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オーストラリアで報じられた日本の捕鯨

宮本由美2005/07/26
オーストラリア最東端の小さな町バイロンベイでは、最近ローカル紙や、テレビの番組などで、日本の捕鯨に対しての反論、批判記事を目にすることが多い。
オーストラリア NA NA
 去る7月6日、オーストラリア最東端の小さな町バイロンベイにて、イルカ・鯨の保護団体、また現地大学生による調査報告のミーティングが行われた。そこには、過去20年近く太平洋イルカ、鯨保護キャンペーンを行っているアーティストのHawie Cooke氏の姿もあった。

 バイロンベイは、イルカや鯨ウォッチングの地としても有名で、海外また国内の観光客向けのツアーなどもたくさん組まれている。そういった土地柄、また先月鯨ウォッチングのベストシーズンを迎え、加えて今年6月に韓国ウルサンで行われたIWC(国際捕鯨委員会年次会議)による日本の調査捕鯨への問題提起などがあいまってか、ここ最近ローカル紙の一面や、テレビの番組等でもドキュメンタリー番組で特集されるなど、日本の捕鯨に対しての反論、批判記事を目にすることが多い。

 私自身ドキュメンタリー番組をみて初めて知ったのだが、日本のある町では鯨だけでなくイルカを商業用(水族館用など)に捕獲し、その時ストレスで死んでしまったイルカの肉を売ったりしているのだそうだ。その画像は生々しく、槍のようなもので突いたり、血を流したイルカなどがたくさん写っていた。

 今回、何度かこういった種の会合に参加することがあり、日本での捕鯨について様々な角度から調べてみたが、一概に捕鯨が悪いとか、良いとかいった問題よりもその背景にある社会的価値観の差を強く痛感するにいたった。そもそもここオーストラリアではイルカ、鯨は聖なるものであり、インドにおいて牛が聖なるものである、という感覚と同じ価値観なのだ。

 でもオーストラリアはご存知のとおり牛を食用として捕っているわけで、そこに生じる矛盾というものは、人間的価値観がどうこうというより、まず社会的価値観の差にほかならないのではないか?そしてまた、生まれ育った国や社会によって形成された社会的背景というものは、そういった社会的価値観だけでなく人間的価値観にも少なからず影響をあたえているのではないだろうか? それは、この世界に各社会で生きていく以上、避けることはできない自然な影響なのではないだろうか?

 また今日本はネットによる集団自殺など、人間の問題でいっぱいいっぱいで、イルカや鯨など自然に目をむけている余裕がない社会になっている気がしてならないのは、異国にいる私だから感じる客観的視点なのだろうか?
オーストラリアで報じられた日本の捕鯨
左より、Southern Cross Universityの学生、海洋保護団体Wales AliveのDirector, Olivia,学生、今回のミーティングの主催者Brian

ご意見板

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[9333] 文化や社会性について
名前:宮本由美
日時:2005/07/30 13:01
たしかに、皆様の意見を拝見しまして、文化ってむずかしいですね、、。
実際、文化、伝統といいつつも、実際日本ではもうすべてが変わりつつある部分もありますし。
ただ、捕鯨等に関しては(さまざまなデーターを見ましたが)日本側には日本の言い分があり(自然の中の生態連鎖をくずさないために、、、とか、スキンリサーチといって鯨の皮膚の一部を採取してそこからデーターをとる方法に対し、そこから得られるデーターには限りがある、、など)、またオーストラリア側としても言い分もあり、でも昔、ここオーストラリア、隣国のニュージーランドでも捕鯨は行われていましたので、なんだか、押し問答をみている感を強くうけました。

そして、価値観の違いといってしまうとそれまでですが、社会的な、文化的な影響による価値観の違いをそこから何よりも感じたので、興味深いなと記事にしてみたわけです。
他国や異国でおきている問題を、理解することはできなくても、人間の思想とか、政策とか具体的な部分だけでなく、社会、文化などそういった見えない力というかも働いてものごとは起きるているということを忘れてはいけないのではないかと、思ったので。
[9332] 久野様
名前:宮本由美
日時:2005/07/30 12:46
ご意見ありがとうございます。
最初私もこっちにきて報道をみたり、人から話しをきいて、単純に日本人としてなんだか悪いことをしているような気分になっていたのですが、色々しらべたりするうちに、単に久野様の指摘なさっている殺害行為の部分をクローズアップしている感がつよいことを感じましたので、この記事をかきました。
人間はいきていく限り、何かしらを口にしているわけで、その食文化等の差の背景には、社会というものが存在するわけで。。

