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気仙坂

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続・平氏の末裔「渋谷嘉助」M
☆★☆★2010年03月10日付

 渋谷嘉助は明治、大正期の立志伝中の人であった。
 財界人として成功し巨万の富を築き、それを広く社会救済事業に還元した。
 その渋谷嘉助の徳行をたたえる顕彰碑が、郷里の千葉県香取郡中村(現多古町)と大船渡湾の珊琥島の2カ所に建立されている。
 珊琥島にある顕彰碑は、大正期まで島の面積の大半を所有していた渋谷嘉助が、島を挟んで向かい合う当時の大船渡村と赤崎村に対して島を寄付し、それに感謝した両村が建てたものである。
 渋谷嘉助は渋谷鉱業を創業し、明治期に大船渡湾に面した赤崎の弁天山で石灰石の採掘事業を始めていたが、その当時から大船渡湾は我が国屈指の大石灰山があり、東北の要津といわれた。
 産出される石灰石は良質で、渋谷嘉助がこの石灰石の採掘事業を始めてから両村は並々ならぬ恩恵を受けていたという。
 それに加えて珊琥島まで寄付した。しかも、寄付した理由の1つが湾内の漁場紛争を憂い、対立していた両村民の融和を願って行ったものであり、渋谷嘉助の願いを知った両村民の感謝の気持ちは計り知れないものがあったと思われる。
 渋谷嘉助は名勝である珊琥島を私有物のままにしておくことをせずに、両村の共有にして、東北唯一の海上公園にしようと多額の設備費をも添えて寄付したのであった。
 近代日本となったそのころから国内でも公園が一般民衆の憩いの場として必要な施設として整備され始めるようになっていた。
 大正15年4月27日、珊琥島で渋谷嘉助を顕彰して協同公園命名式と建碑除幕式が行われた。
 公園名の「協同」は、本県出身の伯爵後藤新平に依頼して命名されたもので、碑の題額の協同の2文字を揮毫したのも後藤新平であった。碑の文章を書いたのは文豪と呼ばれた朝比奈知泉、碑文を揮毫した齋藤芳州は書の大家であった。
 調べていくうちに当日の式典の様子がわかってきた。
 式典には、渋谷嘉助本人、渋谷鉱業2代目社長の渋谷今助、専務の岡本作富郎、渋谷嘉助の養子で大船渡セメント会社取締役などを務めた渋谷澄、碑文を書いた朝比奈知泉、気仙郡長の吉田新九郎、大船渡村村長の佐藤文助、赤崎村村長の金野良一郎らが列席した。
 式の当日に記念撮影した貴重な写真を、赤崎町の金野良平さんが所蔵していた。
 「協同」と刻まれた大きな石碑の前で参列者参が正装して並んで写っており、セピア色となった写真からは式典の重々しさや盛大さが伝わってくる。
 赤崎村長を当時務めた金野良一郎は、金野さんの祖父で、式典の際に撮った写真が同家に数枚残されており、渋谷嘉助が珊琥島を寄付したことについて、「長老たちから大きな紛争が当時あったことや、珊琥島を中心にして仲良くするようにと島を寄付されたという話を聞いている」という。
 渋谷嘉助の恩をながく伝える顕彰碑の除幕式には、両村民200余人が参列して行われた。
 シルクハットをかぶり洋装で列席した紳士、渋谷嘉助の姿がそこにあった。(ゆ)

