アレン博士の遺品、105年の時を経て韓国へ(下)

アレン博士が撮影した大院君の写真。
 アレン博士はその後、高宗に対し病院設立を提言した。1885年4月9日、延世大セブランス病院の前身、広恵院が開設された。その後、高宗はこの韓国初の西洋式病院を「済衆院」と名付けた。済衆院とは「衆生を救済する家」という意味で、論語の「博施済衆」に由来する。

 ムン会長が今回入手した遺品には、アレン博士が済衆院で使用した、薬をすりつぶすためのすり鉢とすりこぎ棒をはじめ、アレン博士が直接撮影した100年前の南大門や大院君の写真も含まれている。また、米ルーズベルト大統領(当時)が高宗に送ったアレン博士の送還状もあった。

 アレン博士は1905年、米国がフィリピンを支配する代わり、日本は朝鮮に対する独占的な利益を有する、という桂・タフト協定が締結されると、ルーズベルト大統領に対し、「日本に朝鮮を占領させてはならない」と強く反対した。米国は、1882年に締結した米朝修好条約に基づき、朝鮮を見捨ててはならない、と主張したのだ。だがルーズベルト大統領は、抗議するアレン博士を済衆院の院長から解任し、本国への送還状を高宗に送った。ムン会長が入手したルーズベルト大統領の送還状には、「韓国の皇帝へ」「セオドア・ルーズベルトより」という文字が鮮明に残っている。遺品にはさらに、アレン博士が使用したとみられる暖炉やカイロ、アレン博士が故郷に帰った後に書いた2冊の本も含まれている。

 ムン会長がアレン博士の遺品を探し始めたのは2008年末のことだった。ムン会長は「韓国で西洋医学の礎を築いたアレン博士の遺品を今こそ探さなければ、永遠に手に入らないと思い、収集に乗り出した」と話した。ムン会長は、アレン博士の故郷、米オハイオ州トレドを何度も訪れ、地域大学や図書館、博物館で資料を探し回った。しかし、トレドにはアレンという姓を持つ人物が200人以上もいたため、調査は難航した。そうした中、昨年末に日系米国人の川島教授の夫人が、アレン一家の遺品を入手し、保管しているということを知った。川島教授は2年前に他界した。

 ムン会長は「アレン博士が本国に帰国する際に所持していた物は、アレン博士の孫嫁、グラディス・アレン氏の姉妹が保管していた。だが姉妹は1994年、生活苦の末に、遺品を川島教授に譲ったとのことだ」と語った。

キム・シヒョン記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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