豊村政吉さん(後方)と、一緒に暮らした孤児たち=1946年、秋田県旧鷹巣町(現北秋田市)、豊村さん提供
当時の写真を手に話す豊村政吉さん。机上の冊子は育てた「弟」たちの名簿だ=秋田県北秋田市、笠井写す
コメは農家に分けてもらい、ダイコンやハクサイは自分たちの畑で作った。散髪店や銭湯は無料でサービスしてくれた。生活費はそれほどかからず、募金や町民の支援、子どもたちが靴磨きをした稼ぎでやりくりした。やがて印刷会社を起こし、孤児を2人雇い、その収入もつぎこんだ。
けんかしたと学校から呼び出されたり、呉服店に盗みに入って警察に世話になったりと、苦労は絶えなかった。それでも、夜中うなされて「母さん」と叫ぶ子どもたちを怒ることはできなかった。「仲良く暮らそう」と諭した。
兄は戦死していた。いつからか、自分が「兄さん」と慕われるようになった。「軍隊の経験や兄の死から平和を求める気持ちが強くなった」。それが子どもの世話につながったという。
就職したり引き取られたりして60年ごろまでにみんな巣立った。かかわったのが子どものころの一時期だったので、やりとりが続いた人は10人ほどだ。多くは消息がわからない。88年に40年ぶりに再会した元孤児の男性は3年前に亡くなった。「私も高齢になった。65年の区切りに再会したい」。引き揚げ者の支援団体や、亡くなった元孤児の家族に連絡し、この計画を広めてもらっている。
10日は、午後1時にJR上野駅中央改札口近くの「翼の像」の前に立つ。目印は、当時の引き揚げ者支援活動で使っていた「引揚者世話係・秋田県」の腕章と、手に持つ秋田県旗だ。元孤児たちとともに、秋田の名物・きりたんぽを供えて、この駅で救えず亡くなった孤児たちの供養をするという。(笠井哲也)