残された時間の過ごし方
☆★☆★2010年03月09日付

 若い頃はその日、その日を過ごすこと以外に考えなかった。将来設計を立てて、目標にきちんと向かうといった強い意志、動機を持っていればそんな無為な過ごし方もしなかっただろうが、日々これ面白おかしく暮らせたらそれでいいという怠け者には、日中は長く、逆にアフターファイブ(退勤後)は短く思えたものだ。実際に飲みに出かけたものなら「午前様」は当たり前で、1次会で帰るというのは大体、仲間内だと「沽券にかかわる」問題であった。
 だが、すべてが萎えてやがて還暦を迎えるようになるとさすが考えるようになる。いや、じたばたしても事態がどう変わるというものではないことを先刻承知の上で、「第2の人生」の身の振り方といったものがちらつきだすのである。「親の意見と冷や酒は後から効く」というが、長い伝統の上に築かれてきた社会哲学というか、人生訓というか「べき論」がなるほどと思えてくるのである。「失敗を恐れず挑戦すべき」とか「苦労は買ってでもすべき」といったもろもろの「べき」を無視し続けてきたツケの重さをようやく自覚するようになった証拠であろうか。
 しかし習い性となっている怠惰な生活がある日突然に激変するわけがない。だからこそ、相変わらず無為のまま月日が過ぎ、いつの間にか還暦が遠い昔のできごととなって、次なる道標の古稀が目前に迫ってきているのだった。こうなると改めて「残された」歳月との付き合い方をいやでも考えざるを得なくなってくる。
 「余生という考えはやめよう。新しい人生の始まりと思うべきだ」といった人生観は、高齢化社会となった今だからこそ当然のように受けとめられているが、かっては「あと何年生きられるか」という文字通り「余生」という考え方が支配的であり、だからこそ最大の関心事は健康そのことだったと思う。今でも何をするにもまず健康という基本に変わりはないが、高齢になっても夢を追うというライフスタイルが「いい歳をして」と一概に否定されなくなったのは、社会もそれだけ成熟してきた証であろう。
 恥ずかしながら、第2の人生をどう過ごすかといささかでも考えるようになったのは、いくら頑張ってももがいても愚生に与えられた「残り時間」はせいぜい20年プラスアルファだという事実が、年を追うごとに現実味を帯びてきているからだろう。
 何かをなすのに20年という歳月は長いのか短いのか?それは、人間だとオギャーと生まれて成人するまでの期間である。そしてわが身を顧みると成人までの間に何かを成し遂げたという覚えがない。その意味では短い。だが、それは自分が確固たる目的、目標というものを持ち合わせていなかった結果であろう。たとえば芸事や習い事を考えた場合、20年あればかなり目鼻がつくのではないか。
 ここで問われるのは「20年もある」のか「20年しかない」のかだが、問題はそのスパンではなく、その内容であろう。つまりその期間をどれだけ充実させるかでなかろうか。
 だがそれよりも大事なことは、老後を過ごすという意識ではなく、もう1度少年、青年に立ち返ったような気分に自分を引き戻すことではないかと考える。つまり過去を1度ご破算、リセットし、心の中に清新を横溢させるということである。でなければ、今後の20年は現在の単なる延長に堕しかねない。そう思って古稀から小学1年生に戻ることにした。今はその準備期間である。(英)

「日本アカデミー賞」に思う
☆★☆★2010年03月07日付

 毎年この時期は、前年公開された映画の賞レースがピークを迎える。映画好きにとっては、非常に気になる時期である。
 5日には、本場・アメリカよりひと足早く「第33回日本アカデミー賞」の表彰式が行われた。事前に発表された優秀賞の中から最も優れた作品、監督、俳優らが決まった。
 作品賞、監督賞にノミネートされたのは、「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜」(根岸吉太郎監督)「沈まぬ太陽」(若松節朗監督)「ゼロの焦点」(犬童一心監督)「劔岳 点の記」(木村大作監督)「ディア・ドクター」(西川美和監督)。主演、助演賞も作品賞候補作の出演者を中心に、幅広い演技者がそろった。
 候補作のうち、「劔岳〜」は惜しくも見逃したが、ほかの4作品は観賞済み。主演、助演の各賞も好きな俳優や名演技を残した人が多く、例年になくドキドキしながらテレビ中継に見入った。
 全作品を見ていないので説得力に欠けるが、5本の候補作からは日本らしさを感じる作品ばかり≠ニいう印象を抱いた。
 「ヴィヨンの妻〜」「ゼロの焦点」は日本文学で愛され続ける太宰治、松本清張の作品を映像化。昭和20〜30年代の日本のたたずまいを現代によみがえらせた。
 「沈まぬ太陽」も山崎豊子のベストセラー大作を映画化。不屈の精神で巨大組織に立ち向かう主人公からは、戦後経済を発展させた日本人の勤勉さを失ってはいけないと感じさせられた。「ディア・ドクター」は、小さな村にいた唯一の医者が実は偽物だったという物語から、過疎地域における医師不足の問題を浮かび上がらせた。
 「劔岳〜」は未見だが、予告編や表彰式のインタビューからは、日本の自然が持つ厳しさや美しさを妥協せずに描いた姿勢がうかがわれた。5本とも、日本だからこそできた作品≠ニ感じた。
 観賞した4作品の中で、筆者が最も好きなのは「ゼロの焦点」。原作に独自のエピソードを加えたストーリー展開は面白く、雪の金沢を舞台にした演技派女優たちの競演は、いまだ強烈に心に焼き付いている。
 次点は「ヴィヨンの妻〜」。表題作を含む太宰(8面の「トークアイ」でも取り上げてます)の諸作品を織り交ぜ、酒と女におぼれる夫と、それを献身的に支える妻の姿を描いた。だらしなく、優柔不断な夫に「男ってバカだな」と思わせつつ、「やっぱり女もバカだ(でも、どうしようもない男を放っておけない時点でバカなのかも)」と実感させられる展開。さらには女のしたたかさやずぶとさもしっかり描いており、好感が持てたのだ。
 表彰式にあたり、筆者は既報の映画賞を参考に予想や期待をしていた。しかし、ふたを開けてみると「意外。でも結局こうなのか」というむずがゆい結果となった。
 予想通りは、主演女優の松たか子のみ。助演男優は大好きな瑛太にとってほしい…でも三浦友和か…と思っていたが、香川照之が選ばれた。同女優も迫真の演技を見せた中谷美紀に…と願ったものの、余貴美子が2年連続の受賞。しかし、納得できる選考だった。
 主演男優では、「沈まぬ太陽」で自ら出演を希望し、熱演した渡辺謙が受賞した。でも、個人的には「ディア・ドクター」で偽医者を演じた笑福亭鶴瓶にあげたかった。資格なしでの医療行為は大きな罪ではあるが、彼が演じるとどうしても憎めない。だからこそ、背景にある問題がより身近に感じられる。観賞後、「鶴瓶あってこその作品だ」としみじみ思っただけに、残念だった。
 そして作品賞。主演男優の結果を踏まえ、これは「ディア・ドクター」がイケるか≠ニ期待したものの、「沈まぬ太陽」に軍配。「劔岳〜」が監督賞など最多6部門に輝き、筆者お気に入りの「ゼロの焦点」は無冠に終わった。
 表彰式では最後、特別ゲストで鳩山由紀夫首相が登場した。しかし、多忙で候補作を見られない方を呼ぶのはいかがなものか。それならば、候補者、受賞者らのインタビューを延ばしてほしかったと思うのは、筆者だけだろうか?(佳)

