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形なすもの<3> 何があっても助ける救命技術向上 あの日の体験が原動力列車事故を想定した訓練。秋冨さん(右)は「日頃の備えが欠かせない」と話す(12日、兵庫県三木市で)=浜井孝幸撮影
3月中旬、米国・サンフランシスコ。秋冨慎司医師(33)は、現地の災害救助隊の訓練施設にいた。コンクリートの 「あの時、こうした方法が使えていれば――」。おびただしい負傷者であふれた脱線事故現場の光景がよみがえる。まだ20代だった医師はそこで、日本で初めて「がれきの下の医療」を実践した。 滋賀県の病院に勤務していた秋冨さんが、救急車を飛ばして現場に着いたのは事故発生の4時間後。マンションの壁にへばりついた車両に、息をのんだ。その2両目で救出された若い女性が、 マンション駐車場に突っ込んだ1両目に生存者が閉じこめられていた。「私が入ります」と上司に告げ、兵庫県災害医療センター(神戸市)の中山伸一医師(54)らと、暗い車内に潜り込んだ。 折り重なった何十人もの体。40度近い熱気、血の 救出作業は難航した。4人いた生存者のうち、一人の声が消えた。翌未明、若者が「お世話になりました。皆さんにありがとうと伝えて下さい」と口にした。中山さんがどなった。「何言ってるんや。何があっても助けたる!」。若者が救出されたのは、事故の22時間後だった。 事故後、救助・救命活動を検証した専門家は「防ぎ得る死はなかった」と結論づけた。だが、秋冨さんらは「もっと多くの人を助けられたのでは」と自問を繰り返した。 2007年、災害救急を担う医師らに呼びかけ、「日本特殊災害救助医療研究会」を設けた。「救助・救命は連携が大切。普段からの意思疎通が不可欠」と考えたからだ。 スキルの向上も必要だ。研究会は同年、消防隊員や警察官らも集め、兵庫県三木市の県防災施設で列車事故などを想定した訓練を始めた。今年1月の訓練には、全国から100人以上が参加した。 秋冨さんは昨春、岩手医科大病院に移ったが、技術を磨くため、自費で海外での研修を重ねる。中山さんは今も同センターの副センター長を務め、各地の研修会などで、あの日の体験を後進医師らに語り続けている。 2両目で救出された女性、鈴木順子さんは今、水泳のリハビリに取り組めるほど奇跡的な回復を遂げた。 今月11日、同県西宮市の自宅を秋冨さんが訪れた。翌日は順子さんの34回目の誕生日。秋冨さんが花束を差し出すと、車いすの順子さんは、かみしめるように「命があるのは当たり前のことじゃない。先生たちがいなければ、私は生きてない」と答えた。 傷は深くても、今日を迎えた人がいる。その事実が何より、秋冨さんに確信を抱かせる。救うべき命がある、と。 (2009年04月23日 読売新聞)
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