歴史とロマンの町 大野町へ行こう!

セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

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サングラスをかけた弘法大師・大智院

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大智院は、「めがね弘法」の名で広く知られています。
150年前の安政年間の頃に、盲目の老翁が身代大師に一心におすがりしたら目が見えるようになりました。大師の像に今もかかっている眼鏡は、そのときの老翁が寄進した眼鏡だそうです。
それ以来、目の病に御利益があるということで、参拝者が絶えません。

毎月第二日曜日には、「めがね弘法」の縁日が行われ、また、十月の第四日曜日の大祭には、先見粥がふるまわれます。

金照山大智院:知多四国71番/本尊 聖観世音菩薩・馬頭観世音菩薩/真言宗智山派/創建 文明2年(1470)/開基 聖徳太子/知多市南粕谷本町1-196/0569-42-0909

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400年以上続いてる伝統行事「大野谷虫供養」

大野を中心とした一帯で「大野谷虫供養」という400年もの歴史をもつ行事があります。
当初は「刀供養」と呼ばれ戦国時代に滅亡した佐治氏の霊を慰めたものでしたが、やがて、駆除した生物の霊を慰め、五穀豊穣・家内安全を祈願したものになりました。
この伝統行事は、道場での供養・お阿弥陀さんの巡回・彼岸大法要の三大行事からなるもので、大野谷13か村が持ち回りで行ない、道場供養は毎年12月15日から翌年の1月15日まで、当番地区に道場が設けられ、阿弥陀如来などの掛軸が懸けられます。今年は羽根地区が担当です。昭和58年には県指定無形民俗文化財に登録されました。
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(左)虫供養道場ののぼり (右)町中に張り巡らされる善の綱

虫供養の年当番
子(ねずみ)北粕谷/丑(うし)矢田/寅(とら)大興寺/卯(うさぎ)西之口/辰(たつ)上げ・松原/巳(へび)南粕谷/午(うま)小倉/未(ひつじ)宮山・石瀬/申(さる)榎戸/酉(とり)権現/戌(いぬ)大草/亥(いのしし)羽根

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茉奈・佳奈ちゃん、大野町に来る!

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テレビ愛知の情報番組「遊びに行こ!」が大野町にやって来ました。
当ブログでも紹介したきょう屋・津多屋・樂游館(らくゆうくわん)等を撮影。
ナビゲーターはあの双子姉妹の茉奈・佳奈ちゃん。きょう屋の井上さんが大野を案内しました。
1月27日18時半〜19時に放送されるそうです。乞うご期待!

思いっきり私事ですが、茉奈・佳奈ちゃんに握手してもらいました。

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広く展示紹介されている「大野鍛冶」

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「大野鍛冶」は、県下では、豊橋の「吉田鍛冶」と共に有名です。
鎌倉時代、近江国からここ大野に移り住んだのが最初とされています。
最初は鐙(あぶみ)鍔(つば)を作っていたそうですが、農工具を主体に作るようになりました。
江戸時代には、大野を中心に知多半島に185軒もの大野鍛冶がいました。
大野鍛冶の特徴は「出鍛冶」であったことで、三河や美濃そして信州まで出かけて鍛冶をやっていました。

東海市の愛知製鋼「鍛造技術の館」知多市歴史民俗博物館名古屋市博物館で「大野鍛冶」についての展示があります。

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中世のタイムカプセル「神明文庫」

西之口神明社(西之口8丁目)境内に「神明文庫」という土蔵があります。
「文庫」とは、今で言う「図書館」のことで、蔵書等を保管する所です。
宝暦3年、大野の浜島伝右衛門によって開設されました。
その後、神社へ奉納という形で、地元を始め、内海・名古屋・四日市などからも書物の寄進があり、現在、後漢書などの千冊以上の書物や文化財的価値の高い三十六歌仙の歌仙奉額があります。
神明文庫
「神明文庫」、地元では「御文庫」と呼ばれている。
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西之口 「神明社」

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催す!大野町きょう屋

以前にも紹介した、町屋造りの「大野町きょう屋」は催し物いっぱい。
コンサートやギャラリーを精力的に行っています。
きょう屋の女主人・井上恭子さんは、大野町の特徴を生かした「古民家再生」という形でのまちおこしに頑張っています。
馬頭琴コンサート

万華鏡

井上恭子

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前衛作家「久野豊彦」執筆の地の「洞仙寺」

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作家であり大学教授である「久野豊彦」は、大正末から昭和初頭にかけて文壇・論壇で活躍し、「新感覚的表現」として川端康成に評価され、注目を浴びました。
昭和初期、名古屋生れの彼は、少年時代から親しんでいた大野や新舞子の海に訪れては小説を執筆したそうです。
昭和7年に書いた「紅い蟹の櫛」の中にある半島の海寺とは、大野町の洞仙寺のことです。
彼はここに寄寓し、盛んに前衛的小説を書き、同じ新興芸術派の龍膽寺雄・吉行エイスケらの小説家たちも、彼を訪ねて、この洞仙寺に訪れました。
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久野豊彦:1896(明治29)名古屋市東区白壁生れ。1923(大正12)慶大卒後、同人雑誌『葡萄園』に次々と実験的小説を発表。日本大学教授時代には芸術学部創設。1932(昭和7)、『時事新報』に連載した長編経済小説『人生特急』は単行本刊行後直ちに発禁処分となる。しだいに文壇から遠ざかり、1944(昭和19)大野町に隠棲。昭和30年頃大草へ。晩年は名古屋商科大学教授として図書館長、商学科長を歴任。1971(昭和46)没

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「うだつ」の上がる平野家

うだつ

「うだつ(卯建・梲)」とは、建物の外側に張り出して設けた防火用の袖壁(そでかべ)のことです。
「うだつが上がる」というのは、棟上げをする意の大工言葉から転じて志を得る意となり、「うだつが上がらない」=ぱっとしないという意味になりました。
大野町では、この貴重な「うだつ」はもうここ一軒しか現存しません。

この平野家は、1598年(慶長3年)、腫れ物に悩んでいた尾張国清洲城主の松平忠吉(家康の四男秀忠の弟・幼名福松丸)が家来の注進により、治療のため大野の潮湯治にこられ投宿されました。やがて病も治り、その後、この大野に家来共々、潮湯治に訪れるようになったという書簡が残っています。(1607年没の忠吉は嗣子なく、弟義直が尾張藩主に。彼が清洲城から名古屋城に移転したのは周知の通り)

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