昭和のプロレス。四方山話

発掘した古いネガから思い出話を語る

インタータッグ誕生の謎

スポーツ2010年03月13日 23:20 | フォルダ : 

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昭和の時代、選手権試合というのは特別な響きを持っていた。〝普通の〟試合とはちがう・・・期待にわくわくドキドキしたものだ。
馬場、猪木世代の私にとって、それはシリーズに参加している最強ガイジンレスラーを故馬場さんが迎え撃つインターナショナル選手権であり、No.1とNo.2のガイジンレスラーがタッグを組んで挑戦するインタータッグ選手権だった。
インタータッグ選手権は1966年(昭和41年)11月5日、東京・蔵前国技館でジャイアント馬場、吉村道明組がマイク・パドーシス、フリッツ・フォン・ゲーリング組を破り日本に定着させたタイトルだ。
東京・銀座の松屋デパートで、この試合開催を記念して展示会が催されるぐらい注目されていたようだ。ちなみにアジアタッグはこの当時ベルトではなくトロフィーだった。

 ガイジンチームのカタカナ表記が昭和を感じさせる(笑)
歴代王者は初代がザ・カンガルーズ(アル・コステロとロイ・ヘファーナン)で馬場、吉村組が7代目というのが定説だ。しかし、2~5代目が不明。子供ごころになぜだろうと疑問に感じたものだ。パドーシスとゲーリングは自分たちが誰からベルトを奪ったのかも覚えていなかったのか?

そんな思いはとうの昔に忘れていたが、1966年の海外プロレスのネガを整理していて「オヤッ?」と思ったのがこの写真。

8月5日、ロサンゼルスで撮られたザ・ビジランテス(左から1号、2号)という兄弟マスクマンの写真
これってインタータッグじゃないのか!?
写真のエトキには全オセアニア、オーストラリアチャンピオンベルトとあったが、ベルトについて記事では触れていない。
この兄弟コンビは数試合ロス地区で試合をした後、日本に遠征。日本での第1戦で2号が馬場にマスクを脱がされるという失態を見せ、翌日アジアタッグに挑戦したものの2-0のストレートで敗退して力のなさを露呈した。
約1ヶ月後の9月2日、WWA世界ヘビー級選手権でボボ・ブラジルがバディ・オースチンを破り2人目の黒人王者が誕生(後に認められずに記録から抹消)した日の前座試合で、ロスマットに初登場したのがパドーシスとゲーリングだった。
WWA世界タッグ王者チームのペドロ・モラレス、ルイス・フェルナンデス組を圧倒した2人は、試合後「俺たちはインタータッグ王者だ」と本紙特派員に話した。
そして数日後、再び特派員の直撃に「日本でインタータッグの挑戦を受ける」と宣言した。

左からパドーシスとゲーリング。この2枚の写真を比較すると、どう見ても同じベルトにしか見えない
これは推測になってしまうが・・・もしかしたらビジランテスがインタータッグ王者として日本へ行く可能性もあったのではないだろうか?
しかし、WWA代表のジュリアス・ストロンボーは日本を訪問していて日本マット界の事情を把握していた。ビジランテスは、ロス地区で試合するうちインタータッグ王者としては役不足だと判断されたのではないだろうか?
そしてパドーシス、ゲーリングはそのお眼鏡に適った。
2人は「初代王者のカンガルーズがオーストラリアからアメリカに持ってきたベルト。何百回とタイトルマッチをやって無敵を誇った王座。まわりまわって俺たちの手に入った」と何ともあやふやなことを語っている。
結局のところ、日本プロレスとWWAの密接な関係があったからこそ誕生したタイトルだということが言えるのではないだろうか?
何はともあれ馬場、吉村組から馬場、猪木のBI砲がチャンピオンとなってインタータッグは日本の看板タッグタイトルとなった。
それだけは間違いのない事実。

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