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子どもは見ていた:東京大空襲65年/上 孤児になって

 大切な家族も、ささやかな毎日も、一夜にして焼き尽くされた。東京大空襲から10日で65年。空襲は幼い子らまで戦禍に巻き込み、その後の人生も大きく変えてしまった。70代となった今も心や体に深い傷を抱えたままの、当時の子どもたちを訪ねた。

 ◇親亡くし「戦争」始まった 親類の家で働きづめ/燃える母、今も夢に

 10歳だった元木キサ子さん(75)の防空ずきんは、2人の弟とおそろいの桃色だった。

 弁護士だった父は留学経験があり、敬虔(けいけん)なクリスチャン。戦争が始まる前には、本所区(現在の墨田区)の自宅に近所の子どもたちを集めてクリスマス会を開いた。そのお芝居で使った衣装をほどき、母が縫ってくれた防空ずきん。「桃色は目立つでしょ? 迷子になっても分かりやすいからね」と言われたけれど、弟たちには少し恥ずかしかったかもしれない。

 やがて本土空襲が始まり、1944年6月に学童疎開促進要綱が閣議決定された。都市部の防空態勢を強化するには、子どもは足手まといなうえ、次世代の戦力も確保しておかねばならない。「お友達と一緒だから、遠足気分でした」。小さなリュック一つを手に、キサ子さんも親元を離れた。

 翌年3月4日、疎開先の千葉に父が面会に来た。先生の許可が出て、東京に一時帰省した。半年ぶりのわが家。大きな布団を敷き、母と弟たちと4人で寝た。温かかった。

 その6日後。真夜中に母の声で跳び起き、桃色のずきんをかぶり防空壕(ごう)に逃げ込んだ。暗闇で自分の歯がガチガチと鳴る。「早く逃げないと焼け死ぬぞ!」。知らない男の叫び声に驚き、両親が来ないうちにとっさに弟と壕を飛び出した。炎の中を逃げ、気が付くとしっかり手を握っていたはずの弟がいない。

 夜が明け、遺体だらけの町を歩いて公園に着いた。生き残った人たちの中に、弟の桃色のずきんを見つけた。「ヤッちゃん……」。やっと声が出た。寒さも痛みも、何も感じなかった。

 「そこから、生きるための戦争が始まったのです」。両親と下の弟は遺体も見つからず、疎開先で生き残った兄と3人で母の実家に身を寄せた。農家の手伝いにくわえ、一家12人の食事の支度。見よう見まねで水をくみ、かまどに火を起こし、失敗のたびに怒鳴られる。いとこたちが親に甘える姿がうらやましくてたまらなかった。

 戦災孤児となり、人の顔色をうかがいながら生きる毎日。支えてくれたのは生前の父の言葉だ。「いじわるな人にほど親切にしてあげなさい」。麦畑で一人、両親と歌った歌を口ずさんでは泣いた。

 キサ子さんは現在、学校や地域の集まりで空襲体験を語る活動をしている。「一度戦争を始めてしまうと、一生つらい思いをする子をたくさん作ってしまう。そのことを伝えたい」。生徒たちの前に立つ時には、自分で作った桃色の防空ずきんを持っていく。

     □

 B29による首都空襲は3月10日の後も続いた。親を助けられなかった。あの時、自分の判断が間違っていなければ--。14歳だった戸田成正(しげまさ)さん(79)も、キサ子さんと同じ無念を抱えながら生きることになった。

 全盲の母と2人で荒川区に住んでいた。外出する時はいつも自分が手を引いた。「優しくて、柔らかくて」。母の感触を忘れない。

 4月13日も、警報とともに母の手を取った。裏口から大通りに出たとたん、すぐそばに焼夷(しょうい)弾が落ちた。母の体に火がつき、あっという間に広がった。成正さんも火だるまになって意識を失った。

 気が付いた時は病院にいた。一緒に運び込まれた母は亡くなり、遺骨もなかった。

 終戦は養育院で迎えた。毎日が飢えとの闘い。近所の畑で掘り残されたイモをむさぼり、体についたシラミを食べた。やけただれた顔をからかわれて養育院を飛び出し、孤児たちがたむろする上野駅の地下道に身を置いたこともある。防空ずきんで顔のやけどを隠し、人込みに手を差し出す。おにぎりをくれる人もいた。

 必死になって生き抜いた戦後だった。親族を頼って鍛冶(かじ)屋で住み込みで働き、手に職をつけて5人の孫にも恵まれた。それでも「妻や娘たちにも、母が亡くなった時の様子を話すことはできなかった」という。

 3年前に妻が先立ち独り暮らしになった。そのころから夢で時折うなされる。母が目の前で燃えている。子どもの自分はただ、それを見ていることしかできない。【木村葉子】

 ◇学童70万人が疎開

 親類などへの縁故疎開ができない国民学校の3~6年生は、学校ごとに地方の寺や旅館などへ疎開した。45年になると下級生も対象となった。旧内務省の資料によると、44年12月時点で縁故・集団合わせて約70万人の子どもたちが疎開していたとされる。

 10万人以上が犠牲になったとされる東京大空襲では、一家が全滅し、疎開した子だけが生き残った家が少なくない。48年2月の旧厚生省の調査によると、戦災孤児は約3万人、引き揚げ孤児が約1万人。戦災孤児のうち施設に入ったのは4000人ほどで、多くは親せきや知人の家に預けられ、肩身の狭い思いをしたとみられる。

 9歳で孤児となった「戦争孤児の会」世話人代表の金田茉莉さん(74)は「養子に出された子もおり、学童疎開で戦災孤児になった子は4万人以上いただろう」とみる。「虐待や精神的な苦痛を受け自殺した子もいる。孤児であったことをいまだに周囲に打ち明けられずに生きる人は多い」。戦災孤児への国からの補償はない。

毎日新聞 2010年3月8日 東京朝刊

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