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     日米密約に関する有識者委員会報告書の詳報は次の通り。

     【密約の定義】

     かつての秘密協定には公表部分と秘密部分があった。秘密部分は国民に知らされておらず、かつ公表されている合意や了解とは異なる重要な内容を持つものである。これは「狭義の密約」と言うことができる。当然、合意内容を記した文書が存在する。

     また明確な文書による合意でなく、暗黙の合意や了解があるが、やはり公表されている合意などと異なる重要な内容を持つものがある。これは「広義の密約」と言うことができる。報告書は狭義だけでなく広義の密約も対象とする。

     【核持ち込み】

     日米は1960年の日米安全保障条約改定時に、事前協議の対象について「米軍装備における重要な変更」とした交換公文を交わした。「艦船」「寄港」「核兵器」との文言は含んでいないが、日本政府は核搭載艦船の一時寄港(核持ち込み)に関し「事前協議の対象になる」と答弁した。ここに問題の核心がある。

     交換公文に関する了解事項は「討議の記録」(秘密議事録)の名で文書化され、60年1月6日、藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日米大使がイニシャルで署名。その存在は間接的に知られていたが、今回コピーと考えられる文書が見つかった。

     文書は、交換公文が指摘する事前協議の対象について「核兵器および中・長距離ミサイルの日本国内への持ち込み並びにそれらの兵器のための基地建設を意味すると理解される」としている。

     問題は、この「持ち込み」に核艦船寄港が含まれるかどうかだ。ライシャワー駐日米大使は63年4月、大平正芳外相に「持ち込みに当たらない」と伝えたが、日米が条約改定交渉の際、そうした解釈で合意したわけではない。

     日本側の交渉者たちは米国側の考え方に気付きつつ、事前協議の対象にしてほしいと正式に要求することはなく、米国側もこの問題を正面から持ち出さなかった。それゆえ日米間で議論が詰められなかったという構図が浮かび上がってくる。

     米政府は艦船、航空機などに積む核兵器について肯定も否定もしない「NCND」政策をとっていた。この政策を変えずに核艦船の寄港を事前協議の対象とすればどの艦船も寄港できなくなったはずだ。事前協議が必要ないという了解を取り付けようとしても、日本は強い反核世論から受け入れるのが難しく、安保条約改定交渉が挫折する恐れがあった。

     他方、日本側は安保改定が目指す「相互性」は米軍の日本防衛協力と日本の基地提供の交換に基づくものなので、基地使用を大きく制限することは難しい。事前協議は使用を制限する仕組みで、核武装部隊の日本駐留以外のものまで協議の対象にするのは無理があると判断したのではないか。

     以上の点から、問題を正面から議論するのは難しいということに双方の認識の一致があったと思われる。

     日米は互いに「深追いせず」、問題をあいまいなままにしておく。その結果、核艦船は事前協議なしに日本に寄港するかもしれず、また日本政府は表向き否定するかもしれないが、互いに抗議しない。そういう暗黙の合意が安保改定時にできあがりつつあったと見てよいだろう。

     その暗黙の合意が固まるのは、63年4月の「大平・ライシャワー会談」以降だ。「核弾頭を持った船は日本に寄港してはもらわない」とした63年3月の池田勇人首相の発言は米政府に危機感を抱かせた。ライシャワー駐日米大使は大平正芳外相に「寄港は事前協議の対象外」との米側の考え方を伝えた。翌64年12月には佐藤栄作首相にもひそかに伝えた。

     しかし、60年代の戦術核兵器の発展、73年の横須賀の空母ミッドウェー「母港化」といった軍事環境の変化により事前協議と核艦船の取り扱いの問題がスポットライトを浴びる機会が増えた。そこに67年からは佐藤栄作首相が表明した「非核三原則」も加わり、日本政府は(公にならないよう協力することに意思の一致があった)「暗黙の合意」に頼るしかなくなっていった。

