2006-01-09

『誤訳』の誤解(112)

『誤訳』(W.A.グロータース/柴田武著)は何度か取り上げたが、もう一例。
対象の翻訳はイブリン・ウォー『黒いいたずら』(Evelyn Waugh, Black Mischief) (白水社)である。その冒頭、アフリカの一国であると思われるアザニアの皇帝がインド人の秘書に布告文を口述している。

“We, Seth, Emperor of Azania, Chief of the Chiefs of Sakuyu, Lord of Wanda... do hereby proclaim...”

と物々しい、長い名乗りに始まり、ここまで来た時、窓から見える海に帆船が走るの見える。破滅状態になった国から、国民が逃げ出そうとしている様子である。皇帝は思わず、

“Rats, stinking curs. They are all running away.”

とののしる。
皇帝は、秘書に、重臣たちはどうしたと訊く。「皆逃げ出しました」と答える。「お前は逃げなかったのか」というと「船に乗り切れなかったのです」と答える。皇帝は、「お前の忠誠には報いてやるぞ」と云い、口述を続ける。

‘Where had I got to?’
‘The last eight words in reproof of the fugitives were an interpolation?’
‘Yes, yes, of course.’
‘I will make the erasion. Your majesty’s last words were “do hereby proclaim”.’

この下線部が『黒いいたずら』では次のように訳されている。

「逃げていきましたものについてのお言葉は書かないのでございますね」

『誤訳』はこれを批判して、

interpolation は「書かない」のでなくて、むしろ「書く」こと、無関係なことの書き入れである。

と述べている。(ここまでで、あなたの考えをまとめるといい勉強になる。)

さて、interpolation とは何か?辞書に、

1. to alter, enlarge, or corrupt (a book or manuscript, etc.) by putting new words, subject matter, etc.
(Webster’s New World Dictionary)

とある。例えば、本を書写によって伝えていた時代に、手書きの本の行間にコメントを書いたりしたものが、原文の一部と間違われて、新たに書写する時に、それも含んで書写されることをいう。だから、内容的に「無関係なこと」とは限らない。原文に属さないという意味でなら「無関係なこと」ではある。
この作品においては、重々しい(しかし、空虚に響く)布告文の中に「あん畜生!」などという下劣なののしり言葉が入ることが、interpolation である。秘書は「今、皇帝のお口から出た8個の単語(Rats, stinking curs. They are all running away)をそのまま布告文の中に入れるとinterpolation になりますので、それは書かないで布告を作成するのですね」と念を押している。原文の interpolation が意味的に対応しているのは訳文の「書かない」ではなく、その含みの中にあるのだ。日本語がしっかり読めていないことに基づく誤解である。

『誤訳』の指摘は当たっていることも当たっていないこともある。今回の場合は当たっていない方である。

2005-12-26

A Moveable Feast 補説3(106)

Ernest Hemingway, A Moveable Feast についての、W.A. グロータース/柴田武『誤訳 ほんやく文化論』の批判を3回にわたって取り上げた。(085 11月7日/088 11月18日/091 11月21日)
その批判の対象となった、福田陸太郎訳『移動祝祭日』(同時代ライブラリー、岩波書店)を図書館で借覧した。それには、至れり尽くせりの解説がある。その最初の方でこの訳書タイトルについて、福田氏は、まず、Moveable Feast の単語としての意味を解説し、次に、扉の文句を再掲し、これが

この書物のモチーフになっているのである。本書の邦訳題名については、いろいろ考えたが、けっきょく、三笠書房側の希望もあり、『移動祝祭日』という題名に落ちついたことを付記しておく。

