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娼妓無念 大阪大空襲65年、花街育ちの男性が語る(1/3ページ)

2010年3月11日

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 第1次大阪大空襲(1945年3月13〜14日)で跡形もなく消えながら、その被災の様子がほとんど語られなかった街がある。大阪で最も古い花街として栄えた「新町遊郭」。犠牲になった女性たちの無残な姿を心に閉じ込めてきた男性が、空襲から65年となる13日、大阪市で体験を語る。

 埼玉県白岡町の徳田勉美(ますみ)さん(76)。母親が戦前から、「裏新町」と呼ばれたかいわい(現在の大阪市西区)で「新美島屋」の屋号の娼家(しょうか)を営んでいた。ステンドグラスの窓が目立つ和洋折衷の3階建ての店は自宅と兼用。10人ほどいた娼妓(しょうぎ)の多くは、但馬(たじま)や北陸の出身だった。

 戦況が悪化した44年3月、政府は劇場やバーなど「高級享楽停止」を命じたが、営業は続いた。「こぼんちゃん(次男)と呼ばれて可愛がってもらった」。なじみ客と外出する娼妓たちの「お供」として同行し、十合(そごう)や大丸の食堂でチキンライスをおごってもらうのが楽しみだった。

 45年3月13日深夜、手伝いの女性の声で目が覚めた。「はよう防空壕(ぼうくうごう)に入りなさい」。屋内に作った狭い防空壕に入ると、いつもトランプ遊びにつきあってくれる娼妓たちや風呂炊きの男衆でいっぱいだった。

 逃げ場をふさぐように市の外側から中心部へと焼夷(しょうい)弾が投下され、新町遊郭も炎に包まれていった。その時、急に母が言った。「おばちゃんのとこ行こ」。徳田さんと兄に防空ずきんをかぶせると、火の粉が降り注ぐ街頭に飛び出し、西成区の叔母宅を目指した。昼間のように明るい四つ橋筋には火だるまになった人が転がり、道頓堀川にはおぼれ死んだ人が浮かんでいた。

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