2006.10.6
4月4日駿府城内に奇怪な「肉人」が現れる
3月4日近畿の空に四角い月が現れる
4月4日駿府城内に奇怪な「肉人」が現れる
これは“一宵話”という江戸期の随筆に記された出来事です。四角い月は光学的現象で今でも見られることはありますが、気になるのは“奇怪な「肉人」”という記載。いったい、この肉人とはどのような存在だったのか。
まず、一宵話の記述を見てみることに。そこには以下のように述べられている。
神祖、駿河にゐませし御時、或日の朝、御庭に、形は小児の如くにて、肉人ともいふべく、手はありながら、指はなく、指なき手をもて、上を指して立たるものあり。見る人驚き、変化の物ならんと立ちさわげども、いかにとも得とりいろはで、御庭のさうざう敷なりしから、後には御耳へ入れ、如何に取りはからひ申さんと伺うに、人見ぬ所へ逐出しやれと命ぜらる。やがて御城遠き小山の方へおひやれりとぞ。或人、これを聞て、扨も扨もをしき事かな。左右の人たちの不学から、かかる仙薬を君に奉らざりし。此れは、白沢(はくたく)図に出たる、封といふものなり。此れを食すれば、多力になり、武勇もすぐるるよし。【著者:秦鼎 編:牧墨僊(まきぼくせん1775- 1824年)「一宵話・巻之二(異人)」より】
これを要約すれば・・・
神祖徳川家康公が駿府城に居た時の事。ある日の朝、城の庭に子供のように小さく、指の無い手で上を指す「肉人」とでも云うような異様な者が立っていた。それを見た城中の者どもは、その奇怪さに一様に驚き、如何にすべきかがわからず「変化である」と騒ぎ立てるばかりであった。この御庭の騒動に近習は、このことを家康に伝え、どうすればよいかを伺った。家康は、人目につかぬ場所に追い出せばよい」と答えた。(記載はないが、肉人を城から離れた山に連れて行き捨てた、と云われる)
この話を聞いた学者は、“なんとも惜しいことをしたものだ。騒いだ者らの不学ゆえに、仙薬を家康公に奉ることができなかったとは。その「肉人」は白沢図に伝わる「封(ほう)」というもの。これを食せば力が増して武勇が優れると云われるものであったのに”
ということになる。
白沢図とは、中国の伝説の古書であるが、現存していない。したがって封というものもどのような姿形をしているかはわからない。そこでイマジネーションを働かせた江戸人は、これを“ぬつへつほふ”のようなものだと考える。“ぬつへつほふ”とは石燕の百鬼夜行図に登場する妖怪ですが、その姿は以下のようなもの。
左が“石燕”が描いた“ぬつへつほふ”で右が水木しげるが描いた“ぬっぺっぽう”。この国の妖怪の多くはこの石燕の百鬼夜行が集大成を成しているのがわかります。その書には“ぬつへつほふ”について「古寺の軒に一塊の死肉の如くに出現するぬつぺらばふ」とのみ記されているのみ。あとはこの絵を眺めて想像力を膨らませる必要があります。
“ぬつへつほふ(ぬっぺっぽう)”は見たとおり、眼も鼻も口もない。まさに肉の塊のような妖怪。民間伝承として「大晦日の夜に町を彷徨い、腐敗した肉臭を漂わせる」とも云い伝わっています。このために現在では、駿府城の肉人は“ぬつへふほふ”ではないかと語られるようになってしまった、というわけです。“ぬつへつほふ”は後に“ぬっぺりほう”となり、やがて“のっぺらぼう”という進化を遂げることになります。
京都府四条や二条河原に「ぬっぺりほう」とされる怪が出て、こちらは人としての姿で、目、鼻、口がない「のっぺらぼう」。誕生した当初は、まるで肉のスライムのような、捉えどころのない不気味で正体すらわからない存在が、こうして少し人に近付いてやがては怪談話に登場する夜鳴き蕎麦屋の「のっぺらぼう」になっていったのだと想像できます。下は百鬼夜行という食玩の妖怪フィギュアのぬっぺっぽう。で、右側が、水木しげるが生み出した妖怪“百目”です。まるで兄弟のようです。百目の原点は、目も鼻も口も無い“ぬつへふほふ”だったかもしれませんね。
しかし白沢が伝えたという「封(ほう)」とははたしてどのような姿だったのか、非常に興味あります。 そして封を伝えた白沢(はくたく)は中国に伝わる妖怪で「人面に牛の体」を持ち11520の妖怪を知るほどの物知り。様々な知識を人に授けると思われたために、この白沢(はくたく)が、日本で“件(くだん)”という妖怪に変化したのかもしれません。くだん、という名称は漢字の作りからのイマジネーション。人偏と牛で構成される「件」という字を、遊び心ある誰かが白沢(はくたく)と結びつけて“くだん”という妖怪を誕生させたのでは、と僕は思っています。
白沢は中国の想像上の神獣で6本の角と9つの眼を持ち 人語を解する妖怪。徳のある治政者の時に出現し、病魔を防ぐ力があるといわれていますので、江戸期に“くだん”を登場させたのは、徳川の徳を何物かが強調したのかもしれませんね。江戸時代、この白沢の絵を身に着けていれば道中の災難や病気をまぬがれるとされ、旅には必須の "お守り”でした。
最後に夢の無いお話ですが、徳川実記という幕府の正史では慶長四年四月四日の記録に・・・駿府城内の庭に手足に指無き者が襤褸(ぼろ)を纏(まと)い、髪乱れ、佇んでいた。警固の者らが捉えて斬捨てようとしたところ、家康は“何をしたわけでも無し”として、城外へ追い出した・・・とあります。真相は、指を患った乞食だった、ということでしょう。しかしひとつ疑問が残ります。乞食がどのようにして警戒厳重な駿府城内へ入ることができたのか・・・こちらのほうが謎ですね。
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Excerpt: 以前に本屋さんに注文しておいた本が、 一昨日やっと届いた。 小松左京の【くだんのはは】だ。 くだんとは、漢字で件と書く。 人と牛の合わさったもの。 つまり、頭が牛で、身
Weblog: 24.7 バニラ印blog
Tracked: 2006.10.9 21:59:25
鬼ふすべのデカイのではなかったでしょうかね?
絵からにして、鬼ふすべの生えそうな場所ですね。アタシは「鬼ふすべ」が可愛いので好きです♪
肉人つながりで入りました。一宵話の肉人話がそのまま原文で引用されていて嬉しかったです!
同じ事柄が徳川実記とこんなにも違うなんて初めて知りました。
やはり一宵話は創作だったんだなぁ、と(笑)また寄らせていただきます!