     68年1月、牛場信彦外務事務次官、東郷文彦北米局長とジョンソン駐日大使が会談し、米側の解釈を確認した。

     「外的情勢」か「核問題の認識」に大きな変化がなければ、いまのままでいくしかない。日本政府の対応は以後、「暗黙の維持」で固まった。確認できるところでは佐藤政権から宇野政権まで首相や外相に説明したとの記述がある。

     74年9月、ラロック退役米海軍少将が核艦船寄港を証言。この後、日本政府は核艦船寄港を事前協議の対象から外すことを公に認める可能性を検討。大平蔵相が積極的で「(核持ち込みに)日本の領海(領空)通過および一時寄港は含まれないことを確定」することに最重点を置き、田中角栄首相と諮り、11月のフォード米大統領来日後、臨時国会で決着させる方針を立てた。だが、12月に田中内閣が総辞職し、後を継いだ三木内閣は「従来通りの線で対処」する旨を米政府に連絡し、密約は今日まで残った。

     この「密約」問題に関する政府の説明はうそを含む不正直な説明に終始したが、その責任と反省は、冷戦下における核抑止戦略の実態と日本国民の反核感情との間を調整することが容易でなかったという事情を考慮に入れるべきだろう。

     「核持ち込み」問題の処理で外務省の調査チームが言う日米間の認識の不一致があったというわけではない。

     【朝鮮半島有事】

     日米両国は60年の安保改定時に、在日米軍基地から出撃する米軍の戦闘作戦行動を事前協議対象とすることで合意した。それと同時に、非公開の「朝鮮議事録」により、朝鮮半島有事の際、事前協議なしに在日米軍が出撃できると日米が合意していたことを調査で確認した。

     藤山外相とマッカーサー駐日米大使の会談内容を記録した議事録のコピーとみられる60年1月6日付の2文書と、草案の5文書が見つかった。

     議事録では、藤山氏が岸信介首相の許可を得た上で「緊急時の例外措置として、米軍によって日本の施設・区域を使用され得る」と表明したが、岸首相は60年4月に「米軍が日本の基地を使用し、作戦行動をする場合、すべて事前協議の対象となる」と国会答弁した。しかし、議事録は事前協議の免除を主張してきた米側の要望を秘密裏に認めた内容で、日本側が密約の性格を帯びた文書であるとの認識を持っていたのは確実だ。

     日本側は69年の沖縄返還交渉期に議事録の失効を求め、米国側は懸念を示した。日本側は対立を表面化させないため、佐藤首相が演説で「事前協議に前向き、速やかに態度を決定する」と一方的に表明するにとどめ、米政府はこれを評価した。

     議事録の失効をめぐり日米間で明確な決着がつけられることはなかった。だが、こうした首相の態度表明の後に事前協議なしの基地使用は考えにくく、議事録は事実上失効したとみてよい。

     北朝鮮の核開発をめぐる94年の朝鮮半島危機の際、米国は佐藤演説に沿って日米が実際に事前協議しようとしたとの報道があり、97年の日米防衛協力新指針、99年の周辺事態法などが成立。こうした日米同盟の緊密化に伴い、議事録は事実上、過去のものになった。

     【沖縄核再持ち込み】

     沖縄返還を決めた69年11月の日米首脳会談で、佐藤首相とニクソン大統領に有事の沖縄への核再持ち込みを認める秘密合意があったとされる。09年12月に佐藤家から両首脳が署名した合意議事録が発見され、存在自体も実証的に裏付けられる可能性が出てきた。だが、調査では議事録や関連資料は外務省内で発見されなかった。外務省は議事録作成に関与していなかったとみられる。

     69年11月の佐藤・ニクソン共同声明では第8項に「事前協議制度に関する米政府の立場を害することなく」と盛り込まれた。米側が有事の核持ち込みに「秘密の保証」を要請、緊急時には(非核三原則にかかわらず)日本政府がただちに協議に応じることを共同声明で示そうとしたものだ。