集団自殺の件ですが、こちらにはそういった事件は聞かないのですよ。平和というか、やはり文化が違うと起きる事件や、興味の方向性というものまで違ってくるので、捕鯨に関しても、その問題そのものだけでなく、メディアの取り上げ方(プライオリティーとでもいうのでしょうか?)違ってくるので、文化や社会の違いという観点で、最後にふれたのです。
[9329] 一部かどうかは関係ありません
名前:真田孝高
日時:2005/07/30 11:46
「北海道や東北の地方」ってスゲー差別的な表現ですね。
ちなみに千葉の和田や和歌山の太地も捕鯨基地ですよね。
すべて日本です。例え一部でもね。

問題はそういう事(一部か全部か)ではなしに、本当に捕鯨を禁止する事が、地球にとって人類にとって有意義な事かどうかではないですか?

本当に必要な事で納得できる事であれば、例えそれが日本の伝統文化であっても、多くの人は捕鯨をやめる事に賛成するのではないですか。

文化というのは、一部だからと言って疎かにしてはいけないし、逆に大部分でも、地球や人類の為なら我を張らずに見直しに応じる必要があるのではないですか。

理不尽な要求だから抵抗しているのだと思います。
一部かどうかは関係ありません。
[9328] 文化
名前:山田高作
日時:2005/07/30 10:35
私の地元には、茶道、華道、書道等は昔からありませんでした。
(戦後は別なようですが)
田舎育ちなもので。

つまり、茶道、華道、書道は日本文化じゃありません。


田舎だったので、空手の道場も、剣道場もなかったです。
(戦後は別なようですが)

つまり、空手も剣道も日本文化じゃないです。


着物なんで、普通じゃ買えませんでした。
(戦後は別なようですが)

つまり、着物は日本文化じゃありません。


文化って本当に難しいですね。
[9327] 日本文化?
名前:琴野穂花
日時:2005/07/30 06:51
 日本政府は躍起になって捕鯨を日本文化の一つだ、とオセアニア諸国をはじめとした反捕鯨国に理解を求めているが、本当に日本文化なのかわからない。

 確かに北海道や東北の地方では昔から捕鯨が行われているようだが、実際それは日本全国のことだろうか。私自身、自分の出身地の料理として鯨を使った料理があります、とは聞いたことがないし習った覚えもない。もちろん、知らないところで鯨の脂など一部を使った製品は昔からあったかもしれないが、それを利用すること自体が日本文化といえるものか自信がない。例えば、鹿の皮を使った山梨のインデンなどは日本全体の文化というよりも山梨の伝統品というイメージが私には強い。

 また、報道されているようにオーストラリアやニュージーランドでは鯨をアトラクションとした観光が盛んだ。でもこれはこの2国に限ったことではなく、南太平洋に浮かぶ、観光資源が唯一の収入資源となるいくつもの小さな島国のアトラクションでもある。それを数が増えたから大丈夫とはるか遠い日本から船に乗って「日本文化だ!」と主張し、狩猟にやってくる日本はどういったものか。

 水産庁のHPを見てみたが、調査捕鯨から得た細かいデータなど見うけられない。日本では数が増えたから、というのが一つの理由と挙げられているが、ここ、ニュージーランドでは逆のことが言われている。数は増えたのは確かだが、日本が提案しているほどの数を狩猟するほど数は増えていない。むしろ、まだまだ保護が必要である、と。もし、日本が「希少動物だ」と主張する生物を諸外国が「そんなことはない。我々の調査によれば数は増えつづけており、他の産業にも悪影響を与えている。その生物を狩猟することは我々の文化だ。文化の継続に何が悪い。」とクレームをつけ、自分の両国をまたぎ狩猟に来たら我々日本人はどう思うだろうか。

 また、滅多に見かけない鯨肉を大量に保存しながらも、まだ必要だと商業捕鯨に再び力を入れ始め、捕鯨に補助金まで与えてる日本。そこまでして一部地方の文化を守ろうとしている日本はどういったものか。欧米のイメージ作戦ともいえる、残忍な場面を強調してやたらに「鯨はかわいい、頭がいいから殺してはいけない。だから捕鯨反対!」という反捕鯨を訴える方法は妥当だと思えない。でも実際は、「日本文化」伝承の裏で迷惑を被っている国々が多数あることも知らなければならないと思う。
[9317] あるオーストラリアの新聞
名前:東堂一
日時:2005/07/29 06:38
宮本様

