ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

人生、いろいろあるさ

2010-02-28 | 医療
 ブログ、私のブログもいろいろありました。昨年6/20に「斜里町の内科常勤医が12月から1名になってしまう」というお知らせのチラシが町内に配布され、その1名も辞表を出し、私は斜里町の病院が抱えている問題をブログに書き続けました。
 しかし記事を削除して7か月が経過しましたが、今も私がブログを書いた、という部分しか言われません。ここはインターネットの上なので、削除した記事もキャッシュで残り続け、新しく読む人がいるであろうことは承知しています。初めて見た人々が「なんだこれは#」となるのは良いのです。が、7か月前に読んだ方が、いまだに私がブログを書いた、という部分しか話題にしないのは、さすがに想像外でした。

 読んでくださった方はご承知のように、私はわざと煽りました。

 火がついて沈みかかっている船がある、でも船客はみんな船室で眠っている。船長と機関士が必死で火を消そうとしているけれど、間に合わない。母船からはいっこうに救援隊も来ない。それで甲板員の私は客室をまわって寝ているお客さんたちを殴り起こしてまわりました、という感じでしょうか。
 誰だって、なんだかわけわからないうちに、突然殴り起こされたら怒るでしょう? 当然、私も殴り返されるのを覚悟の上です。逆に、怒ってアドレナリンいっぱい出て飛び上がってくれるくらいの方がいいと思いました。実際にたくさん殴り返されました。それで皆が力を合わせて火を消すことができれば、もしくは、皆で無事船から避難することができれば、それでいいと思いました。

 でも、チラシからもう8か月、1年の3分の2が経過しました。船はもう船首が波をかぶる寸前です。
 しかし、いまだ、私が言われるのは「殴ったなあ!?」という段階です。殴ったからどうするのか、なんで殴ったのか、というところまで行き着きませんでした。「火を消さないと!」と叫んでくれる方々はいらっしゃいましたが、実際に水の入ったバケツを持って、船長や機関士の火消しを手伝ってくれたり、船客の避難を率先して誘導してくれる人は現れませんでした。そして、たいていの方が「火がついて沈みかかっているんですって、不安だわ」と不安がりながら、再び寝室に戻ってしまったのではないでしょうか。

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 直接会った人にはよく言うんですが、みなさんは「どうしよう」と言うけれど、病院内では「どうしよう」という間もなく、もうその日から有無を言わさず医者は働いているんです、と。みなさんが一日に1時間、「どうしよう」とじっくり考えて下さっても、医者は24時間その現状の中で必死でやっているんです。(年単位の長い目で見て下さいと言われるけれど)24か月かかって結論に到達する時、医者は1か月でエンジンが焼き切れて去っています、と。

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 常勤医を増やして欲しいとお願いしても増やしてくれない。
(横で見ていたら、旭川医大から断られて当然と思うことをやっているのですが、どうしてそれがわからないのか、私にももうわからない)
 それなら今いる医者サイズに合わせた診療体制にしてくれとお願いしても、体制は変わらない。
 患者さんを他病院に振り分けてくれと言ってもやらない。
 残っている医者を大事にしてくれと頼んでも、それもない。
 野津先生を慰留しになんて、(8月に1回だけ町長がいらした後)ついに7か月間、誰も、一人も、一度も来なかったですよ。
 病院をなんとかする!と町議に当選した方もいましたが、それを最後に病院から音信不通になりました。

 8月の時点で、(町の方で医療のことはよくわからないから、と言うのなら、何でもご説明しますから、どうして常勤がいないといけないのか、斜里町はどういう患者さんがいるから病院はどんな風に対応しているのか、どうして患者を他病院に振り分けないといけないのか、非常勤は実働何人くらいで何をやっているのか、等々)説明させてくれ、説明する場を設けてくれ、と何度も連絡をとって、場もセッティングしていただいて待っていたのですが、来ない。
 その後もこちらからどこでも出向くから説明させてくれ、連絡をくれ、と繰り返し頼んでも、一度も連絡もなし。そのまま3か月が経過。
 それで個人的に知っている役場の偉い人をつかまえて、無理矢理説明。その後にももう一回説明する機会をいただきましたが、動きがないまま11月の常勤内科医1名退職となり、「内科医1名になることに対してどういう対策をとっているのか聞かせてくれ」と電話をすると、「電話を切りますよ」と言われて、それっきり。それからまた3か月が経過しました。
 町議の方々とも喋ったことがありました。「今度先生に来て説明していただきたいがどうか」と言われたので、「喜んで、いつでもどこでも行きます」とスタンバイしていたけれど、それっきり。あれは7月のことなので、8か月くらい経過しました。
 町民の方からも「来てお話して下さい」と何回も言われるので、その度に「いつでもどこでも行きます」と張り切っていたんですが、1回も呼ばれたことはありませんでした。
 待っているだけでなく、私からも押し掛けて町民の方ともだいぶ喋りました。
 しかし協力を求めると、私は「(ブログのことで)敵なので・・・」と、腰を上げてくれる人はいなかったです。
 またアドバイスを求められて、すぐさまその日のうちにでも実行できる一番簡単な策を提案しましたが、1か月経っても2か月経っても始まらない。3か月経過して、やらないことに決まったとのこと。

 結局何ひとつやらないまま、引き続き4月からもよろしくと言うけれど、じゃあ医者に一つ一つ押し付けていく分、代わりに何をするのでしょうか?
 常勤医2名が1名になっても、そしてその1名退職まで1か月を切っても、チラシから1年の3分の2が経過しても、結局「これをやりました」と実績として言えることは何もしないのですね。

 私自身危機を感じていて、ここから先はもう(今、そしてこれからの診療体制ではもう)患者さんに責任を持てない、ぎりぎりのラインだと思っています。今、しわ寄せが医者に来ているが、ここから先は、患者にしわ寄せがいく。(今もすでに、患者さんにとばっちりが行っていますが)それは絶対にいやだなあと思いました。

 では、そういう患者さんにもう責任を持てないような無理で危険なことをやらせようというなら、代わりに何をしてくれるのか?

