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去る7月6日、オーストラリア最東端の小さな町バイロンベイにて、イルカ・鯨の保護団体、また現地大学生による調査報告のミーティングが行われた。そこには、過去20年近く太平洋イルカ、鯨保護キャンペーンを行っているアーティストのHawie Cooke氏の姿もあった。 バイロンベイは、イルカや鯨ウォッチングの地としても有名で、海外また国内の観光客向けのツアーなどもたくさん組まれている。そういった土地柄、また先月鯨ウォッチングのベストシーズンを迎え、加えて今年6月に韓国ウルサンで行われたIWC(国際捕鯨委員会年次会議)による日本の調査捕鯨への問題提起などがあいまってか、ここ最近ローカル紙の一面や、テレビの番組等でもドキュメンタリー番組で特集されるなど、日本の捕鯨に対しての反論、批判記事を目にすることが多い。 私自身ドキュメンタリー番組をみて初めて知ったのだが、日本のある町では鯨だけでなくイルカを商業用(水族館用など)に捕獲し、その時ストレスで死んでしまったイルカの肉を売ったりしているのだそうだ。その画像は生々しく、槍のようなもので突いたり、血を流したイルカなどがたくさん写っていた。 今回、何度かこういった種の会合に参加することがあり、日本での捕鯨について様々な角度から調べてみたが、一概に捕鯨が悪いとか、良いとかいった問題よりもその背景にある社会的価値観の差を強く痛感するにいたった。そもそもここオーストラリアではイルカ、鯨は聖なるものであり、インドにおいて牛が聖なるものである、という感覚と同じ価値観なのだ。 でもオーストラリアはご存知のとおり牛を食用として捕っているわけで、そこに生じる矛盾というものは、人間的価値観がどうこうというより、まず社会的価値観の差にほかならないのではないか?そしてまた、生まれ育った国や社会によって形成された社会的背景というものは、そういった社会的価値観だけでなく人間的価値観にも少なからず影響をあたえているのではないだろうか? それは、この世界に各社会で生きていく以上、避けることはできない自然な影響なのではないだろうか? また今日本はネットによる集団自殺など、人間の問題でいっぱいいっぱいで、イルカや鯨など自然に目をむけている余裕がない社会になっている気がしてならないのは、異国にいる私だから感じる客観的視点なのだろうか? |