岡田克也外相の委嘱で昨年11月27日発足した「いわゆる『密約』問題に関する有識者委員会」は、約3カ月にわたって四つの「密約」に関する外務省内部調査報告書を精査するとともに、独自の資料収集や関係者へのインタビューを通じて検証してきた。外務省の内部調査報告書と、有識者委員会の報告書の要旨をまとめた。(肩書はいずれも当時)
<1>60年安保条約改定時の核持ち込み密約
核搭載艦船の一時寄港に関する密約は、調査対象となった4密約の出発点と位置付けられる。1960年1月の日米安全保障条約改定交渉において、藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日米大使が「討議の記録」という非公表の文書を作成し、これが核搭載艦船の領海通過・寄港を両政府の事前協議の対象から除外する日米間の秘密の了解となっていたのではないかというものである。
「討議の記録」は、核の所在をあいまいにする米国のNCND(核兵器の存在について肯定も否定もしない)政策と反核世論を抱える日本の利害が一致して作成された。核搭載艦船の通過・寄港を事前協議の対象とするかを巡り60年当時詰めた議論はされなかったが、63年の大平正芳外相・ライシャワー駐日米大使以降「暗黙の合意」が徐々に形成され、68年から69年にかけて固まった。「暗黙の合意」は広義の密約と解釈され、それ以降も「核搭載艦船の寄港は事前協議の対象」とうその説明を続けた日本政府の責任が問われる。
藤山外相とマッカーサー駐日米大使とで作成された「討議の記録」の写しと思われる文書2件(英文のみ)が発見された。いずれも60年1月6日付で肉筆でのイニシャルはなく、オリジナル文書の写しと思われる。「討議の記録」によって核搭載艦船の領海通過、寄港を事前協議の対象から除外するとの日米間の認識の一致があったかどうかについては否定する多くの文書が見つかり、むしろ認識の不一致があったということと思われる。
60年改定の日米安保条約に付属する「交換公文」には「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更(中略)は、日本国政府との事前協議の主題とする」とある。核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港が日米の事前協議の対象になるかは「交換公文」の解釈を巡る問題だ。藤山外相とマッカーサー大使による「討議の記録」は、「交換公文」の意味を明確にするためのもので、日米の申し合わせで非公開になった。だがこの記述だけで「密約」の証拠と見るのは難しい。
「討議の記録」の2項Cにある「事前協議は合衆国軍隊とその装備の日本国への配置、合衆国軍用機の飛来、並びに合衆国海軍艦船の日本国の領海への進入や港湾への入港に関する現行の手続きに影響を与えるとは解されない」との記述が、核持ち込みに関する了解との意識は日本側交渉者にはなかった。米政府は核搭載艦船寄港を事前協議の対象外とみなしたようだが、交渉当時、その解釈を日本側に明らかにした形跡はない。
「我方は、総(すべ)ての『持ち込み』(イントロダクション)は、事前協議の対象であるとの立場をとり、艦船航空機の『一時的立ち寄り』について特に議論した記録も記憶もない」(68年1月27日、東郷文彦北米局長のメモ)
安全保障課長として交渉を担った東郷は改定から8年後、外務省内でこう説明している。
マッカーサー大使は、軍の支持を取り付けるために核搭載艦船の寄港問題が重要だと認識したが、問題の微妙さを知り明確に言ったわけではない。日本側も58年7、8月の文書で、核持ち込みの事前協議は「臨時に日本国内に入る船舶及び航空機にも適用がある」と方針を明記し、問題を認識していた。
マッカーサー大使は、真正面から求めれば日本側は拒否せざるを得ないと判断していた。事前協議の内容を詰める責任は制度を要求した日本側にあり、日本が確認しないなら米側は米側の解釈をしていいと判断したのではないか。米国が意向を日本にどう伝えたか明確な記録はないが、マッカーサー大使は後に、核搭載艦船の寄港は事前協議できないことを岸信介首相、藤山外相、山田久就外務次官、東郷安全保障課長らに伝えたと証言している。藤山外相も81年の毎日新聞のインタビューで、マッカーサー大使から交渉中に「核を持っている船の位置はだれにも分からない。言えない」と言われたと述べている。記録に残す詰めた議論はないが示唆は受けたと考えればつじつまは合う。
日本側は米国側の考えに気付き、漠然と希望は伝えたかもしれないが、核搭載艦船の寄港を事前協議の対象にしてほしいと正式に要求することはなく、米側も持ち出さず、議論が詰められなかった構図が浮かぶ。米政府は、艦船、航空機などに積む核兵器の存在を肯定も否定もしないNCND政策を取っていた。一時寄港を事前協議の対象にすればどの米艦船も日本に寄港できなくなり、日米安保が成り立たなくなる。しかし核搭載艦船の寄港に事前協議が必要ないと明確な了解を日本側から取り付けるのは、国内世論の強い反核感情から難しい。米国がはっきり要求すれば安保改定交渉が頓挫する恐れがある。問題を正面から議論するのは難しいとの認識の一致があったと思われる。
