Files 01 The child
After 16 Japanese bombing planes had flown home,Aug.28,H.S.( "Newsreel")Wong,famous
Hearst cameraman,was first to reach the dreadful scene at the Shanghai
South Station.He got this picture-of-the-week-a Chinese baby amid the wreckage.・・・(『LIFE』1937.10.4)
この写真は、第2次上海事変の最中、アメリカのハースト系のニュースリールカメラマン(H.S.Wong)によって撮影されたものである。そして当時の「LIFE」誌上において、年間の掲載写真のなかで最もインパクトのある写真との評価を得、アメリカの対日感情を悪化させた写真である。しかし冷静にこの写真を見ていると「赤ん坊がなぜ一人きりで座っているのか」という疑問をもつ。爆撃の跡というのは分かるが、その爆撃の跡にひとりだけ生き残ることが出来たのであろうか。
たとえば阿羅健一『聞き書 南京事件』に次のような記述がある。
「支那事変が始まるとすぐに、上海の停車場で泣いている中国の赤ん坊の写真が、アメリカの新聞に載り、これがずいぶん話題になりました。日本はひどい、こんな子供までも、という世論がアメリカにおこり、これがきっかけでアメリカはそれまで以上に同情して、日本に敵対するようになりました。
ところがこの写真は、もともと泣いている子供を抱こうとしていたのかそこに置こうとしていたのか、父親らしい大人がそばにいたものですが、父親をブラシで消して赤ん坊が一人で泣いている写真にしたものです。それがどういうルートかアメリカに持ち込まれ、話題になりました。・・・このような衝撃的な写真は・・・ずいぶん効き目がありました。」(外務省情報部カメラマン・渡辺義雄氏の証言)
―有名な上海での赤ん坊の写真・・・がありましたね。
「そう。『ライフ』に1頁大で載って有名になった写真です。世界中に有名になりました。
戦後になって朝鮮戦争の時、京城に世界中の報道カメラマンが集まりました。そこで国連軍のカメラマンに、あの写真を撮ったカメラマンがいましたのでそのことをいいましたよ。ワンとかいって中国系のカメラマンで、私より年上でした。」
―報道写真といっても、ありのままの報道ではないのですか。
「もちろんありのままを写真で報道するのですが、カメラマンは自分の国の立場で写真を撮りますし、やらせが世界中でありました。・・・」(陸軍報道班員・小柳次一氏の証言)
また、『従軍カメラマンの戦争』にも小柳氏の話が以下のように出てくる。
「戦後、上海の赤ん坊の写真を撮った、中国系のアメリカ人だったですか、あのカメラマンに朝鮮戦争の休戦会談の取材で一緒になったもんですから、
『あんたの写真のおかげで、俺は妙な写真家になってしまったぞ』と言ってやりました。あれはやらせだろうって聞いても笑ってるだけでしたが・・・・・・。」
以上のような記述を目にした私は、戦後の雑誌に修正前のオリジナルの写真が掲載されている、ということを知ったので、まずそれを見つけようと考えた。しかし、あるということは分かっても、「戦後の写真雑誌」という極めて断片的な情報であったため、どの雑誌かは検討がつかなかった。そこでまず、当時写真を掲載していた『LIFE』にあたることを決め、知人の通っている大学の図書館の書庫にもぐりこみ、延々と『LIFE』のバックナンバーをめくることになった。
しかし『LIFE』は週刊誌でのため、年間に約50冊ある。「戦後」を50年と見積もっても、2500冊もある。一日どんなにうちこんでも3年が限度、そのためわずか2日で断念してしこととなった。
だが世の中何が起こるか分からないものである。かの小林よしのり『戦争論』に、なんと同じ写真が載っているのではないか。そこで小林の出典の通り、J・キャンベル編『20世紀の歴史N』に写真Aが掲載されていた。
この「写真A」はキャンベルの本からとったものである。
上の写真と比較してみると、細部は異なっているため、修整後の写真とは言えないが、しかし全く同一の場面を撮影したものである。赤ん坊の側に、男性と、もう一人の子供がそばに居るのが分かる。
現在、これら2種の写真のうち、上の写真の方が広く写真集等で引用されているのは、爆撃後の広い荒野にぽつんと残されたたった一人の赤ん坊―という強烈な印象を与えるためであろう。
ではこの赤ん坊は初めから一人でここに居たのだろうか。
調べてみると、アメリカの宣伝映画『バトル・オブ・チャイナ』(または『中国の怒号』)の中に、一人の男性が、右端のホームから赤ん坊を抱きかかえて(写真の)左側へ移動するシーンが映し出されていた。同様の場面は、アメリカの写真雑誌『Look』(1937年12月21日号)にも掲載されている。
以下B、C、Dがそれである。
[判明したこと]
@赤ん坊は連れてこられた
A側に男性やカメラマン等が存在する
B爆撃の跡には居ない(連れてこられている)
C一人ぽつんと残されているわけではない
これらのことからみて、この「一人残された赤ん坊」の写真のキャプションは適切なものとはいえない。
ではこの上海南停車場への爆撃はどちらがおこなったものだろうか。写真のキャプションには日本軍の爆撃機(正式には爆撃機ではないが)によるものとなっているが、あえて突っ込んでみると、
これらのことから見て、爆撃は日本の航空部隊によるものであると思われる。
※ キャンベルの『20世紀の歴史N』では、「11月初めの爆撃」という解説がついているが、10月4日の『LIFE』に 掲載されているため、この解説は誤まりである。
※ 『バトル・オブ・チャイナ』は日本では、『日中戦争』(株 イメージボックス)という題で発売されている。
※ ビデオ『激動 日中戦史秘録』の中には、上の写真の赤ん坊の動くシーンが入っている。
※ 写真Aの真中に映っている「鉄塔」は、上からぶら下がっている物体であることが判明した(ビデオ『激動日中戦史秘録』)。また同映像には、赤ん坊が黒い服の男性(B・C・D)に運ばれる直前の場面が収録されており、写真Aの帽子の男性はホームに立っていたことが分かった。
※『激動日中戦争秘録』には、この赤ん坊の座っている場面が収録されている。また、同映像をよく見ていただければ分かるのだが、発煙筒?らしき煙が赤ん坊の足元からのぼり、赤ん坊がそれを見るシーンになっている。「ヤラセの発煙筒をおいたのではないか」という指摘がある。
【撮影者】 | Wong,H.S. |
【撮影場所】 | 上海南停車場 |
【撮影時期】 | 1937年8月28日 |
【正確な出典】 | 『LIFE』1937年10月4日号他 |