前田雅英教授について
エロゲの敵でバカ(?)というイメージがなんとなく流布していますが、20年ぐらい前から司法試験関係で絶大な支持を受けている大物です。東大の他の教授はずっと実務研究を扱っていて、当時平野教授門下から続出していた同世代の秀才(西田、山口他)の中でちょっと落ちこぼれた(?)前田教授(東大に残れなかった)が生き残りをかけて司法試験に進出して大成功を収めたという感じでしょうか。今の若手法律家はほぼ例外なくこの方の教科書を読んで影響を受けています。
前田教授の考え方の根幹は戦後刑事法の一大潮流となった団藤教授の構成要件該当性を形式的に、かつ厳格に審査する、という考え方の否定にあります。構成要件(平たく言えば刑法典の条文の中身)を形式的に解釈する、というのは構成要件(条文)という枠を使って処罰範囲を限定して国権の濫用から人権を擁護する、という考え方、つまり厳格な罪刑法定主義です。構成要件(条文)から外れていれば問答無用で無罪。形式的には条文には当てはまらないが、実質的にはこれは立法趣旨からして有罪ではないか、という考え方を許しません。仮に「公共の建物の塀に立小便をしたら罰金50万円」という法を定めたとします。その場合、塀ではなく柱に立小便をした場合、柱は塀ではないから構成要件に該当しません。構成要件に該当して初めて違法性、責任論と更に「処罰を限定する方向(阻却事由)」で実質的議論を行います。すなわち、構成要件に該当しないけど、悪い行為(この場合、柱への立小便)というのは立法の不備により処罰出来ない、ということになります。有罪にしたければ国会で承認を得て法律を改正しなさい、という結論になります。法の不遡及の原則がありますから、その人を後から処罰出来ませんが。といっても、この原則も最近怪しいですけどね(ex少年法改正案、児童ポルノの単純所持禁止)。
では前田教授の考え方はどうでしょうか。まず、構成要件該当性を実質化します。条文に当てはまるか、当てはまらないかを純形式的に判断しません。前田教授はこれを「新しい可罰的違法性論」と呼んでいます。本来の可罰的違法性論(前田教授の主張とは違う?)とは団藤教授の反対と考えてよいでしょう。つまり、一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為であれば構成要件に該当する、という考え方です。上の例で言えば、法意は公共の場所に立小便するな、という点にある。したがって、塀ではなく柱であっても立法趣旨からして処罰すべきであり、構成要件に該当する、と考えます。当然ながら、処罰範囲は拡大し、場合によっては人権侵害、国権の濫用の可能性があります。ただ、前田教授はその可罰的違法性論を処罰範囲縮小という方向にのみ使う、という主張(トリック)で処罰拡大、人権侵害の可能性はない、とします。つまり、構成要件に一見当てはまっている行為でも法意からして処罰に値しない行為は裁判官による違法性阻却、責任阻却の判断を待つまでもなく構成要件該当性を欠く、とするわけです。例えば、「信号機を壊したら罰金100万円」という法律を定めたとします。ある人が信号機に石を投げてカバーを割ったとしましょう。その場合、従来の考え方では形式的に信号を壊しているのですから、構成要件に該当します。ただし、実際に立法趣旨である交通の安全に害を及ぼしていないから違法性が阻却される、ということになるでしょう。前田教授の考え方では形式的に構成要件に該当しているように見えるが、実際に交通の安全を害していないから、可罰的違法性がなく、構成要件に該当しない、ということになります。構成要件(条文)解釈の段階で立法趣旨を勘案してある程度実質的な判断を行っているわけです。
さて、問題はこの主張が正しいかどうかです。ある程度形式的判断ができるのであれば、本来違法性論、責任論で行うべき事件の内容にに踏み込んだ実質的判断を構成要件該当性(入り口の条文解釈)で行って良い、そして、それは違法性論、責任論と同じく処罰を縮小する(阻却する)方向にのみ用いられる。すなわち、そういう行為は可罰的違法性がなく、構成要件に該当しない。構成要件の判断を少々実質化しても全く処罰範囲は拡大しない。理論的には完璧に思えます。では、構成要件該当性を判断する人というのは誰でしょうか。違法性、責任の判断は一応公平とされる裁判官が主体となっ裁判でて行います。では、構成要件該当性は?拘束すべきか否か、起訴すべきか否か、判断する主体は現場の人間、捜査機関であり、検察官ということになります。あれ、ヘンですね。昔は誰にも縛られず好き勝手にやっていたこういう人達から実質的判断権を奪い、議会による立法の枠で人権を守るのが構成要件(条文、罪刑法定主義)の主眼ですよね。いつの間にか処罰範囲をまず判断する人(実質的判断をする人)が議会から捜査機関や検察官になってますよ。前田先生がいくら可罰的違法性論は処罰を縮小する方向にのみ働く、とお題目を唱えてもこれじゃ絵に描いた餅ですよね。厳格に条文に従わなくても良いとした場合、捜査機関を制約する人や制度が存在しないのですから。判断する人が捜査機関や検察官ではこの人達が法律を改正しなくても処罰に値すると思えばしょっぴいてよいってことになりやしませんか。実際、警察、検察がそう考えていると思われる例(例えば別件逮捕)は枚挙にいとまがありません。すなわち、これは場合によって議会による立法の枷(罪刑法定主義)から捜査機関が免れるということを意味します。