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育てた戦災孤児320人、上野に集合 秋田から呼びかけ(1/2ページ)

2010年3月9日14時7分

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写真:豊村政吉さん(後方)と、一緒に暮らした孤児たち=1946年、秋田県旧鷹巣町(現北秋田市)、豊村さん提供豊村政吉さん(後方)と、一緒に暮らした孤児たち=1946年、秋田県旧鷹巣町(現北秋田市)、豊村さん提供

写真:当時の写真を手に話す豊村政吉さん。机上の冊子は育てた「弟」たちの名簿だ=秋田県北秋田市、笠井写す当時の写真を手に話す豊村政吉さん。机上の冊子は育てた「弟」たちの名簿だ=秋田県北秋田市、笠井写す

 東京大空襲から65年を迎える10日、あの上野駅に集合を――。秋田県北秋田市の豊村政吉さん(82)が戦後引き取って育てた元戦災孤児に呼びかけている。「兄さん」として世話をした子どもは約320人。いまは70代になっただろう弟や妹との再会を願っている。

 終戦直後の東京・上野駅周辺は、物ごいをする子どもであふれていた。「お金ちょうだい」「ご飯食べたい」。戦災孤児や大陸からの引き揚げ孤児だ。豊村さんは引き揚げ孤児を支援する活動で上野をよく通りかかった。足元には餓死した子どもの遺体がいくつもあった。

 「銀シャリ(白米)いっぱいあるよ。一緒に来ないか」。声を掛けると、2、3人がついてきた。その後、10日に1度、片道20時間ほど列車に揺られ、行き来した。「秋田で飯食える」。口伝えで広がり、行くたびに希望者が増えるようになった。

 戦時中、豊村さんは爆薬を背負って戦車に体当たりする部隊の一員だった。群馬で終戦を迎え、故郷の秋田県旧下大野村に戻った。激戦地だった沖縄へ衛生兵として出征した兄は消息不明。兄が今日にも帰ってほしいと祈りながら通った近所の駅で出会ったのは、服がシラミで真っ白になった子どもたちだ。「東京の大空襲でひとりぼっちになった」と話した。上野駅から無賃乗車し、乗客に物ごいしながら秋田に着いたらしい。

 そこで、18歳のとき、消防団のポンプ置き場の2階を「戦災引揚孤児の家」として借り、8畳2間で3人の世話を始めた。勤めていた郵便局はやめた。上野駅からの子どもを次々と引き受けて手狭になったため、1951年、木造平屋の「少年の家」に移った。町が町営住宅として建ててくれた。

 多いときで10人程度が暮らした。入れ替わりが激しく、ほとんどは1週間くらいでどこかへ行ってしまった。長くて3、4年だった。

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