と述べている。この解説は、三笠書房からの初版に付け、岩波版に受け継がれたものである。だから、『誤訳』の著者は、当然これを見た上で批判をしたはずだが、それがそうなのかどうか心もとない。
『移動祝祭日』という訳し方は、088で明らかにしたように、翻訳の仕方の一つとしてありうるものである。(この例では、福田氏が字義通りに訳したというより、それ以前から、行なわれていた訳語を採用したものと思われる。)ただ、それにしても「移動」というのはいかにも物々しいし、「祝祭日」は「祭日」としてはどうだろうか、とか、いろいろ考えられたのではないかと推察される。もちろん、字義から離れたもっとおしゃれな訳も福田氏の脳裏には浮かんだことだろう。
今回を含めて4回にわたって、論じてきたのは、翻訳理論上興味ある問題であったからであり、また『誤訳』の批判が的外れなものであることを明らかにするためであった。しかし、いうまでもなく、題名の訳がどうか、ということよりも大切なのは作品そのものを読んで理解鑑賞することである。A Moveable Feast の英文はやさしく、すらすらと読めるが、面白いエピソードを連ねたものではない。自分たちが、どういう「気分」で生きていたかを、独自のスタイルで書いているので、そういう意味で読みにくいところもある。そもそも、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの作品を愛読したことがない人が読んでも楽しめないだろう。それら、いわゆる失われた世代の作家をある程度読んだ上で、この訳書の解説の助けを借りて原書を読めば、より一層深く理解できるであろう。訳書だけを読んでも、読まないよりはずっとましである。ただし、三笠書房版も岩波版も絶版で、図書館でしか見ることができない。  

2005-11-21

A Moveable Feast 補説2(091)

085,088に引き続き、ヘミングウェイの A Moveable Feast の翻訳の問題を考える。
題辞(epigraph)の原文(A)、福田訳(B)、「誤訳」の著者による訳(C)を再掲する。

(A)
If you are lucky enough to have lived in Paris as a young man, then wherever you go for the rest of your life, it stays with you, for Paris is a moveable feast.
―Ernest Hemingway, to a friend, 1950

(B)
「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうにも、パリはきみについてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ。」

(C)
「もし、だれでも、運よく青年時代にパリに住んでいたら、残りの人生をどこで過ごそうとも、パリは自分についてまわる。パリは、持って歩ける、楽しいお祭りなのだから。」

『誤訳』の著者は、

扉の文句で、「きみ」と訳されている you は、第二人称をさすのではなく、「一般に人は」とか「だれでも」の意味で、実際には「自分自身」のことをさしている。

と述べ、(B)のようでなく、(C)のように訳すべきであるとしている。この主張が正しいかどうかが、今回に持ち越された課題である。
まず、you の「不定用法」と呼ばれている用法についてチェックしておこう。江川泰一郎『代名詞』(英文法シリーズ、研究社)に次の解説がある。

We had a lot of rain last year. (去年は雨が多かった)/ You often find that just when you want something you haven’t got it by you. –[UED] (何か入用のときに限ってその物が手もとにないことは誰しもよく経験することだ)
このwe とyou は文語・口語を通じてきわめて広く用いられる。多少それぞれの原義を残しているが、別に特定の人を指しているわけではない。表現としてはyou の方が直接相手に訴えているだけに、親しさの感情的色彩が濃いと言えよう。[Jespersen, Essentials §15.62] (江川解説おわり)

上の例で、we といっても、自分と話をしている相手にだけに、またyou といっても、今話をしている相手にだけ当てはまることとして云っているのではない。もっと広く一般的な事象として云っている、そういう用法である。主語をone とすると、その用法であることがより明瞭になる。日本語では主語を云い表さなくてもいいので、上の訳でもそうしているように、「我々」「あなた」といった代名詞を云い表さないで訳せばいい。しかし、それを残してぎこちない訳になっている場合が多いことは確かだ。
しかしまた、ここで、江川氏の解説の下線部にも注意が必要である。不定用法といっても、話し相手を指す基本的意味が皆無というわけではない。
少し違った場合で、youの次のような用法がある。

“You know, he was a bit difficult at times. Frightful strain to live with, and all that. Fortunately I didn’t have to see much of him.”
Agatha Christie, “Dead Man’s Mirror”