謝罪のタイミングとは
☆★☆★2010年03月06日付

 工期延長、工事費増となった新大船渡魚市場。議会と市当局のやりとりの中で、個人的に1つの注目点があった。当局側は議場や研修会など一連の説明の場で、明確な謝罪の言葉は示さなかった。
 議員と市当局の間には、感情的な衝突が見えていた。誰に原因、責任があるのかを明確化し、謝罪の言葉を引き出したい議員側の思惑も感じられた。
 市側は「ご心配をおかけした」とは語ったが、その言葉に続く謝罪はなかった。もし市当局が「申し訳ありません」などと頭を下げれば、何時間に及ぶ説明よりも納得のスピードが速かったのではないか、そんなことを考えた。
 確かに、むやみに謝る必要はないのかもしれない。想定外の事態が相次ぎ、判断を誤った人間もいないのかもしれない。ならば「不可抗力」である点をもっと丁寧に、分かりやすく示すべきだった。
 市当局が謝罪を避け、説明を重ねた道は間違いではないし、むしろ真実につながっていると思う。だが、そこで納得してもらうには、長時間を要することを覚悟し、議員の質問にも忠実に答えられる準備をした上で、という条件をもっと深く認識すべきだった。
 全議員を対象とした議論は公式では3回、計8時間にわたり行われた。市側が選んだ道はそれでもまだ、全員納得というゴールには届かない遠距離のものだった。
 謝れば、批判や責任は市に向けられる。しかし、市は新たな工法とそれに基づく6カ月の工期延長という対策を議会に示していた。魚市場が完成することが第一であり、重要な点はその対策だった。不安を与えたことをまず謝罪した上で新工法を示していたら、議員の感情はどうだったろうか。
 今回は市と県の共同事業だが、市が主体的な役割を担っている。事業を取りまとめる役割として、結果的に当初の契約内容では難しくなったことを、素直に謝ることも1つの選択肢であったと思う。
 まず、謝罪をする。しかし逆に、謝罪先行に違和感を抱いた対応もあった。気象庁はチリ大地震に伴う大津波警報を出した予測について「過大だった」と謝罪した。
 住民は長時間にわたる避難や警戒を強いられた。詫びたくなる気象庁も、そうさせたくなる国民世論も理解できる。ただ、気象庁の発表によって自治体は1秒を争う対応を迫られ、産業活動も大きな影響を受ける現実がある。
 日ごろ気象庁にとって、国民との信頼が重要となる。謝罪よりも、気象庁はこれだけのデータに基づいて発表したというメッセージを強調することが、より今後の防災に生かされるのではないか。
 津波発生時に絶対的な影響力を持つ気象庁が、発表に至った経緯を丁寧に説明しないまま謝罪したことは、信頼に亀裂を生じかねない。例えば、今後避難を訴える説得力に影響も及ぼしかねない。
 そもそも、一連の対応で、記者会見の発表姿勢が気になった。1秒を争う行動が重要とされる中、会見が生放送され、注目されるのは当然である。にもかかわらず、コメント内容は分かりにくく、国民向けのメッセージを的確に発信しているとは言い難かった。
 どのタイミングで謝罪すべきか、答えはその問題ごとに異なる。ただ、謝罪とその先にある対策は、1つのセットだという認識が重要ではないだろうか。
 謝罪だけでは、無責任さや軽さが残る。逆に対策があるなら、受け入れてもらえるよう相手への配慮も込めた形で謝罪する方法も、誠意を示す選択肢の1つとなる。
 ミスや想定外の事態はどこでも、誰でも起こりうる。謝罪姿勢1つで、信用失墜というミス以上の損害を生むことがあれば、逆に好感を持たれることもある。
 謝罪は難しいと、つくづく思う。でも、だからこそ逃げたり、逆に簡単に使ってもいけない。2つの対応から、1つの教訓が浮かびあがるような気がする。(壮)

