の忠誠には報いてやるぞ」と云い、口述を続ける。
‘Where had I got to?’
‘The last eight words in reproof of the fugitives were an interpolation?’
‘Yes, yes, of course.’
‘I will make the erasion. Your majesty’s last words were “do hereby proclaim”.’
この下線部が『黒いいたずら』では次のように訳されている。
「逃げていきましたものについてのお言葉は書かないのでございますね」
『誤訳』はこれを批判して、
interpolation は「書かない」のでなくて、むしろ「書く」こと、無関係なことの書き入れである。
と述べている。(ここまでで、あなたの考えをまとめるといい勉強になる。)
さて、interpolation とは何か?辞書に、
1. to alter, enlarge, or corrupt (a book or manuscript, etc.) by putting new words, subject matter, etc.
(Webster’s New World Dictionary)
とある。例えば、本を書写によって伝えていた時代に、手書きの本の行間にコメントを書いたりしたものが、原文の一部と間違われて、新たに書写する時に、それも含んで書写されることをいう。だから、内容的に「無関係なこと」とは限らない。原文に属さないという意味でなら「無関係なこと」ではある。
この作品においては、重々しい(しかし、空虚に響く)布告文の中に「あん畜生!」などという下劣なののしり言葉が入ることが、interpolation である。秘書は「今、皇帝のお口から出た8個の単語(Rats, stinking curs. They are all running away)をそのまま布告文の中に入れるとinterpolation になりますので、それは書かないで布告を作成するのですね」と念を押している。原文の interpolation が意味的に対応しているのは訳文の「書かない」ではなく、その含みの中にあるのだ。日本語がしっかり読めていないことに基づく誤解である。
『誤訳』の指摘は当たっていることも当たっていないこともある。今回の場合は当たっていない方である。
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