« 政治主導の弊害? | トップページ

2010年3月 7日 (日)

枕と市場原理主義

最近、しょっちゅう寝違えます。今日も首が痛くて仕方ありません。
首が痛いので動作がぎこちなく、後ろの人から呼ばれると、
ロボコップみたいに身体全体で不自然に振り返らないといけません。

最初に寝違えたときは「まあそういうこともあるさ」と流しました。
二度目に寝違えたときは「疲れがたまっているせいだろう」と流しました。
三度続けて寝違えたので、これは何か構造的な問題だと認識しました。

構造的な問題であれば、がまんしても未来永劫、解決しません。
何らかの思い切った改革を政治家主導で実現する必要があります(?)

枕(まくら)をよくよく分析して見てみると、だいぶへこんでいます。
あきらかに薄っぺらくなっていて、頭の高さにフィットしません。
横を向くと、枕が低すぎて、首が不自然な体勢になります。

安い枕なので、経年変化により、形状が回復不能になったのでしょう。
不可逆なまでにへこんでいます。もう取り返しがつかないでしょう。
これを業界用語で「Point of No Return」と呼ぶかどうかは知りません。

5年ほど前に買ったとき、布団とセットで1万2千円の枕です。
安物の枕なので、回復不能なまでにへこんでしまったからといって、
内閣府国民生活センターに苦情を申し立てるようなシロモノではありません。

そこでやむを得ず、枕を買いに行くことにしました。
これだけ寝違え続けていると、品質のよいものを買いたいという衝動が生じます。
ただ、資本主義経済のもとでは「品質のよいものは高い」という法則があります。

市場原理主義者が跋扈する日本では「品質のよいものは高い」という法則は、
なかなか変革できないのが大変残念です。政治家として慙愧に耐えません。
この法則を変えようとマルクスやレーニンといった偉大な先人たちが努力した結果、
共産圏では「品質の悪いものは安くて品不足」という新たな経済法則が生まれ、
いまでも北朝鮮やキューバといった労働者の楽園で継承されています。

某百貨店の寝具売り場に行ってみると、いろんな種類の枕があります。
枕のプロではない私は、売り場に立ちすくみ、枕の価格を比較しました。
いちばん安い枕で2,980円でした。高いものは1万5千円近くします。
単に「寝るときに頭の下に敷く」という基本的な機能を果たす点は同じですが、
材質や形状はいろんな種類があることに気付かされました。

おそらく旧ソ連だったら1種類しかないから悩む必要はないのでしょうが、
市場原理主義の風潮の強い日本では、多くの種類から選択する苦悩が生じます。
政治家としての決断力を試されている、と自らを奮い立たせ、10分ほど悩みました。

いちばん安い2,980円の枕でも、見た感じはそんなに悪くはなさそうです。
一瞬だけ「安物買って、ぺちゃんこにつぶれたら、また買えばいいや」と思いました。
しかし、「安物買いの銭失い」のことわざもありますし、安物を買ってすぐ捨てては、
大量生産・大量消費・大量廃棄の20世紀型消費モデルを肯定することになります。
自らの信念として大量消費・大量廃棄の世の中を変えるため、安物の枕は買えません。
人類と地球の未来のためにも、安物を買ってすぐ捨てる、という発想はダメです。

そこで「ちょっと高くても品質のよいものを買って長く大事に使おう」と考えを改め、
ちょっと高い枕にしようかと、気持ちを大きくしました。
さらに「1日6時間寝るとすれば、人生の4分の1は寝ていることになる。
人生の4分の1の睡眠を快適にするためにぜいたくすべきだ」と思うようになりました。
そこで、特許か何かをとった1万3千円の高級枕が、急に気になりはじめました。

他方、たかが枕に1万3千円もかけていいものだろうか、と迷いが生じます。
小さい頃から母親に「質実剛健でありなさい」と言って育てられた結果として
残念ながら「剛健」にはなれませんでしたが、「ぜいたくは悪」という感覚があります。
枕でぜいたくしていいのだろうかと苦悩したものの、欲望に負け、買ってしまいました。
これで寝違えたら、今度こそ消費者相談センターに苦情を言います。

|

« 政治主導の弊害? | トップページ