「大津波」に思わされた
☆★☆★2010年03月05日付

 妻の入院が長引き、2歳の娘ともども実家にやっかいになりながら生活している。一家3人の核家族から臨時にランクアップし、にぎやかに過ごす日々が続いている。
 娘は日中保育所に行き、帰宅後はめいやおいと楽しく遊んでいるが、日数がたつにつれ、夜布団に入ってまどろんでくると、「おうちに帰る」とぐずるようになってきた。
 娘にとってはたとえ借家であっても、わが家こそ「おうち」なのだ。「じゃあ、いったん戻ろうか」と話していた矢先、チリで大地震が発生。初めて本県も対象となった大津波警報が発表された。波高1〜3bとの到達予想を聞き、浸水想定区域に入っているわが家に引き返すわけにもいかず、娘のお願いを先送りにさせてもらうことにした。
 1960年のチリ地震津波の悪夢から半世紀。本県初の大津波警報とあって当紙は休刊日発行に踏み切った。全社員に招集がかかり、こちらも「家のことは大丈夫だから」と送り出してもらい、1日だけ本来の住田町担当から外れて津波関連の取材にあたった。
 到達予想時刻が午後1時30分ということで、朝方の各地の漁港では資材などの搬送を急ぐ漁家の姿があり、商店は午前中のうちに次々と臨時休業の張り紙を出した。
 国道45号や340号の幹線道路でも1部通行止め、JR、県交通バスなども運行を見合わせた。年中無休で24時間営業のコンビニエンスストアが閉店しているのを初めて見た。町全体がシンと静まり、ヘリコプターやサイレンの音だけが響いていた。
 昭和35年5月の「チリ地震津波」では、最大で6bの津波が三陸沿岸を中心に襲い、大船渡市で53人の犠牲者を出すなど、全国の死者・行方不明者は142人に達している。
 体験者からその惨状について聞いたり、映像で目にするなど当時をある程度知る機会はあっただけに、いざ自分が直面し、いまから起こるであろうことを想像してみると、かなりの恐ろしさをおぼえた。
 カメラを持って海が見える小高い場所に位置どり、津波の到達を待った。「あの時は波というより水かさが増える感じだった」。近くには同じように海を見つめる経験者の人たちがいて、そんな話を聞かせてくれた。
 しかし、待ちかまえていた場所では予想時刻になってからもその後1時間ほども大きな変動は確認できずに移動。結局はサイドニュースのみを携えて帰社することになった。
 紙面製作が終わって帰宅したのは結構な時間になっていたが、娘は家族と一緒に起きていて、「抱っこ」と言って駆け寄ってきた。様子を聞くに大きな泣き声を上げることもあったようだが、この日は「おうちに帰る」とは言わず夢の国に直行。幼子を抱えながらも災害時に家を離れる仕事をできるのは、ふだんは離れて暮らしていながらも支えてくれる家族あってこそと、改めて実感させられる機会でもあった。
 さて、今回の津波、カキやホタテ、ワカメなど養殖漁業へ甚大なダメージをもたらした一方で、人的被害がなかったのは幸いだったといっていいだろう。
 すべての津波注意報解除後、最大3bという予測について、気象庁は「過大だった」と謝罪した。予報に対して、実際は最大1b余り。第1波は予報に対して少し遅れてやって来た。
 素人のこちらにはこうした情報の精度をどれほど高められるか把握できるすべはない。多くの生命、財産にかかわる予報なだけに正確であるにこしたことはないが、過小であるよりはるかにまともな数字で、謝罪に至ったことこそ「過大」な対応ではなかったのではないかとの印象をぬぐえないでいる。(弘)

