きょうのコラム「時鐘」 2010年3月13日

 先の富山県立高入試の国語に「自分が黒板になったつもりで」との作文の一例があった。15歳の春の、どんな学校物語が描かれたのか読んでみたい気になった

知人に「横山」という元小学校教師がいる。初任で1年生を迎えた時の話である。黒板に「山」の絵を横向きに描いて「せんせいの名は、よこ、やま、です」と自己紹介した。その時の生徒が30年たっても、黒板の話をするという

「黒板に向かって一回転したと言えば、私の伝記は尽きる」と言ったのは哲学者の西田幾多郎である。学生時代は黒板に向かって座り、教師になってからは黒板を背にして立っていた。そんな一生だったという意味だ

黒板は教育と切り離せないものであり、生徒と先生を結びつける大事な教材である。最近は電子黒板などというハイテク教材が登場し、図面やイラストも自由自在に描ける。先の事業仕分けで普及用予算がカットされたが、いつか黒板に取って代わるだろう

が、ハイテク機器で教師は人生を語り、生徒は恩師を思い出してくれるだろうか。「私は黒板。風前のともしびです」とのつぶやきが聞こえてくる。