日本が冬季オリンピックで初めてメダルを獲得するのは、1956年の第7回コルチナ・ダンペッツオ冬季大会(イタリア)である。スキー・アルペン回転で初のメダリスト(銀メダル)となったのが、現在IOC(国際オリンピック委員会)の副会長・猪谷千春である。
その時の金メダリストは、アルペン種目三冠王になったトニー・ザイラー。その後映画界でも活躍したスキーヤーである。今回は、日本の女子選手として冬季オリンピックに初参加したフィギュアスケートの稲田悦子の話をしよう。
1936年、第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会(ドイツ)が2月6日から2月16日にかけて開催された。舌を噛みそうな名前であるが、ガルミッシュ村とパルテンキルヘン村で開催されたため、このような大会名となった。また、当時は夏のオリンピックを開催する国が冬のオリンピックも開催するという慣習があった。この時の夏の大会は第11回ベルリン大会である。
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第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会
のフィギュアスケートの選手たち。
右から2人目が稲田選手
(写真提供:秩父宮スポーツ博物館)
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日本は、冬季オリンピックには第2回1928年サンモリッツ大会から参加するが、女子選手が参加するのは第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会からである。1940年には、ベルリン大会に続いて東京で第12回大会を開催することになっており、また、冬季大会も札幌で第5回大会を開催する予定であった。しかし両大会とも日中戦争、第2次世界大戦のあおりを喰って中止となる。であるから、第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会は、戦前最後のオリンピックでもあった訳である。
フィギュアスケート選手であった稲田悦子の話をするのには、これくらいの前置きがないと理解されないかもしれない。稲田悦子は、日本女子選手として初の冬季大会への参加を果たした。前述したとおり第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会への参加である。しかも12歳という最年少での参加であった。パリでしつらえた、白く今でも光沢を放つコスチュームに身をつつみ銀盤を舞った。他の外国人選手の中でも、もっとも若く、もっとも背が小さい稲田悦子の登場であった。
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秩父宮スポーツ博物館に展示される
デレゲーションユニフォーム(左)と、
競技に着用したコスチューム
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第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会
に参加当時の稲田選手
(写真提供:秩父宮スポーツ博物館)
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その中には、第2・3・4回大会と金メダルを獲得したソニア・へニー(その後プロに転向し、映画にも出演した銀盤の女王)も出場している。稲田悦子は10位の成績をおさめ、次の第5回札幌大会ではメダル間違いなしといわれていた。しかし、札幌大会は開催されなかった。冬季大会が開催されるのは、ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会から12年後の第5回サンモリッツ冬季大会(スイス)のことである。
日本は第2次世界大戦を巻き起こした国ということで、第5回サンモリッツ冬季大会にはドイツとともに参加を許されなかった。日本が再び冬季大会に参加するのは1952年の第6回オスロ冬季大会からである。稲田悦子も28歳という歳になっていた。
生前、何回か稲田悦子とお会いできる機会があった。東京・青山でブティックを開いていただけあって、ご高齢であったがオシャレで、チャキチャキしたおばさまであった。
お会いした当時、秩父宮スポーツ博物館の前にある神宮スケート場で子供たちにフィギュアスケートを教え、その教え子たちとご一緒に当館に展示しているシルクのコスチュームとデレゲーションユニホームをご覧になりながら、歯に衣着せぬ痛烈なお話を伺ったことを今でも昨日のように思い出す。
来年は北イタリアのトリノで冬季大会が開催される。
日本のフィギュアスケート陣は男女とも世界で活躍している。今回のオリンピックではフィギュアスケートがブレイクしそうだ。稲田悦子さんを想いながら、トリノでの活躍を期待したい。
第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会について

1936年に開催されたガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会は、4競技17種目が実施され28の国と地域から668名の代表選手を迎えた。日本からは48名(役員14名、男子選手33名、女子選手1名)が参加した。もちろん1名の女子選手は、稲田悦子選手である。
Photo: Getty Images/AFLO
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