前田教授の主張ではあり得ないはずの柱への小便が実際には起訴、処罰される可能性を否定出来ないわけです。前田教授は講義の中で実務家を信用せよ、そんな馬鹿な事はないと笑い飛ばします。しかし、捜査官、検察官を信用出来なかった歴史があるからこそ構成要件、条文、罪刑法定主義があるのです。これは罪刑法定主義の部分的否定です(実際、罪刑法定主義という言葉を検察官は毛嫌いする)。しょぴかれても裁判では裁判官の違法性阻却、責任阻却判断で正当な判断がくだると言う反論もあるでしょう。しかし、日本では起訴された事案の有罪率は限りなく100%に近い数字です。裁判官と検察官は普段から交流があり、癒着しているに近い。更に、ただしょっぴかれただけで人生はまず終了します。裁判で無罪を勝ちとっても失われた仕事と社会的立場、信頼は帰ってきません。逮捕のスティグマ(烙印押し、つまり偏見です)を考えると逮捕されたというだけでその人を破滅させるに十分すぎるほどです。
こうして前田説は実務家(警察、検察)の絶大な支持を得たわけです。この説で論文を書けば司法試験に受かりやすい。採点官の多くがいつの間にか実務家になってしまった(誰が決めたのか知りませんが)が故、この説が司法試験という狭い世界で一世を風靡して法務に携わる人のほとんどがこの説の影響を受けているわけです。私はこれらの方々(教授、採点に携わる実務家)が捜査機関が以前から持っていた思想を追認して理論化し、確信犯的に処罰範囲の拡大、捜査官のさらなるフリーハンドをを目指していたと考えています。前田先生はその片棒を担いだ、ということになるのでしょうか。実際に検察官と協力して細部を詰めていたのは東大に残った教授たちで、前田先生はいわば広報係を担当したと言えるのでしょうか。
このように、実務家の提灯担ぎで出世した方ですから、権力に擦り寄るのは極めてアタリマエのことだと思われます。実際に判例研究等で細かな理論を立てたのは平野、西田、山口等の方々で、前田先生はそれをわかりやすく教科書的に鳥瞰しただけと言えるでしょうか。東大に残った先生方は忙しくて司法試験などに深く関わっている暇もなかったんでしょう。ちなみに他の教授の本は非常に難解、煩雑で私にある程度理解出来るのは前田先生の教科書のみでした(講義を受ければまた違うかもしれません。前田先生以外は非常におっかない方ぞろいのようですが。刑事法の教授は元検事、現検事の人などコワイ人が非常に多いです)。
見てわかるように、前田教授は決してバカではありません。司法試験制度を利用して確信犯的に処罰範囲の拡大を図り、権力と密着することでより有能な教授たちより名声を得た世渡り上手です。しかし、以前は捜査機関や権力と対立する存在だった刑法学者が捜査機関や権力の使い走りをしているという現状はこれでいいのか?と思わなくもありません。前田教授の印象深い言葉があります。「どんなに取り繕おうとも、法とは権力維持、秩序安定のための装置である」、という言葉です。ある意味一貫した潔い態度と言えなくもありません。罪刑法定主義に意味はないと言っているのと同じですから。権力の濫用を拘束するための枠が法律という考え方自体が希薄(というか、否定的)なのです。捜査機関や国権は誤りを犯さないという全く根拠のない信頼があるだけで。
こうしてみると、前田教授が様々な規制に積極的なのは極めて当然のように思います。しかし、建前だけとは言え、罪刑法定主義を否定していないはずの教授が単純所持禁止だの、社会的法益に基づく人権制約を安易に認めるのは勇み足といわざるをえないのではないでしょうか。これらは処罰範囲は拡大しないから捜査機関の権限拡大が許されるという教授のお題目すら大きく外れた処罰範囲の爆発的拡大を招く権力の濫用で憲法違反そのものです。前田先生の考えは本人は否定しますが、事実上の行為無価値説ではないでしょうか。
*かなり昔に書いた文章です。私は法律家ではないので理解の浅い部分は多々あると思います。こういう見方もできると言うこと、更にそれを裏書するようなことを前田先生がやっていることも事実ではないでしょうか。ついでに補足しておくと、実質的処罰範囲を決めるのは捜査機関ではなく世論、常識とおっしゃいます。しかし、その「世論、常識」を解釈するのがこの場合捜査機関であるという現実は動きません。実に官僚に都合の良い論理ではないでしょうか。
この件はもっと簡潔に書ける能力がある人がやって欲しいのですね。私の能力ではこの程度が限界です。
私もドイツ流の厳格な罪刑法定主義支持者です。社会の風潮が厳罰化に傾いているのを多少危惧しています。犯罪被害者に光をあてるのは確かに必要なことです。しかし、不必要に復讐感情を煽ったのではないでしょうか。そして、「厳罰化」と「処罰範囲の拡大」は本来は関係が無いはずです。マスコミと警察、検察が組んで厳罰化を煽って実際には処罰範囲の拡大=権限拡大を狙っていたのではないかと。
投稿 ディック九州 | 2010/03/13 12:50
お久しぶりです
私は、厳格な罪刑法定主義を支持しています。
社会的な規範云々より、裁量が入り込む余地がある法律”解釈”は、腐敗の元凶だからです。
例には、枚挙の暇もありません。
ただ、脳裏には常にこの一文が。
「人は自らが犯さぬであろう罪への罰は軽すぎると感じ、自らが犯しがちな罪への罰は重すぎると感じる」
この箴言が書かれた当時から、何も変わったとは思えません。
投稿 | 2010/03/13 05:41