 はじめまして。
 レバノンの大手新聞アンナハールに「IWCにおいて南氷洋での日本の調査捕鯨禁止の継続が決議できなそうだ。、オーストラリアの新聞では「日本人が“我々の”鯨を殺しに来る。(“”は小生が付加)という記事が載った。」という記事がありました。
 「インド水牛との対比」や久野様が「分からない」とされた“事象”を貴女が取り上げたのと同様に“困惑と諦め”をナハールの記事から感じました。

 “反捕鯨”の人々にしてみれば、人間に害を成さず(本当は、過剰保護された鹿が山林を衰退させるように過剰保護の水生哺乳類は水生食物連鎖を圧迫します。)見るからに雄大なクジラは“神聖”な生き物であり、牧場で「殺されるのを待っている」牛は、蔑むべき生き物なのでしょう・・・・レミングのごとく“自ら望んで命を絶つ”(これすら異論が有るハズですが)生き物(人間)に“命の貴賎”を定める資格があるのでしょうか?

 日本人は、大航海時代のヨーロッパ人のごとく「イルカ・鯨の必要な部分(鯨油や肉)を取るため」だけに殺し、その他の部分を“ゴミ”にすることは有りませんでした。
 命あるものを殺し、食す。(ベジタリアンとて“命”を食べていることに変わりありません。)
 生命としての“業”であるなら・・・と、食べれる部分は無駄にすることなく食べ(毒を持つ“ふぐ”を食べる文化を持つのは日本だけ)、食べれない部分は生活に活用する(鯨の皮は、ランドセルにもなったそうです。骨は印鑑やペン軸にも、ヒゲはブラシなどに。勿論、肉や内臓は食用・・・硬くて子供の口には“一苦労”でしたが・・ 笑)。

 殺した命を悼み、慰霊する「鯨塚・鯨類慰霊碑」は日本各地の“捕鯨基地”であった街に見ることが出来ます(小生は三陸と牡鹿半島のものを知っています)。
 少なくとも“殺すから野蛮”や“殺し方が野蛮”という批難は、自分が「命を喰らう」存在であることを“棚上げ”しての偽善であると思います。 
[9293] オーストラリアの人に残酷と指摘されると少しばかり納得がいきません。
名前:木走まさみず
日時:2005/07/26 18:57
 記事を拝読していて、昔、壱岐島で土地の人にイルカの刺身を振る舞っていただいたことを思い出しました。生姜醤油でいただいたその味はちょっと馬刺に似ていたなあ。例えば壱岐・対馬などではイルカを食するのは伝統的文化であり、現代の動物保護の考え方で「残酷」と捉えられてしまうのは、少しばかり納得がいきません。
 21世紀の地球では確かに自然保護も大切なことでありましょう、しかし食は文化でもあり互いの多様性を認め合う寛容な心もまた大切なことであると思うのです。
 オーストラリアでイルカ・鯨保護キャンペーンが熱心なのは、もしかして、オーストラリア大陸に犬や羊やラクダなどを持ち込みすっかり生態系を破壊してしまい、ここ数百年でフクロオオカミなどの有袋類をはじめとする何百種もの生物を絶滅に追い込んでしまったオーストラリア人の自然への贖罪意識からなのか・・・そんなことを考えてしまいました。少し穿ちすぎでしょうかねえ(苦笑
[9289] おそらくイルカの追い込み漁だと思いますが。
名前:久野明
日時:2005/07/26 16:06
結構、昔からやっている漁に、イルカの追い込み漁が有ります。(多分、半世紀以上やってますよ)
漁船でいるかの群れを漁港に追い込んで、棒で殴って取るやり方です。

そして、居酒屋で揚げ物にして出されます。最近では、鯨肉の変わりにされているようです。

人間は雑食動物で肉食をしている限り、他の生物を殺害しているわけで、そうやって命をつないでいるという生物の本質を無視して、ただ、殺害行為の残虐性のみを強調して、捕鯨は許せないと言っているだけでしかないですね。

記事後半の「集団自殺」を取り上げている部分がよく分かりませんがね。
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