政治の風向き
☆★☆★2010年03月04日付

 政権交代後、初めてとなる参院選が今夏執行される。当初は「昨夏の衆院選同様、民主党が多数の議席を占め、衆参両院で単独過半数が得られるだろう」とみられていたが、ここに来て同党に追い風だった風向きが徐々に変わりつつあるようだ。「政治は一寸先が闇」と例えられるように、「単独与党」の実現に暗雲が立ちこめ始めている。
 というのも、先ごろ行われた長崎県知事選挙と東京都町田市長選挙の結果、どちらの選挙も与党である民主党が推薦する候補者が野党の自民・公明両党が推薦、あるいは支援する候補者に敗れた。
 特に長崎県と言えば、先の衆院選で民主党が県内の全四選挙区で勝利した土地柄=B参院選も前回、前々回と民主党が議席を獲得するなど、岩手と並ぶ「民主王国」として知られている。その中で、長崎県民が民主党に突きつけた選挙結果は、「警告」を意味するイエローカードであり、鳩山政権に強烈なボディーブローとなった。
 今知事選で最も印象的だったのは、負けた民主党の選挙参謀が「政権交代は『幻想』だった」とため息を漏らした光景だったが、この選挙結果は鳩山首相と民主党の小沢幹事長の「政治とカネ」に関する一連の問題が大きく影響していたことは容易に察しがつく。
 鳩山首相は母親から7年間で約12億6000万円もの資金提供を受けながら申告せず、東京地検による元秘書らの起訴を受けて昨年末に約5億7500万円を納付した。しかし、所得税の確定申告が行われていているこの時期、先頭に立って公正な納税を呼びかけなければならない鳩山首相が「税金逃れ」をしていたことは、決して許されるべきことではないだろう。
 一方、小沢幹事長は自らの資金管理団体「陸山会」による土地購入をめぐる問題で、政治資金規正法に盛り込まれている収支報告書への虚偽記載で元秘書ら3人が起訴されたにもかかわらず、本人は嫌疑不十分で不起訴となった。起訴された元秘書のうち、衆院議員の石川知裕被告は離党したが、小沢幹事長は引き続き幹事長職を続けている。
 今回の民主党トップ2による不祥事≠ヘ、「ブルータス、お前もか」といった声が世論からわき上がっているが、自民党政権下でも、政治とカネにまつわる問題がたびたび取りざたされた。そのたびに「知らなかった」「秘書がやったこと」といった内容の国会答弁が繰り返され、国民は政治への不信感を募らせた。その結果、有権者が自民党に突きつけたのが政権交代というレッドカードだったはずである。
 ちなみに、県がまとめた平成19年度市町村民所得推計によると、35市町村(合併前の川井村含む)別の1人当たり所得は、トップが金ケ崎町の360万円で飛び抜けており、以下の34市町村は300円未満。気仙では大船渡市が205万円(15位)、陸前高田市が173万円(29位)、住田町が186万円(20位)。
 これらの数字を見ると、母親から1億円以上のこづかい≠もらったり、自宅に億単位の大金をたんす貯金≠オていた政治家に、所得が100万円台という庶民の気持ちや生活の苦しみが果たして分かるのだろうかと疑問に思えてくる。
 イエローカードは2枚で「即、退場」となる。今夏の参院選で、有権者は民主党政権にどのような審判を下すのか大変興味深い。さらに、影響力は未知数だが、最近になって自民党の舛添要一前厚生労働相が党派を超えた政界再編に意欲を見せ始めている。今後も天下分け目の夏の陣≠ノ向けた国会議員の動向に目が離せない。(鵜)