あいまいにした場合、国会でどう対応するか政府内で答弁が練られたかを語る資料は見つかっていない。明確な合意がないにもかかわらず赤城宗徳防衛庁長官が、事前協議の対象になる合意があるような答弁をした。
「日米双方にとりそれぞれ政治的軍事的に動きのつかない問題であり、さればこそ米側も我方も深追いせず今日に至った」(同、東郷北米局長のメモ)
互いに「深追いせず」、あいまいなままにしておく。核搭載艦船は事前協議なしに寄港するかもしれず、日本政府はそうなることを表向き否定するかもしれないが、互いに抗議はしない。そういう「暗黙の合意」が安保改定時に出来上がりつつあった。固まるのは、63年4月3日(ママ)の大平外相・ライシャワー大使の会談以降。池田勇人首相が国会で、核搭載艦船の寄港は認めない趣旨の発言をし、米側は危機感を抱いた。ライシャワー大使は会談後、「米国の現在の解釈に完全に沿うことで十分な相互理解に達した」と報告したが、東郷のメモによるとジョンソン駐日米大使は後に「大平大臣は何(いず)れとも見解を述べられなかった」と説明した。大平・ライシャワー会談で重要なことは、解釈の合意ができたことではなく、日本政府が米側の解釈を明確に知らされ、実際に核搭載艦船の事前協議なしの寄港が行われている可能性が高いことを知り、異議を唱えなかったことだ。東郷のメモによると、佐藤栄作首相も64年12月29日にライシャワー大使から伝えられ、異議を唱えなかったらしい。ライシャワー大使以後は、日本側の国会答弁にこだわることなく核搭載艦船の事前協議なしの寄港を続けたと推定される。
しかし政府は「核搭載艦船の寄港は事前協議の対象になる」と国会などで説明を続けた。米側の解釈を知っているから不正直な説明で、「事前協議がないから核兵器が搭載されていない」とは米国に責任転嫁するものと見られても仕方ない。米側と解釈の異なる「討議の記録」は公に説明できず、歴代政府答弁では「ない」と明白なうそをつき続けた。
「日本周辺における外的情勢、或(あるい)は国内における核問題の認識に大きな変動のある如(ごと)き条件が生ずる迄(まで)、現在の立場を続けるの他なし」(同、東郷北米局長のメモ)
このメモは以後、歴代首相、外相らへの説明に使われ、海部政権まで確認できる。68年の非核三原則の導入後も米国との「暗黙の合意」を維持することで固まった。
ただし「暗黙の合意」をさまざまな証言や文書の発見が揺さぶった。74年9月、ラロック退役米海軍少将が「自分の経験では核搭載艦船は日本などに入港する際に核兵器を降ろすことはない」と米議会で証言した。
「重大な政府不信、引いては国内政治の困乱(ママ)を招くおそれ大と認められ、緊急に相当の対策を樹立する必要がある」(74年10月21日、松永信雄条約局長のメモ)
ラロック証言を受け大平蔵相(前外相)は田中角栄首相と諮り、核搭載艦船の寄港、通過を事前協議の対象から外すことを検討。来日したフォード米大統領の理解と協力を求めた。外務省では「核兵器の日本への持ち込み」の概念を明確にし、「単純なわが国の領海(領空)通過及び一時寄港はこれに含まれないことを確定」することに最重点を置き検討したが、12月の田中首相退陣で日の目を見なかった。
81年5月にライシャワー元大使が毎日新聞のインタビューで「核搭載艦船の寄港は核兵器の持ち込みにあたらず、事前協議の対象外というのが米国の理解」と明言。政府は再検討には乗り出さなかったが、説明の不自然さは多くの国民が感じるところとなった。91年、ブッシュ米政権が艦船、飛行機から戦術核の撤去を決定。これにより核搭載艦船の寄港問題は現実の日米関係を悩ます問題でなくなった。90年代には米国公文書の公開により「討議の記録」の存在が指摘された。
日米両政府間には「暗黙の合意」という広義の密約があり、安保改定時に姿をあらわし60年代に固まった。日本政府の説明はうそを含む不正直な説明に終始し、民主主義の原則、国民外交の推進の観点からあってはならない。ただ冷戦下における核抑止戦略の実態と、日本国民の反核感情との間を調整することが容易ではなかった事情を考慮に入れて論じられるべきだろう。
<2>朝鮮半島有事の戦闘作戦行動に関する密約
60年の安保改定交渉で、朝鮮半島有事における米軍の戦闘作戦行動を事前協議なしに認めること等を内容とする非公表の文書(いわゆる「岸ミニット」または「朝鮮覚書」)が存在するのではないかというものである。
今回発見された藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日米大使による「朝鮮議事録」は、朝鮮半島有事に備えて米側から提案。日本側も日本防衛への影響を踏まえて交渉にかかわり、双方が「密約」として認識した。日本国内の「米軍が始めた戦争に日本が巻き込まれる」との安保改定反対論が背景にあった。