 「そうですね。あの方は時々、ちょっと気難しいことがあります。一緒にいるとこわくて緊張してしまうような。幸い、私はあまりお目にかかりませんので」

或る人について、その人がどんな人かを聞かれて答えている文脈であるから、文頭のYou know を「あなたもご存知ですが」などと訳すと変だ。相手は知らないから訊いているのだからである。これは、日本語であれば「そうですね」「それがですね」「ええと」などというような、相手との対話の波長を合わせるための繋ぎのことばであるから、そのように訳すべきである。

これらのことを念頭に置いて、問題の(A)を見てみる。『誤訳』では、(A)つまり原文は示していない。(B)の福田訳と(C)自訳を示しているのみで、また、原文の、この文句の出典である―Ernest Hemingway, to a friend, 1950 に対する訳も示していない。従って、『誤訳』だけを読んだ人は、原書にこういう出典の明記があるとは分からないわけだ。
これによって、ヘミングウェイは、この題辞には出典があり、それは、自分が1950年に、或る友人に宛てた言葉なのだ、と示している。to a friend が、彼が書いたものの一節であるのか、私信であるのか、話された言葉なのか、そのように見せかけただけなのかは、僕にも分からないが、それは大方の読者にとってもそうであろうから、分からなくもいいので、要するにヘミングウェイが一友人に宛てた言葉として受けとればいいのだ。
そうであれば、これは、特定の人に向かって発せられた言葉であり、このyou は「きみ」でいいのである。勿論、述べられていることは、その「きみ」だけに当てはまるのでなく、それを云っているヘミングウェイ自身にも当てはまることである。そして、題辞として示すことによって、読者も「ああ、そうなのだなあ」と、自分にも、誰にも当てはまることとして受けとるのである。
要するに、それが「誰にも当てはまる真実」として受け取られる限り、そして、そのことが日本語においても云えるのであれば、「きみ」と訳してもいいのだ。
言葉の意味は、必ずそのまま、装い無しで示されなければならないというわけではない。意味が伝わる限り、装いにくるんでもいいのであり、文学の翻訳においては装いに対する考慮も必要である。
結論として、(A)に対する訳としては、(C)でもいいが(B)でもよく、それは翻訳者の選択の問題である。

2005-11-14

A Moveable Feast 補説(088)

085に引き続き、ヘミングウェイの A Moveable Feast をどう訳すべきかという問題を考える。
題辞(epigraph)の原文(A)、福田訳(B)、「誤訳」の著者による訳(C)を掲げよう。

(A)
If you are lucky enough to have lived in Paris as a young man, then wherever you go for the rest of your life, it stays with you, for Paris is a moveable feast.
―Ernest Hemingway, to a friend, 1950

(B)
「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうにも、パリはきみについてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ。」

(C)
「もし、だれでも、運よく青年時代にパリに住んでいたら、残りの人生をどこで過ごそうとも、パリは自分についてまわる。パリは、持って歩ける、楽しいお祭りなのだから。」