自衛の意識を高めよう
☆★☆★2010年03月03日付

自衛の意識を高めよう

 日本時間の27日午後3時30分過ぎに発生したチリ東部沿岸地震による遠隔地津波は、大船渡市が最大の被災地となったチリ地震津波の恐怖を蘇らせた。最大で3bの津波が押し寄せるとの警報に、50年前の悪夢を思い出した人も多かっただろう。
 5年前の1月、この気仙坂で『稲むらの火』という物語を取り上げた。原作は、1854年に安政南海地震津波が発生した際、紀伊国広村(現・和歌山県広川町)で起こった故事をもとにラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が書いた『生ける神』という短編。この作品を読んで感銘を受けた和歌山県の小学校教師・中井常蔵氏が国語教材として創作したもので、昭和12年から昭和22年まで国定教科書(尋常小学校5年生用)に掲載された。
 主人公は、紀州、房州、江戸で手広く醤油製造業を営んでいた浜口家の7代目当主で、勝海舟や福沢諭吉とも親交のあった幕末の英傑・浜口梧陵をモデルとした五兵衛。村の高台に住む庄屋の五兵衛は、今までに経験したことのない不気味な揺れを感じたあと、海の波が沖へ沖へと動いていくのを見て津波の来襲を察知した。
 そして、祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、松明を手に走り出し、自分の大切な財産である稲むらに次々と火を放った。「もったいないが、これで村中の命が救える」。五兵衛は、天を焦がすほどに燃え上がった火で急を知らせ、荒れ狂う津波から村人たちの命を守った―。
 この作品を再度取り上げたのは、沿岸住民の防災意識について、改めて考えてみるべきと思ったからだ。
 今回のチリ東部沿岸地震では、県内沿岸12市町村すべてが「避難指示」を出した。
 県のまとめによると、避難対象住民は合わせて8万2291人。このうち、実際に避難したのは7000人(28日午後4時現在)で、避難率はわずか8・5%だった。
 本県で初の大津波警報。しかも「避難勧告」より緊急度が高く、被害の危険性が切迫した時に発令される「避難指示」だったにもかかわらず、避難率は1割にも満たなかった。気仙両市の避難率は大船渡市が14・1%、陸前高田市が22・9%といずれも平均を上回ったが、決して高い数字とはいえない。
 警報発令から津波到達予想時刻まで時間があり、テレビなどで得た情報で自己判断して自宅にとどまった人が多かったのか。ちょうど日曜日で、買い物やレジャーに出かけ、地元を離れていた住民が数多くいたのか。行政は、対象住民の多くがなぜ指示に従わず、避難しなかったのかを調査するとともに、避難指示の伝達方法や情報提供体制が住民の避難行動を促すのに十分なものだっだかのを検証する必要がある。
 今後10年以内での発生確率が70%程度、30年以内では99%と予想されている宮城県沖地震が発生した場合、本県沿岸での津波による死者は、最悪で1000人に達する可能性があることが県の調査で明らかになっている。近い将来、必ず来ることが分かっているのだから、沿岸住民も行政側からの対策だけに頼らず、自己責任として防災に向き合っていかなければならないだろう。
 不朽の防災教材として、『稲むらの火』は、今も高く評価されている。その火が照らす防災の原点は「人命が何よりもまさる」ということだ。自然の力の前に無力なわれわれは、先人の教えを謙虚に学び、防災の意義を明確にして自衛の意識を高めていくべきではないか。(一)

50周年の招かれざる客
☆★☆★2010年03月02日付

 まさか生涯の間に二度もチリ地震津波を体験するとは思わなかった。前回の襲来が昭和35年(1960)だからまさに「50周年」を記念してのおでましというわけである。招かれざる客だが、前回のように大きな被害をもたらさなかったのがせめての仁義だろうか。
 チリで大地震発生と聞いて、いやでも50年前のことを即座に思い起こさせられた。しかも津波発生の可能性大という。しかしこの50年間、歳月がムダに流れていなかったことだけは確かだ。前回はわが国の津波予知態勢が不備なこともあって、外国の地震が津波に発展、それが日本まで輸出≠ウれようなどと誰も考えていなかったから、不意討ちされてそれが被害を甚大にしたのだ。しかし、それ以後舶来≠フ津波というものが認知されるようになったのはこの津波の功績≠ゥ。
 というのは正しくない。外国から津波が襲来することは過去の記録にあること、時代の経験則などから研究者たちは知っていた。しかしチリ発≠ェハワイを経由して日本に到達するという「方程式」が当時は確立されていなかったというか、津波とは輸出入されるものという認識自体が薄れてしまって気象庁に徹底していなかったようである。
 「津波だ、津波だ」という叫び声が早暁の周囲から上がり、それを耳にした父が2階まで駆け上がってきて叩き起こされ、まさに取るものも取りあえず一家4人で高台目指して懸命に走ったのがあの日だった。
 眼下に広がる襲来のシーンは、とてもこの世のものとは思われず、巨大なシネマスコープ映画を見ているようだった。ものすごい勢いで潮が引き、カキ筏が湾口の方に流されていく。海水がなくなった海底というものを見ることは2度とあるまいが、それは次に襲い来る波の衝撃を予告するに十分だった。
 といってもサーフィンの大波のように波頭をもたげ、蹴立てて打ち寄せるというイメージではなく、地下から水が湧いてくるように水かさがどんどん増して来るという表現の方がぴったりだろうか。
 しかし土台を吟味することなどしなかった当時の木造家屋を持ち上げるには、水かさの増大だけで十分だった。浮き上がった家がぶつかり合い、流木やらありとあらゆる浮遊物が海面を埋め尽くした。屋根の上に上って助けを求める人の姿を認めてもどうすることもできない。悲惨で凄絶を極める光景だった。
 押し寄せた波が一転して引く時は、陸から流れ落ちる濁流でさながら瀑布と化した。初めて見る津波のすさまじいエネルギーの前に誰もがうちのめされ、言葉を失った。当方が17歳の春のことである。
 前日から発生が予知され、翌日の到達時間も予測できたから2度目の体験者たちも今回は比較的冷静でいられたろう。少なくとも命を奪われるおそれはない。心配するとすればその破壊力だ。これだけは相手の行為を見守るしかない。
 しかし、南鳥島で10aの波と聞いた段階で、これは警報通りの大津波にはなるまいと判断した。こういう時、素人は楽観的判断をする。しかし、結果は激甚災害にこそならなかったものの、養殖施設などの被害は決して軽微ではない。天災の恐ろしさは時間の経過と共に増すものだ。
 さて、東北太平洋岸を震源とする大地震が遠からず発生すると予想されているが、その大地震をもたらす大ナマズがこの津波に虚をつかれて戦意を喪失してくれればいいものだ。さすが連発≠ヘ気が引けると。(英)