しかしこの密約は、69年の沖縄返還合意に伴い、事実上失効した。日本が「沖縄の米軍基地使用も事前協議の対象とする」との方針で交渉に臨み、佐藤栄作首相が事前協議を巡る速やかな態度決定を公に表明したためだ。さらに90年代前半の北朝鮮核危機をきっかけにした日米安保再定義で「過去のものとなった」と有識者委は結論付けた。
藤山外相とマッカーサー駐日米大使とで作成された「第1回安全保障協議委員会のための議事録」(朝鮮議事録)の写しと思われる文書2件(英文のみ)が発見された。いずれも日付は60年1月6日付で肉筆でのイニシャルはなく、オリジナルの写しと思われる。日本側は沖縄返還交渉の際、佐藤首相・ニクソン米大統領の共同声明などで朝鮮有事の際の対応について対外的表明を行うことで本件文書を置き換えることを意図していた。
日米は60年の安保改定の際、「岸・ハーター交換公文」により、在日米軍が日本から行う「戦闘作戦行動」を事前協議の対象とすると合意した。同時に両国は非公開の「朝鮮議事録」により、朝鮮半島有事の際、在日米軍が日本政府と事前協議なしに出撃できると合意したことが今回の調査で確認された。
安保条約改定交渉の開始で岸信介首相はマッカーサー大使らと会談した後、日本側出席者だけの会議で、「日本が現状より以上に戦争に巻き込まれる危険性が増すことは避けなければならぬ」(58年10月4日、「首相、外相、在京米大使会談録」)と強調した。日本側は「米軍が日本以外の極東地域に対する侵略に対処するために(在日米軍)基地を作戦的に使用する場合は日本政府と事前に協議するものとする」(同月2日、「安全保障調整に関する基本方針(案)」)との方針で臨んだ。59年6月26日、両国は「岸・ハーター交換公文」の最終案で合意した。
ところが翌月の会談でマッカーサー大使は、朝鮮半島で共産側が戦闘を再開する場合は普通の作戦とは「別種」の事態になると指摘。朝鮮半島有事に限定して非公開の文書をまとめるよう求めた。
会談でマッカーサー大使が「日本側に事前に協議しなければならないという約束はなし得ない」と事前協議なしで出撃する必要性に言及したのに対し、岸首相は「初めて聞いたが、研究しようではないか」(59年7月6日、「首相、外相、在京米大使会談録」)と応じた。
日本側は(1)秘密文書を残すことは避ける(2)事前協議に関する交換公文の国内的効果が減殺される--との立場で反対。朝鮮議事録をまとめる交渉は難航し、11月後半から連日、藤山外相とマッカーサー大使で続行され、12月23日に合意した。最終案文は60年1月6日、藤山外相とマッカーサー大使がイニシャル署名した。
マッカーサー大使「朝鮮半島では、米軍の軍隊が直ちに日本から軍事戦闘作戦に着手しなければ、国連軍部隊は停戦協定に違反した武力攻撃を撃退できない事態が生じ得る」
藤山外相「緊急事態における例外的措置として、停戦協定の違反による攻撃に対し国連軍の反撃が可能となるように、在日米軍によって直ちに行う必要がある戦闘作戦行動のために日本の施設・区域を使用され得る」(「朝鮮議事録」)
米側は、日本が非自民党政権に交代した場合でも、朝鮮半島有事に備えて約束した文書を交わすことに最後までこだわった可能性がある。日本側にも、朝鮮半島情勢が日本自身の安全にとって緊要であるとの認識があり、結局合意することになったとみられる。74年の米国務省文書も最初に米側から提案した「密約」と認め、日本側交渉当事者及び岸政権も密約の性格を帯びたとの認識を持っていたのは確実である。
沖縄返還に当たり佐藤首相は69年、事前協議で朝鮮半島有事に肯定的に対応すると対外表明することで、朝鮮議事録を置き換えようと考え、米側と交渉した。「主権国家として自国領土よりする戦闘作戦行動には当然協議を受けなくてはならない」との立場からだった。
愛知揆一外相「(首相声明で)事実上事前協議を免除するのと同じことを約束したい」
マイヤー駐日米大使「60年の了解以下のものを受諾するのは難しい」(69年7月17日、「沖縄返還問題に関する愛知大臣、マイヤー米大使会談」)
その後、9月19日に下田武三駐米大使は愛知外相への公電で「共同声明の表現が米側としてほぼ満足すべきものとなりつつあるので、秘密協定はつくらなくてもよいというのが国務省内での大勢である」とのフィン米国務省日本部長の発言を報告。11月21日に佐藤首相とニクソン米大統領の共同声明で「首相は韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要と述べた」と明記。佐藤首相は演説でも「(朝鮮半島有事の際に)日本政府としては事前協議に対し前向きに、すみやかに態度を決定する方針」と述べた。佐藤首相の一方的声明を米側は評価したが、朝鮮議事録の有効性を巡って日米間で明確な決着が付けられることはなかった。
日本の首相が先の態度を表明した後、米側が事前協議なしの基地使用を図ることは考えられず、朝鮮議事録は事実上失効したと見てよい。97年の日米防衛協力のための指針(ガイドライン)、99年の周辺事態法など日米同盟関係が緊密化されたことに伴い、事実上、朝鮮議事録は過去のものになった。
毎日新聞 2010年3月10日 東京朝刊