稲田悦子姉(昭16年高女卒)ご逝去

 
 
日本人最年少の12歳で五輪に出場された稲田悦子姉が、平成15年7月8日、胃がんのため、お亡くなりになりました。 享年79歳。葬儀は、11日に、東京都中央区・築地本願寺にてしめやかにとり行われました。 
 「日本のフィギアスケート界のまさに先駆者的な存在」と久永勝一郎・日本スケート連盟会長の弔辞の中でその功績をたたえられました。


稲田悦子さんを偲んで

 私達は昭和12年春、梅花女学校に入学し教室では皆、姓で呼びあっていましたので「稲田さん」でした。1年花組、この日から机を並べて5年間の青春を過ごしました。
 受け持ちは数学の小林松枝先生で少し遅れて入学してきた稲田さんを紹介されて「この人はフィギアスケートの選手なので練習や試合のために時々、欠席や早退をすることがあります。そんな時は周りの人たちでノートを見せてあげたり貸してあげたりして助けてあげて下さい。」とおっしゃいました。
 暫くすると稲田さんは午前中で帰えられたり午後も、殊に冬は早退なさることが多くなりました。オリンピックを目指して練習に励まれたのでしょう。いつもちょっと特徴のある落ち着いた低い声で「お先に失礼します。ノートよろしく」と言って静かに一礼しさっさと帰られました。
         ―中略―
 今から考えると12,3歳で学校とスケートの両立は肉体的にも精神的にもどんなに大変だったろうと頭が下がります。その内時々「スケートを見に来て」とチケットを下さり初めて主人と拝見しました。銀色に煌煌と輝く広いリンク一杯に、スカートを翻しながらすごいスピードで滑りまわりスピンしたりジャンプをする姿に目を見張りました。
 引退後は、カメラマンをしていられたご主人様と千葉の海辺のマンションで、朝日夕日を窓辺に見ながら仲良く優雅なご生活を過ごされていました。ご自分のことよりご主人様の御体のことを細々とご心配された御やさしい御気持ちの溢れた御手紙は、今でも私の手元に残っています。今は稲田さんは穏やかな永遠の眠りにつかれ、ご主人を愛情込めて暖かく御見守りのことでしょう。
 貴方が私達に下さった深く暖かい友情は私たちの尊い宝物です。貴方のことは決して忘れません。永久の御眠りのうえに幸多かれと深い感謝と共にお祈り申し上げます。  合掌

                                昭16高女   伊東渥子 (旧姓 笹川)

           ◎東京在住の伊東渥子姉より、思い出を寄せていただきました。

創立120周年記念同窓会 祝賀会 (茨木キャンパス) 1997年10月10日
稲田悦子姉(中央)を囲んで
写真は、川島美津子姉(昭16高女)より提供していただきました。



 当時、稲田姉と同じスケートリンクで、練習された藤井喜久子姉(昭和20年A高女・昭和23年専被卒)に、まことに貴重な写真をご提供していただきました。 
 また稲田姉との思い出も掲載させていただき、ここに厚くお礼申し上げます。

左端が藤井喜久子(垣内)姉 中央が稲田悦子姉

 

 私が昭和15年4月梅花高等女学校に入学した時、5年生に稲田悦子姉が在籍されていました。 その頃、12才という年少でオリンピックに出場されたアイス・スケートの女王的存在だったと記憶しております。 1年生の冬、1年生のみにスケート班(今のクラブ)の募集があり約40名が参加しました。
  女学校でスケート班を作る事は珍しかったのか写真入りで新聞に載りました。週1回放課後、千日前の旧歌舞伎座屋上の 小さい方のアイスリングを貸し切りで練習が始まりました。少しずつ、上達して楽しくなった頃、大東亜戦争が始まり何時まで練習していたか、 はっきり覚えておりませんが、私個人としては、創立百周年の同窓会祝会の折、ロイヤルホテルにて、 又、創立百二十周年祝会が、大学(茨木キャンパス)で、ありました折、お目にかかりました。 
折りにふれ、新聞等で皇室の方々に指導されている記事を読みご活躍をなつかしく思っておりました。

昭和20年A高女・ 昭和23年専被卒   藤井喜久子 (旧姓 垣内)