【社説】創刊90周年に北の兄弟姉妹の苦難を思う(上)

 朝鮮日報社は1920年3月5日に創刊された。日本が1910年に韓国を強制的に併合して朝鮮の国権を奪い、この地の民間紙をすべて強制的に廃刊させてから10年後に当たる。当時、韓国語の新聞として最初に息を吹き返したのが、朝鮮日報だった。日帝はその4カ月前に朝鮮総督府の規定を変更し、中学校での朝鮮語科目の時間を大幅に減らし、それを日本語の時間に割り当て、「朝鮮史」「朝鮮地理」は「日本史」「日本地理」として学ばせた。韓国語と韓国の歴史が教室の外に追いやられる中、朝鮮日報は失われた国の国号を紙名に掲げた。そのため当然のことながら、その後の苦難は火を見るよりも明らかだった。創刊号を発行してから1日休刊し、第2号(3月7日付)を発行して再び休刊、第3号(3月9日付)を発行してからは再び長い休刊を強いられた。

 朝鮮総督府が朝鮮日報の発行を形式上でも許可せざるを得なくしたのは、その前年にこの地を揺るがせた朝鮮民衆による独立万歳の叫び声だった。日本の警察による集計は可能な限り少なく見積もったが、それでも3・1独立運動の規模は、積極加担者だけで136万人に達し、このうち刑務所に収監されたのは5万2730人、死亡者6770人、負傷者1万4600人に上った。これら朝鮮民衆の貴い犠牲がなければ、厳しい武断統治を撤回させ、文化統治という名のわずかな空間で、韓国語の新聞を発行することは夢にも思い描くことはできなかっただろう。この点で、朝鮮民衆には感謝の念を禁じ得ない。朝鮮日報は1920年3月5日に創刊して以来、40年8月10日に強制廃刊されるまで、苦境に立たされた朝鮮民衆の声を代弁し続けた。その間、日帝により8万8000本以上の記事が押収されたほか、500本以上の記事が削除され、4回にわたり長期発行停止処分を受けたが、これも国民に対する朝鮮日報の当然の報恩が形として現れたものに過ぎない。

 朝鮮日報社は、時に日帝の露骨な迫害を受け、また時には朝鮮経済のぜい弱さゆえに何度も挫折寸前の困難を経験した。そのような時に李商在(イ・サンジェ)、申錫雨(シン・ソクウ)、安在鴻(アン・ジェホン)、曺晩植(チョ・マンシク)ら民族陣営の独立運動家たちは、自らの危険をも顧みず、全財産を投げ打って朝鮮日報の経営に全身全霊を尽くした。これも、彼らが朝鮮民族と韓国語の民族新聞の間に切っても切り離せない関係を見出したからだ。彼らは朝鮮日報社の社長に就任して以来、数々の運動や啓蒙活動を展開した。「朝鮮民衆は(日帝が作ったものではなく)朝鮮の産物を使おう」という物産奨励運動、「民衆の知力を高めて民族の魂を失わない」という目的で行われたハングル教育とその普及運動。申采浩(シン・チェホ)、文一平(ムン・イルピョン)、韓竜雲(ハン・ヨンウン)、洪命熹(ホン・ミョンヒ)ら民族史学者や民族文学者を前面に立てた朝鮮史と朝鮮文学の振興運動、さらにはイデオロギーにより左右に分裂した独立運動を再び結集するための団体「新幹会」を立ち上げるなど、彼らが渾身の力を注いだ数々の活動は、ごく自然なことでもあった。

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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