見渡す限り、墓石には黒い鉢巻きがまかれていた。韓国史に残る民主化闘争「光州事件」で、戒厳軍に虐殺された学生らが眠る光州(クァンジュ)市北部の望月洞(マンウォルドン)墓地。
〈バスから降り墓前に立った韓国人学生約50人はさっきまでのおどけた表情を消し去り、畏怖(いふ)の面持ちで一斉にこうべを垂れた〉
記憶に刻まれたその光景を、東京大東洋文化研究所准教授(宗教社会学)の真鍋祐子(46)=北九州市出身=は静かに語り続けた。
「私は何やら立ち入ってゆけない空気を感じながら、自分が感覚を共有できない日本人だという現実に粛然とせざるを得ませんでした」
1988年6月。事件から8年がたっていた。その墓地巡礼は、留学先の大学を通じて申し込んだ民俗学ツアーにたまたま組み込まれた。韓国の学生運動を「危険なもの」と避けていた真鍋には、要らぬ訪問先である。
墓石に鉢巻き。異様さと恐怖に気持ちは引いた。1人立ち尽くすしかなかった。
ただ振り返れば、日本人として感じた事件との「距離」を埋める作業も、このとき同時に始まっていた。
▼映画の衝撃
光州事件を生々しく描いた韓国映画「光州5・18」(原題「華麗なる休暇」=2007年)が日本で公開されたのは一昨年春。
真鍋の誘いで鑑賞した東大大学院教授(ジャーナリズム研究)の林香里(46)は、強い衝撃を受けた。事件が起きたのは高校時代。連日大きく報道されたが、真鍋と同様に記憶にない。
林は韓流ブームを分析した「『冬ソナ』にハマった私たち」(文春新書、05年)の著者だが、映画を機に意識は鋭く光州に向く。
かつての西欧留学で、民主主義について学んできたつもりだ。「でもそれは教科書で知っただけのこと。隣国で、しかも自分と同時代にあんな死を賭した民主化への闘いがあったなんて」
「与えられた民主主義」とされる日本と比較するとき、事件がその後の韓国社会に与えた影響は恐らく計り知れない。
真鍋と林は昨年5月、光州事件を考察する「光州研究会」を結成した。事件から30年。なぜ今ごろ研究会なのか。
「これまで事件を詳細に分析しようとすれば、南北対立を背景に政治的な圧力がかかったり、イデオロギーに偏した情報が流されたりと困難は少なくなかった。もう突き放して研究すべき時期になったと思うのです」。2人は言う。
▼「凝縮」の地
実は真鍋は、望月洞墓地に立ってから12年後、「光州事件で読む現代韓国」(平凡社、2000年)という本を発表する。
墓地を視察したときと前後し、韓国では民主化を叫ぶ学生の抗議自殺が多発した。「これは政治運動なのか、宗教なのか。私の韓国研究はもはや、命懸けの学生運動の先駆である光州事件に行き着かざるを得ませんでした」
真鍋はその決意以来、何度も光州に足を運んだ。結果として同書は真鍋の専門領域を超え、大統領の座をめぐる朴正熙(パクチョンヒ)と金大中(キムデジュン)の因縁の対決、2人の地盤に刻まれた地域葛藤(かっとう)、その後の革新政権を支えた世代論など、幅広く分析。現代韓国は「せんじ詰めれば光州に凝縮される」と投げかけた。
残る研究テーマの一つは「光州事件と日本」である。その二つはどんな位置関係にあったのか。
日本の安全保障問題をはじめ、知識人や宗教者の地下交流、「北朝鮮=善 韓国=悪」と図式化しがちだった日本の論壇、在日コリアン社会への影響-。
「韓国凝縮の地」である光州から伸びる枝は、かつて朝鮮半島を統治した日本に大に小に絡みつき、研究対象は尽きない。2人は今、机からあふれるほどの資料と格闘している。
「死者へのオマージュ(敬意)」-研究の根底にあるのは、真鍋が映画「光州5・18」のモチーフとしてパンフレットに書いたその言葉なのか。 (敬称略)
=2010/01/27付 西日本新聞朝刊=