「誤訳」の著者は「ヘミングウェイはキリスト教の祝祭日のことなんか、まるで考えてもいなかった」と述べているが、果たしてそうか。漱石の「道草」の Edwin McClellan 訳は、そのタイトルを Grass on the Wayside と訳している。これを「漱石は道端の草のことなど、まるで考えていなかった」というようなものである。小説のタイトルは、「三四郎」のように、それを見た時、「これは主人公の名前なんだろう」と思うだけのシンプルなものもある。「門」のように思わせぶりで、作品を読んだあとでも「門」というタイトルの意味がもう一つ分からないものもある。
ここで、注意すべきは、「門」にしても「道草」にしても、タイトルには、(イ)「作者がそのタイトルにこめた意味」(があるとして)と、(ロ)「その字義通りの意味」があるということである。
(イ)を読み取ることが肝要なのであり、それがよく問題になり、(ロ)はあまり議論の対象にならない。しかし、それは(ロ)が大抵の場合自明であるからに過ぎない。自明であるからといって、それはどうであってもいいというわけではない。(ロ)は形であり、それに(イ)中身が納めてある。文学においては形も中身も両方大事である。自国語の場合(ロ)は大抵自明であるが、外国語の場合必ずしもそうではない。問題の a moveable feast の字義的意味は日本人の一般読者に取って自明でない。それで訳者の福田氏は解説が必要であると考えたのである。
英語国民の読者は A Moveable Feast というタイトルを見て、キリスト教の祭日のことなどチラとも考えないのではなく、日本人が「道草」というタイトルを見て考える程度には考えるのである。次に、題辞を見て「ああ、持ち運べる祭りという意味で著者は使おうとしているのだな」と納得するのである。
日本人の読者も、福田氏の解説を見て英語国民と同じ過程を踏んで同じ認識に至る。
(ロ)は字義的意味であるのに対し、(イ)は比喩的意味であるともいえる。読者は、「著者が a moveable feast の通常の意味を少し変えて a feast you can carry with you という意味で用いているのだな」、「パリの青春の記憶は a moveable feast のようなものだ」と云っているのだなと思うのである。
そこでようやく、訳書のタイトルとして(イ)と(ロ)のどちらを日本語化すべきなのか、という問題に至る。「そんなもの(イ)即ち比喩的意味に決まっとる」という方、そう慌てないで下さい。まだ、タイトルだけのことなのだ。(イ)は、題辞を見たり、作品を読む過程で分かればいいのであって、まずは(ロ)、つまり、字義的意味を日本語化するという考え方も成立する。「道草」を Grass on the Wayside としたのもその考え方による。(「道草」にも、「路傍の草」という意味と、「道草を食う」の慣用句としての意味とがあるが、議論を単純にするため、慣用句としての意味は考えないことにする。)
「誤訳」の著者は「こころのお祭り」としてはどうか、と提案している。これは著者が(イ)として受け取った意味を日本語化したもので、それはそれで一案である。しかし、だからといって、字義的意味を日本語化した「移動祝祭日」を誤訳であると主張する理由にはならない。
タイトルの訳としては、「(イ)を訳す」、「(ロ)を訳す」の両方とも普通に行なわれていることである。
結論として、タイトルの「移動祝祭日」という訳は誤訳ではない。
題辞(A)中の you をどう訳すかという問題については、また来週の月曜日に取り上げる。

2005-11-07

A Moveable Feast (085)

前回に引き続き、翻訳の問題を考える。A Moveable Feastはヘミングウェイ(Ernest Hemingway) の作品のタイトルである。この日本語訳を、W.A. グロータース/柴田武『誤訳』(1967)が取り上げた。対象となった翻訳は、福田陸太郎訳『移動祝祭日』(三笠書房、1964)である。(この翻訳は後に、岩波書店から、同時代ライブラリーとして出たが現在絶版になっていて、筆者(Michio)は、原書は読んだが、訳書は両方とも未入手、未読である。)
なお、『誤訳』では、原書をThe Moveable Feast としているが、A Moveable Feast である。また、この作品を「日記」としているが、日本語で日記という体裁のものではなく、1920年代のパリ生活の回顧録である。ヘミングウェイは、これをfiction と見てもらってもいい、とPrefaceで書いている。

さて、『誤訳』は、まず、原題 A Moveable Feastについての訳者(福田陸太郎)の解説を引用する。

「この書物の原題の『ムーヴァブル・フィースト』というのは、クリスマスのように日の一定している祭日に対して、イースターのように、年によって日の異なる祭日のことであって、なぜこういう題名がつけられたかは、この書物の扉にある次の文句によって、はっきりすると思う。」

この原文は、

If you are lucky enough to have lived in Paris as a young man, then wherever you go for the rest of your life, it stays with you, for Paris is a moveable feast.
―Ernest Hemingway, to a friend, 1950

福田訳は、

「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうにも、パリはきみについてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ。」

