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400年の響 水戸開藩記

【水戸黄門の巻 1】ダンディズム

2010年02月16日

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光圀の顔を最もよく表していると言われる木彫面。左から30代、50代、20代=常陸太田市の久昌寺蔵

 水戸を全国的に有名にしている立役者、水戸黄門こと水戸藩主徳川光圀。テレビの「ご老公」の印象が強いが、本当はどんな人だったのだろう。

 まず容姿。光圀の母の菩提(ぼ・だい)を弔う常陸太田市の久昌寺に、20代、30代、50代の光圀の顔を模したといわれる木彫りが残っている。寺の執事の沖鳳一さん(79)は「亡くなった母に顔を見てもらいたい、と光圀が何体か作らせたといわれています。端正な面長ですね」。

 この時代、生きているうちに自分の顔の木彫りを作らせる大名はいなかったといっていい。容姿に相当自信があったことがうかがえる。

 江戸市中では光圀が町を歩けば、町娘がキャーと騒いだ、などと言われている。「若い時は派手で遊び人だったらしいですね」と沖さん。

 光圀の死から1年後に書かれた伝記「桃源遺事」によると、「若いころは江戸市中で美男と騒がれていた。色が白く、目が大きく鼻筋が通り高い、耳が大きい。背が高い(165〜170センチ?)」。こうした表現は、光圀が生前に部下に書くように命じたと想定される。

 江戸時代の多くの大名を研究してきた磯田道史茨城大准教授は「こんな大名めったにいませんね。ある意味ナルシスト。光圀自身が自分をほめてあげたい人だった。こういうふうに残って欲しいという自分を書かせた。うそはないが、政治家の自伝のようなものです」と笑う。

 性格的には、危険やスリルを愛する一面があった。子どものころの趣味は、高い塀の上を全力疾走すること。誰にも負けなかったという。大名屋敷の塀はとても高く、一歩踏み外すと簡単に骨折するし、命を落とす危険もあった。

 江戸時代、光圀の側近が記したとされる「玄桐筆記」には、次のような逸話が残る。光圀がお忍びでうろうろしていた江戸・千住の宿での事件。水戸藩出身の馬引きが地元衆とけんかを始める。「おれは水戸藩の者だ」と馬引きが言ったのを聞いた光圀は、「おれも水戸藩の者だ。味方するぞ」と殿様がけんかに飛び込んでいった。

 周りの人間が止めて事なきを得たが、「自分の藩の人間が恥辱を与えられているのに助けないことがあるか、だからやったんだ」と啖呵(たん・か)を切った。「善悪も聞かず分別のある人のすることではない」と批判された。

 「ついている家臣にしてみれば生きた心地がしないですね。一夜にして白髪になる感じだったと思いますよ」と磯田准教授。殿様が百姓ごときに傷でも負わされたら威光に傷がつく。下手すれば隠居させられ政治力はなくなる。「そういうことを考えず、義侠心(ぎ・きょう・しん)で助けに行く。人からどう見られるかということはとても気にしていた人。光圀がダンディズムを追求していた表れです」
(北崎礼子)

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