受け継がれる意志
☆★☆★2010年02月28日付

 本日7面にもある通り、大船渡中学校の応援歌が復活した。たまたま取材にあたった私は、15年前の大中卒業生。現場では、記事に盛り込めきれなかった感激があり、こうして余談として書き記しておきたいと思った次第だ。
 しかし「復活」も何も、応援歌が歌い継がれずにいたとは知らなかった。確か入学と同時に校歌ともども習ったはずだから、一体どんな経緯を辿って途絶えたのか検討もつかない。教員らの中にも詳しい状況を知る人はいなくなっていた。
 復活宣言≠フ場となったのは、各学年ごとの目標や課題と、取り組みについて発表する「生活向上記念集会」。毎年2月26日に行われるため「2・26集会」とも呼ばれる。何やら歴史的事件が起こりそうな名称だが、今年は文字通り、この集会で新たな歴史≠ェ誕生したのだ。
 生徒たちは伝統の応援歌をよみがえらせただけでなく、さらに新しい応援歌まで生み出した。「今までの大中生と僕たちの引き継いできたものを、後輩たちにもずっと継いでいってほしい」と話す3年生の姿を、下級生たちも真っ直ぐな眼差しで見つめていた。
 それにしても彼らにはよほど最上級生の貫禄があった。「さすが3年は大人だね!」と、まだ自分の半分しか生きていない子らを見て思わされた。それも、ただ「わきまえている」からとは違う。
 自分たちの美点を、恥ずかしがらずに正面からきちんと表現できるのは、大人の証拠だと思う。思春期の「子ども」であれば、多少なりともハスに構えたり、頑張ることを恥ずかしいと感じるものだろう。そうしたところがない。
 「次は3年生の発表をお願いします」と司会者に言われると、全員が声の限り「ハイ!」「お願いします!」と返事をする。全員でだ。普通は学年の代表なりが応えて発表するものだろうに、これを自主的に(しかも実に楽しげに)やっているのだからすごい団結力だ。
 そしてその歌声たるや。「これが大中生の魂です」という思いが全体からわき上がり、体育館の天井まで届きそうに見えた。心が一つになるとはこういうことか、と思える、圧巻の発表だった。「うわー!この場にいられて良かった!!」と涙をこらえるのが難しかったほどだ。
 集会最後の講評で、ある教諭が「3年生には心がある」と述べていた。現3年は「素直で向上心があり、人の良い点を認められる生徒たちだ」と先生から聞かされた通り、下級生の取り組み発表の途中で、自然発生的に大きな拍手が起きたのも彼らからだった。
 1・2年生は、生活面での課題や悪い点を挙げ、その改善策に取り組んだ様子を発表したが、3年生は自らの良い面をいかに伸ばすかに重点を置いた。彼らは「この学年が誇れること」として「あいさつ」「合唱」「笑顔」など思いつく限りのキーワードを挙げ、それらの長所を後輩にどうやったら引き継げるか熟考した結果、「応援歌の復活」を選んだのだ。
 本来、取材者としてはあるまじきことなのだろうが、3年生全員の集合写真を撮影をしたあと、つい感極まって叫ばせてもらった。
 「私は大中OGです。皆さん、伝統を復活させてくれてありがとう!新しい応援歌をありがとう!本当に感激しました。素晴らしい歌声だった。卒業生として皆さんを誇りに思います!」
 もちろん、復活には同校同窓会員らの尽力があったのは言うまでもない。中には存在する4曲ともスラスラ歌える人がいたという。
 試しに同級生や知り合いの大中OBらに「応援歌が途絶えてたんだってよ」と話すと、「えっ何それ!」と一概に驚く。そして「応援歌ってあれだよね、♪黒潮千里を友として〜ってやつ」と、どれか1つは歌ってみせるのである。
 卒業後10数年の我々だけなく、数10年たっても忘れ得ない。これが校歌なり応援歌なのであり、「確かにそこで青春時代を送った」という証明なのだ。(里)