『誤訳』の著者は、これについて評を加える。

この扉の文句を誤解したために、題まで誤った。ヘミングウェイはキリスト教の祝祭日のことなんか、まるで考えてもいなかった。

そして、エピグラフを次のように訳してみせる。

「もし、だれでも、運よく青年時代にパリに住んでいたら、残りの人生をどこで過ごそうとも、パリは自分についてまわる。パリは、持って歩ける、楽しいお祭りなのだから。」

さて、この批評は正当なものか。考えてみよう。問題を端的にいえば、

「原作のタイトルA Moveable Feast を、訳書のタイトルとして、どう訳すべきか」

ということになる。
もう一つ、『誤訳』は「原文のyou を「きみ」と訳すべきでない」としている。このyouは特定の相手に向かっていっているのではないから、とその理由を述べている。これについても、副次的に検討するが、メインは、上の「端的」云々の問題になる。
翻訳について興味ある問題であるので、あなたも自分の考えをまとめていただきたい。来週の月曜日に、僕の考えを示す。

2005-11-04

domestic violence (084)

新聞によれば、国立国語研究所は、かねて外来語の云い換え語の案を発表しているが、「ドメスティック・バイオレンス」に対する云い換えは見送られた。「配偶者間暴力」では意味が限られるからだという。最初は「家庭内暴力」といわれていたように記憶するが、どうしてそれではいけないのか。これなら、もっとも多いであろう「夫の妻への暴力」のみならず、「子の老いた父母への暴力」、「子の父母への暴力」なども「家庭内」に違いないから含みうる。別居している場合や肉親でない介護者によるものもあるかもしれないが、言葉はある程度フレキシブルなものなので、「配偶者間」のように規定をしすぎたり、意味が少し違うから別語が必要だと考えたりしない方がいいのである。1語1意でないところが人間言語の特徴なのだ。もし1語1意なら、コンピューター言語と同じになり、コンピュータ翻訳は容易で完全なものになるだろう。一つの語にいくつもの意味があり、何を意味しているかにある程度の柔軟性があるから、人間の言語は、コンピュータ言語の及ばない複雑なコミュニケーションにおいて機能しているのである。
社会や人間関係の変化によって、暴力の実態が変化すれば、「家庭内暴力」の語の意味が拡大した、変化したと考えればいい。余程、違和感が生じたらその時考えればいいのである。
「ドメスティック・バイオレンス」やDVといった外来語乃至は「英語のそのままの使用」は、「家庭内暴力」「配偶者間暴力」というより、上述の違和感があまり生じないという利点があるのであり、外来語が使われる一つのメリットでもあるのだ。
この問題は、次回でも取り上げる。

2005-07-12

いざ生きめやも・補説(022)

021を書いてから、このタイトルで検索してみると、「堀辰雄は、この表現で意味が逆になることは承知の上だった、ひびきの良さが文法を圧倒した例」というようなことが書かれていて、びっくり。現代語なら、文法的に間違っていても、作家がそう書き、読者が通してしまえばそれまでだが、この場合は古典語だ。我々には「文法的に間違っていても、ひびきがいいから、これでいいのだ」という資格はない。

なお、私は、堀辰雄の作品を愛読している。「風立ちぬ」も10回くらい読んだ。しかし、ひいきの引き倒しはよくない。

2005-07-10

いざ生きめやも(021)

