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2006-07-10 (Mon.) 犬のいる御ミサ

昨日、以前ちょっと触れた「御聖堂に犬の入っていそうな教会」の御ミサを覗いてきました。(私にはこのことはかなり疑問で、それを許している司祭に反感さえ感じているので、その御ミサに「与った」という表現をしたくありません。「覗いた」のです(笑) 御聖体拝領もしませんでした。)

やはり盲導犬が入っていました。私はこの御ミサに遅刻して入ったので、最初は気づかなかったのですが、やっぱり入っていました。

御聖体拝領の列に犬は並ばなかったようです(笑)しかし御ミサが終わった後、その盲導犬を連れた視覚障害者の方が、犬と共に祭壇の前に進み出て、信者さん達に挨拶しました。「この○○(犬の名前)とお別れすることになりました。盲導犬としての適性がないという判断が出されたからです。今迄、お世話になりました」と言ってその方は泣かれました。乱暴者の私も、さすがにその場面を写真に撮ることはできませんでした。

このことは、確かに人間の心の善意で行われています。しかし、私には大変大変疑問です。野外ミサならまだしも、このような完全に祈りの場所、完全に神聖な場所であるべき御聖堂の中に犬が入ることは、私にはどうしても相応しくないこととしか思えません。犬には罪はなく、また犬も神に愛されている筈です。そして盲導犬は特に、自分の身を削って人間に奉仕しています。犬には犬の何らかの天国に相当する場所があるかも知れません(*)。でも、犬が天使や人間の天国に参入することはあり得ないと思います。(何だか変な考察・・)

御聖堂が、犬の匂いで臭いのです。「週一回だけ、主日の御ミサにだけ犬が御聖堂に入ることで、こんなに匂うのか?」と疑問に思うほど、臭いのです。主日だけじゃないのかも知れません。あるいはあのワンチャン、おしっこしちゃったことがあるのかも知れません。
その御聖堂は窓の面積が少ないのです。壁の上の方に上下の幅の狭い窓があるだけです。もちろんその窓はステンドグラスです。閉塞感があるのはカトリックの御聖堂にはままあることかも知れませんが、その教会の御聖堂は特に薄暗いのです。その薄暗い閉塞感のある空間の中に、犬の匂いが漂い、なんだかじと〜〜、どろ〜んとした雰囲気があるのです。私は、嫌ですね。

人間の心の善意ばかりで見ていては、神様事では間違います。神様事の中にはヒューマニズムがあるばかりではないからです。
たとえば、以前も書きましたが、御ミサにおいて、それ自体は気の毒な知能障害者の方の奇声が御聖堂の中にこだまするべきではありません。知能障害者の方にも人権はありますが、しかし私達に他の人の祈りに配慮する義務があるのと同様に、その知能障害者の人にも ー それが不可能ならその方を保護している健常者に ー 他の人の祈りに配慮する義務があるからです。

主の教会が犬の匂いで満ちている。しかも至聖所というべき御聖堂、御聖櫃のある場所が犬の匂いで満ちている。これはどう考えても異常なことです。
盲導犬をどこか別のところに繋いでおいて、視覚障害者の人を人間の手でもって御ミサに導くという方法を取らない司祭の態度は非難に値する、と私は思います。

(*)・・・これは問題発言かも知れませんね(笑) 犬に「天国に相当する場所」があるためには、まず犬に「霊魂に相当するもの」がなければなりません。カトリックではこれは何と教えているのでしょう? 私は知りませんので、ここでは「これはあくまで個人的な妄想の中の仮定的なセリフです」と言っておきます。

この札の置かれている席はこれ一つではない。信者席の一番後ろの列に、これと同じ札が他にも置かれていた。
教会のホールに入ったところに貼られている福祉団体のポスター。
(もちろん、この団体に問題があるわけではない。
また、教会が人間の福祉に目を向けることに問題があるわけでもない。)
御聖堂の壁に貼られている聖テレジアのお写真と聖遺物。
このお方のお顔は、特に目は、なんて澄んで美しいのだろう!
しかしこの写真が飾られている正にこの場所に、犬の匂いがこもっているのである。

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