鋳物
鋳物の歴史桑名の鋳物の歴史は古く、 江戸時代の初期には文献に現れてきます。
関ヶ原の戦いが終り、 本多忠勝が桑名藩主に任ぜられ(1600年)桑名築城を始めたころです。 当時、 桑名は11万石の城下町で広瀬、辻内の両家が鋳物業をおこない、 仏眼院の銅鐘(1659年)や春日神社前の青銅大鳥居 (1667年)は現存しており、 桑名の鋳物の歴史を象徴するものです。
江戸時代の鋳物師は朝廷の許可がなければ、 開業、家業継承が出来なかったため、広瀬、辻内家以外には、桑名に鋳物師(3軒)がいた記録がなく、 製品は銅合金により銅釜類を主とする日用品、農具や寺の梵鐘等でした。
桑名の鋳物が地場産業として形成されていったのは明治以後といえます。 明治15年頃には、始めて鋳物用銑鉄やコークスが輸入され、 明治20年頃には焼型にかわる生型造型が採用され、 鋳物の量産方法が一般化されました。
国内の需要も増加し、 工場も明治20年には10工場、大正の終りには37工場になり、 桑名が鋳物産地として知られるようになっていきました。 その頃の製品は先進地である大阪市と川口市が機械鋳物を製造していましたが、 桑名では機械鋳物に比べると日用品が特徴でした。
生型造型で最初につくられたのが、 柱時計のリン台や振り子でした。 その他に、 焚口、釜輪、コンロ、五徳、ガスバーナーなどがありました。
大正5年頃、木炭アイロンも製造され、第2次世界大戦まで代表的な輸出品でした。
大正9年には鋳物問屋が創業され、販路は全国的に広がりました。
昭和の始めにはストーブや輸出用のフライパンなどもつくられましたが、 戦争により輸出は途絶え、また、不要不急のものは製造禁止となり、 桑名のように日用品を主として製造していたところは大打撃を受けました。
昭和16年、戦争開始時50社に達していた工場は、昭和20年の終戦時には38工場になってしまいました。 しかし、 戦後の桑名の鋳物業の復興は、ミシン、氷削機、すき焼き鍋、ガス器具など日用品の製造から始まり、新技術を導入し、 合理化が徹底され、次第に戦前とは比べものにならないほどの規模となり今日に至っております。
現在桑名の 鋳物工場は約34社、 1,300名以上の人が従事し、製品も多種にわたり、 日用品用以外にマンホール、グレーティングなど土木建築用、産業機械器具用、電動機器用等の鋳物製品が造られ、 伝統的な梵鐘造りも連綿と受け継がれ、桑名市で造られた吊り鐘は、遠く海外へも輸出されています。
そして製品出荷額は約394億円(平成14年)と全国でも有数の産地を形成しています。 |