堀辰雄の「風立ちぬ」の本の扉裏にヴァレリーの詩の一節が引用してある。
  Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
そして、作品の中で、これが、
  風立ちぬ、いざ生きめやも
と訳されている。前半は、この小説の題名ともなっている重要な語句である。美しい響きの日本語で、爽やかな秋の日など、「いざ生きめやも」とつぶやいて感傷に浸ってみたくなる。ところが、これが誤訳だというから分からないものだ。(大野晋/丸谷才一『日本語で一番大事なもの』中央公論社)
原文の一節は、Paul Valéry, Le Cimetière Marin (Graveyard by the Sea)の最後のヴァースの第1行で、英語でいうと、 
  The wind is rising: we must endeavor to live.
となる。鈴木信太郎訳「海辺の墓地」(ヴァレリー全集1「詩集」、筑摩書房)では、
  風 吹き起こる・・・・・生きねばならぬ。
と訳されている。
問題は「めやも」にある。「め」は推量の助動詞「む」の已然形、「やも」は反語の終助詞。「どうして~するだろうか、そんなことはないなあ」という意味。したがって「生きめやも」は「どうして生きたりするだろうか、そんなことはないなあ」と、弱々しく死んでしまう。人麻呂の名歌、
  ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも
は「(つい近い昔、滅びた近江京の)大宮人に、再び逢うということがあるだろうか、そんなことはないのだ」という慨嘆である。
大海人皇子(天武天皇)の額田王との贈答歌、
  むらさきの匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
も有名だ。この「恋ひめやも」が「恋をするのだ」という意味だと、部分的に理解して覚えてしまう人もいるかも知れない。しかし、この歌では、その前に「憎くあらば」という仮定があって、そうであれば「恋はしない」となる。しかし「憎くなど思わないのだから、恋をするのだ」と反転する。 現代歌人の半田良平に、
 独りして堪へてはをれどつはものの親は悲しといはざらめやも
という作品がある。これは、太平洋戦争で息子を戦死させた親の苦しい胸中を歌ったものである。「ざら」という否定の助動詞(終止形「ず」)が入らないと意味をなさない。
ヴァレリーの詩句は「いざ生きざらめやも」とすれば正しい訳になる。
一方、川端康成は、「秋風高原」という随筆(『高原』中央文庫所収)で「風立ちぬ、いざ生きめやも」を文学碑にしたいと書いている。この碑が軽井沢に建立されたかどうかは知らない。
6月9日、歌人の塚本邦雄さんが逝去した。こういうことがあった。NHKで、全国の視聴者からファックスで短歌を集め、それを数人の歌人が選者になって入選を決める特別番組がある。毎年行なわれているが、数年前の番組だった。何千首という応募作品の中から、選者の誰かが自分の名前のスタンプを押すと、その作品は壁に張り出され入選の候補になる。その中に、この「めやも」を使った作品があり、明らかに意味が逆になっていた。作者は、堀辰雄の影響でこれでいいと思っているらしい。選者の中に塚本さんがいて、ヴァレリーの原詩をフランス語で朗々と暗誦し「東大国文科出身の堀辰雄でも間違えるのですね」といった。他の選者は知らん顔。アナウンサーが「誤用ですが、広く行われているから、認めていいということですね」ととりなすように云った。塚本さんも曖昧な返事をして、結局、その件はすっきりしないまま進行した。
現代語では、誤用も繰り返されると正用になるということがあるが、古典語はすでに進展が止まったものであるから、いくら繰り返され、ひろく行なわれても誤用が正用になるということはありえない。
それにしても、これほど人口に膾炙した、堂々とした誤用も珍しい。

2005-06-05

与次郎の名訳(011)

a back, afar, afoot, ajar, asleep, aside など接頭辞 a が付く副詞・形容詞が幾つかあるが、その一つに akin がある。「~と血族である; ~と同類である」という意味。
  例: The cat is akin to the tiger.
この語で漱石の「三四郎」の有名な一節が思い出される。Pity's akin to love. という英語をどう訳すか?という議論が起こり、広田先生の書生の与次郎が「可哀想だた惚れたってことよ」という案を出したが、先生は苦い顔をした。これは粋な名訳(迷訳?)として有名だが、これをまた英語にするとどうなるのか。
 Jay Rubin 氏は次のように訳している。(Sanshiro, University of Tokyo Press)
   When I say that you're a poor little thing, it only means I love you.
なるほどと思うが、この訳は、男が当の相手の女性に向かっての愛の告白の体である。原文(可哀想だた惚れたってことよ)は、或る男が「あの子は可哀想だ」「可哀想だ」としきりに云うので、友達が「おいおい、いやに同情するね。お前、あの子に惚れてるんじゃないか?」と冷やかし気味に云っているとも取れる。
   When you say that she's a poor little thing, you sound as if you are in love with her.
また、第三者のことを云っているとも取れる。
   He says he helped her out of pity, but he really did so out of love.
自分のことを、心中で思っているか、第三者に云っているとすると、 
   At first I was caring for her out of sympathy, but now I may be in love with her.
と訳せる。
「可哀想だた惚れたってことよ」は、主語が曖昧で分からない、というより、主語をいろいろと置き換えて解釈でき、いろいろな文脈で利用できるということで、それだけ便利な一句であるのだ。

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