東北夏祭りネット
☆★☆★2010年02月27日付

 中学生の頃だったろうか。担任の先生に何度も聞かされた言葉がある。「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」。おそらく「ボォ〜としていると、あっという間に高校入試が来てしまうよ」という意味合いの話だったと思う。
 あれから40年余。平成22年も気がつけば、もう2カ月が過ぎようとしている。時が経つのは早い。「ボォ〜」としてばかりはいられない。もう、すでに今年の夏祭りに向けて動き出しているグループもいるというのに。
 今月15日、東北6県の県庁所在地で開催されている夏祭り団体と商工会議所が連携し、一体となって盛り上げを図っていこうと「東北夏祭りネットワーク」が結成された。
 報道各紙によると、東北各県を横断した形で、祭り振興のためのネットワークが組織されるのは初めてという。今後、共同キャンペーンの展開や受け入れ態勢の充実などを検討し、東北全体の観光の底上げに結びつけていく考えだ。
 この話を聞いて、第一印象は「8月に集中している東北6大祭りが連携して誘客合戦したら、日程的に重なる地方の夏祭りなど埋没してしまうのでは」という心配。それと同時に「これをただ指をくわえて見ているという手はない、乗り遅れてはならん」との思いにかられた。
 ネットワークに参加したのは、「青森ねぶた祭」「盛岡さんさ踊り」「仙台七夕まつり」「秋田竿灯まつり」「山形花笠まつり」「福島わらじまつり」の東北を代表する6つの夏祭り主催団体と、各都市商工会議所だ。そのスケールはもちろん、知名度、誘客力は群を抜く。
 ところが、これらの夏祭りは、毎年8月1〜8日のほぼ同時期に開催される。祭り日程が重なりがちな東北では、相互にライバル関係が続いてきた。近年は、アジアを中心とした海外からの観光客が、これらの祭りをハシゴ≠キるツアーも増えているという。
 ネットワークの結成は、東北六県が一体となって祭りをPRすることで、さらなる観光誘致に結びつけるネライがある。これまでバラバラだった首都圏へのPRを6県合同で仕掛けたり、旅行会社に夏祭り周遊ツアーを売り込むという攻めの姿勢は、時機を得たものといえる。
 日銀仙台支店の調査によると、近年、レジャーの多様化で全体の観光客は右肩下がり。主流の東北3大祭りでさえ、この5年間で入り込み数が1割近く落ち込んでおり、単独での誘客に限界が見えてきていることや、今冬には六県すべての県庁所在地が新幹線で結ばれ、観光地をめぐるニーズが高まるということも、背景にありそうだ。
 ネット事業としては、夏まつりに関する様々な連携事業を行う。ポスターやチラシに各祭りを互いに紹介しあうことや、ホームページでの連携、東北運輸局をはじめ、関係自治体、東北観光推進機構、観光・交通関連団体、報道機関などとの連携を図っていくことなどが盛り込まれている。
 注目されるのは、今後の対応。「順次参加の範囲を広げ、他の商工会議所や地域などの夏祭りや、他の季節のまつりにも呼びかけたい」としている。この「他」に含まれる気仙の夏まつり、地域活性化イベントが、どのような形でネットワークに参入、あるいは独自路線をアピールするか、気仙観光の大きなターニングポイントとなるのではと、思いをめぐらしている。
 今回の東北祭りネットの結成は、規模の違いはあるにせよ、これは気仙夏祭りネットワークの問題でもあるように感じられた。日帰りではなく、宿泊を促すのにはどうするか、週末に偏りがちな日程をどう調整するかなど、課題は山積みだ。
 まずは、可能な協力態勢を探ったうえで、夏まつりイベントはもちろん、周遊コースの提案、花見客、季節の祭り、最近とくにクローズアップされている食のイベントなどに結びつけていくのか。より関係を密にし、魅力を高め合うことが大事だ。これは、気仙2市1町にも求められている課題といえる。(孝)


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