野球:「第2の宣銅烈」と呼ばれたキム・ジヌって?
キム・ジヌが日本の独立リーグに進出するとなれば、KIAタイガースを離れてから3年ぶりに公の舞台に立つことになる。
2007年7月にチームを離脱、任意脱退処分を受け、3年近くさまよいながら挫折を味わってきたキム・ジヌは現在、光州でじっくりと体作りに精を出している。
キム・ジヌは一時、米大リーグを夢見て、韓国野球界を支えるだろうという期待を一身に浴びた有望な選手だった。光州・ジンフン高校時代には、時速150キロに達する剛速球や落差の大きいカーブを引っさげ高校野球界を圧倒し、「第2の宣銅烈(ソン・ドンヨル)」と呼ばれた。高校3年生のときは、ロサンゼルス・ドジャースから320万ドル(現在のレートで約2億9000万円、以下同)という破格の条件で入団をオファーされた。キム・ジヌはKIAから2002年の新人ドラフト第1順指名を受け、当時高卒としては最高だった契約金7億ウォン(約5600万円)でプロのユニホームを着た。
入団するやいなや、キム・ジヌは12勝11敗の記録で奪三振王に輝き、KIAの主軸先発投手として一躍スターダムにのし上がった。03年も11勝した。しかし、けがと私生活が足を引っ張った。04年にひざの手術を受け、後半期復帰後は7連勝したものの、私生活で問題を起こした。飲酒暴行やチーム離脱など、トラブルが絶えなかったのだ。球団やチームメートたちとの信頼も急激に崩れた。05年に6勝、06年に10勝を挙げ、再起に成功したかのように見えたが、07年6月に肩のけがとコントロール乱調でスランプに陥りチームを離脱、結局、任意脱退処分を受けた。
その後、キム・ジヌはソウルや光州を行き来しながらも、落ち着き先を見つけることはできなかった。07年11月にジンフン高校に姿を見せ、腰を据えたかのように見えたが、トレーニングしようという気持ちは長続きしなかった。08年にはKIAとの連絡も途切れ、予備役の訓練にも参加しないなど、フラフラし続けた。同年秋、キム・ジヌは再び光州に姿を現し、トレーニングを始めた。当時、KIAは外部コーチを付け、キム・ジヌをサポートしたという。09年初めには警察庁野球団でトレーニング。そこでKIAはキム・ジヌと会い、復帰手続きを話し合う予定まで立てたが、キム・ジヌは約束の場所に現れず、KIAの復帰方針は白紙化された。だが、それからもキム・ジヌは光州を離れず、個人でトレーニングを続けてきた。
キム・ジヌは昨年末、スポーツ朝鮮とのインタビューで、「体で示したい」と真剣にトレーニングしていることをアピールしている。
ノ・ジェヒョン記者
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