     合意議事録は、共同声明を大きく超える(日本の)負担を約束したとは言えず、必ずしも密約とは言えない。秘密合意は、佐藤内閣の後継内閣を拘束していない。佐藤首相自身が交渉開始前から「秘密了解」に慎重で議事録を私蔵し、引き継いだ節がないからだ。

     議事録の意義は根拠となる資料が不足している。米側は、政府内の合意取り付けに必要だと言っていたし、予定通りに佐藤・ニクソン会談が実現できなかったかもしれない。

     佐藤首相の密使として、キッシンジャー大統領補佐官とともに議事録作成に携わった若泉敬氏の役割は否定できない。ニクソン氏の意向が佐藤氏に届いた意義は大きい。

     【沖縄「肩代わり」】

     71年6月に調印した沖縄返還協定で、米政府は軍用地の原状回復補償費に関し「自発的に支払う」とした。だが米側はこれ以上の財政支出をしないと米議会に説明していたため、交渉過程では議会の説得が困難だと主張。そのため、日本側が「肩代わり」することになったとされる。

     交渉の際、米側は「自発的支払いの財源(400万ドル)は日本側が負担とする」とした愛知揆一外相から駐日米大使への「不公表書簡」を要求。米側は「議会との関係で公開せざる得ない場合も皆無ではない」としたのに対し、日本政府は難色を示した。結局「かかる文書の必要なしとの結論に達した」と、書簡の発出は見合わせた。

     返還協定調印直前の71年6月12日、吉野文六外務省アメリカ局長は書簡に代わるものとして非公表の「議論の要約」を作成し、イニシャルで署名。「(返還協定に基づいて支払う)3億2千万ドルのうち400万ドルが留保されることを日本が予期している」とした。

     「議論の要約」は日本側が400万ドルを支払うと約束したのではなく、米側の取る行動を日本側が了解するという文言で確認したにすぎない。事務当局レベルのもので、米側に渡されていたが、作成と署名を愛知外相ら政府首脳が認識していたか疑わしい。日米両政府を拘束する内容ではなく「狭義の密約」には当たらない。

     しかし、日米間には補償費の財源を日本側が負担することに加え、財源400万ドルを含む計2千万ドルを当初の日本側支払い総額の3億ドルに追加するという了解・合意があったことを確認。了解・合意は非公表扱いで明確に文書化されていないが、両政府の財政処理を制約するもので「広義の密約」に該当する。

     「本土並み」や早期返還の実現という要請の中で不透明な処理を余儀なくされた。調査がこうした清濁併せ持った返還交渉の苦闘の歴史を検証し、正確に伝えていく努力の一歩となれば幸いだ。

     【文書管理と公開】

     「討議の記録」「朝鮮議事録」などは永久保存すべきだったが、主管課は文書課(現総務課)に引き継がず、コピー作成の上で廃棄したか、まったく手元に置かずに廃棄した可能性がある。

     討議の記録に関する対米交渉は、当然あるべき議事録、電報が不自然に欠落し、交渉経緯を示す文書も存在せず、十分に復元できなかった。遺憾だ。規定に照らせば、文書を作成しても文書課が引き継がない限り保存されない。

     戦前の日本、対日交渉記録を詳細に残している米国と比べても「記録を作成し保存する」との意識に欠けていた。当面は公表がはばかられる内容でも、将来へ公的記録を残すことの重要性を指摘したい。

     文書公開に遅れが目立つ。30年を経過した文書のうち2万件の審査が終了していない。30年を経た文書の原則公開を徹底し、拡充する。

     公開段階の記録検索簿の作成は、専門家の活用が有効。公開の対象外となった文書に関しては廃棄の是非を検討する第三者の視点が必要だ。開示をめぐり、政務レベルの責任ある判断を求める。

     60年の安保条約、71年の沖縄返還協定、72年の日米繊維協定と日中共同声明、78年の日中平和友好条約、日ソ国交回復、日韓国交正常化関連については速やかな公開を望む。

      【共同通信】