(講談社・1575円)
『烏有此譚』という。このタイトルはどう読むのだろう。どういう意味なのだろう。本書を手にした読者が思い浮かべるのは、まずその疑問に違いない。
この小説は上下二段に分かれていて、下の部分は本文に対する注釈になっている。その注釈の中で、「注者」と称する第二の語り手が、題名の読み方についてこう言う。「全く不明であるが、注者としては『うゆうしたん』以外の読みを思いつけない」。さらにその意味については、こう説明してくれる。「どうしてこんな話があるだろうか、いや、ない、程度の意であり、こう書くとなんだか厳(いか)めしいが、単に『馬鹿(ばか)話』ほどの意味である。真面目(まじめ)に評されても困る」
すでにおわかりのとおり、全篇(ぜんぺん)にただよっているのはこうした独特のユーモアなのだが、野暮(やぼ)を承知であえて真面目に評すれば、このタイトルは「これはまったくありえない話ですよ」という意味に解釈できる。つまり、「フィクション」という題名が付いたフィクションなのだ。
そういう次第で、本書はフィクションで用いられる約束事や手法を手玉に取り、ねじっては裏返してみせる。たとえば、注釈という形式。本文と注釈はふつう主従関係にあるが、ここではどちらが主でどちらが従なのかわからない。実際のところ、わたしは本文を無視してまず注釈を先にぜんぶ読んでしまった(そういう読者も多いのではないか)。この注釈は、本文を置き去りにして、勝手にどんどん先に進んでいく。そして全体の三分の二ほどまで来たところで、ようやくおもむろに本文が注釈に追いつくのである。思わず噴き出したくなる。聞くところによれば、本書は文芸雑誌に掲載されたとき、本文だけがあり、単行本化にあたって注釈が追加されたらしい。ということは、オリジナルとそのヴァージョンという関係も、ここでは逆転可能になっているわけだ。
注釈のことばかり書くのも変だから、本文の方も紹介しておくと、こちらは雑多なもので埋め尽くされつつある六畳一間の部屋に住む「僕」の物語である。この世界には灰が降っていて、「僕」はその灰の中に空いた一つの穴として存在している。灰が降ってくるくらいで驚いてはいけない。なにしろ、作者のデビュー作である『オブ・ザ・ベースボール』(文藝春秋)の表題作は、空から人間が降ってくる物語だったのだから。なるほどたしかに、「どうしてこんな話があるだろうか」と言いたくなるかもしれないが、ここで読者は納得する。タイトルの「烏有」とは、もともと火事などでなにもなくなってしまうこと、つまり「灰燼(かいじん)に帰す」ことでもあるのだ。そういう意味で、この小説は灰と穴をめぐる物語になる。小説の後半で、注釈部分に空白が目立つようになるのも、意図的に空けた穴と見ることができるだろう。
思えば、小説を書くという行為そのものも、白いページ(いや、灰色か)という穴を、文字で埋めることに他ならない。小説家とは、その不思議な無償の行為をどういうわけか続けている人間なのだ。その姿は、本文および注釈で言及されている、空気分子の一つ一つを選別する能力を与えられ、単純労働にいそしむ通称マックスウェルの悪魔を想起させなくもない。
エンディングで、本文に「了」が打たれても、注釈はその「了」に注釈を付すかたちでまだ続く。本文と注釈は手を取り合って、この小説世界の中で予期されている、来るべき洪水に対して、新たな船を造ることを誓う。そこには間違いなく、新しい小説の予感がある。
毎日新聞 2010年3月7日 東京朝刊