 それで、もう最後の最後のレベルの要求をしてみました。あともう一人常勤の先生が来たなら,すぐさま解除してくれてかまわないので。「考慮していただけないなら、4月からよそへ行きます」と、私は言いました。
 せめてひとつくらい、町が動くかどうか、賭けでした。
 (そういう賭けをすることに、また賛否両論があるのでしょうが。)
 それで、返答は、考慮できない、とのことでした。
「では辞めてもかまわないということですか?」と聞きましたが、4月からはそのまま働いてもらいたい、と今まで同様に言われるだけでした。

 ちょっとばかしは歩み寄りとか代替案とかあるのかな?と思ったのですが、それもなかったですね。

「結局何にもしないんですね?」と私は言いました。「それがだめなら、ほかに何をするんですか?」
「考えてもわからないので、してほしいことがあったら言って下さい」

 言ってください、と言われても、私にももう、正直、わからないです。
 あれも駄目、これも駄目、あれをお願いしてもこれをお願いしてもナシ。本当はもっとごく普通に真剣に町民の医療を考えてほしかったし、病院の診療体制を立て直して、ごく普通に話し合ったりとか、医者がごくごく当たり前に診療に専念できる状態にしてほしかったんですけれど。それもあれも叶わないから、最後にこういうレベルの話しか言うことがなくなって、それもナシということなので。

 まあそんなわけで、「考慮していただけないなら、辞めます」と言って、「考慮しない」というのだから、私も辞めざるをえないでしょう。
 仕方がないですね。

 まあ、人生、いろいろあるさ。
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医師不足から学んだこと

2010-02-27 | 医療
 小さい頃、無医村に行って田舎の役に立つんだ、と思っていました。
 医者になってからは、地方の小さな病院では、外科も内科も小児科も産婦人科も眼科も皮膚科も、年寄りも赤ちゃんも、すべての患者さんが来て、すべてに対応しなければならないのだから、研修医は地方に来た方が勉強になるのに!、なんで大都市の医者が溢れた病院に行って、なかなか患者さんを診せてもらえない状態で専門だけの勉強をするんだ、とも思っていました。

 しかし、実際に自分が地方の病院で勤務し、4人いた常勤内科医が2人になり、その2人が1人になり、そして常勤が誰もいなくなれば非常勤(自分含む)と外科でそれまでの内科患者を診るんだと言われ、病院も町も何ひとつ体制が変わらないまま医者だけに次々にしわ寄せが来るというのを、目の前で実際に体験し、

   地方の医者が疲弊して去っていくというのが、とてもよくわかりました。

   医者が地方の病院に来たがらない理由も、とてもよくわかりました。

   どうして都市部の大病院に医者が集まるのかも、今ならとてもよくわかります。

 冗談のように聞こえるかもしれないけれど、「医師不足の地方に自分が行って助けなければ!」と燃えるお医者さんは、「この人にはアタシがついていてあげなきゃ!」と、何もできないダメ男にフォールインしてしまうお嬢さんと、同じ危険性を持っているのでした。それも、「人を助けたい!」と熱意に燃えるお医者さんほど陥る危険性があり、逆に「お、困っているカモがいるぞ、給料ふんだくってやる」とほくそ笑むツラの皮の厚い人の方が、うまく乗り切れるのかもしれません。

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 私が「医師不足」について学んだ問題点は、以下の2点に集約されます。

1:「医療のシステムが崩壊している」
 <職場としての"システム"が崩壊していて、"個人"に肩代わりさせている>(公共システムの崩壊)

2:<そしてその"個人"の頑張りに、誰も報いない>(個人レベルの崩壊)

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 警察署、消防署、学校、病院、そういった「地域の公共のシステム」というものは、自治体が構築・管理し、機能しているのが当たり前でしょう。住民も、機能しているのが当然と思って、いちいち注意なんか払いません。システムを享受するのが当たり前だし、享受するために税金を払っている。

 しかし例えば、消防署が実は機能していなかったとしたら、どうでしょう。火災の連絡系統も、消防車のメンテもできていない、消防署とは名ばかりで、消防士が一人赴任させられただけ。でも、火災は毎日のようにどこかで起こる。その消防士個人が一人で「消防署」の名前を背負って、誰の助けも得られないまま、火を消しに駆けずり回らないといけなかったら、その個人はあっという間に潰れるでしょう。

 そして、同じことが病院で起こっていました。

 200人を越える外来、100人単位で24時間いる入院患者、17時でも18時でも終わらず、土日も休みなく、夜中も急患受付け、救急車も24時間来る。リハビリも薬局も、血液検査もレントゲンもCTもほしい。そんな大規模な業務を実現するには、何人の職員を雇い、どのくらいの物品を揃え、どんな交通網を配備してどんなシステムにすれば可能だと思いますか?

 そして、そのシステムが崩壊して機能していないのに、それだけの患者さんを診なければならないとしたら、どうしたらいいと思いますか?

 結局システムの不備を補わされているのは、職員(医者)の良心とか、責任感とか、本来の職務の範疇から離れた個人のレベルの頑張りでした。
 医者に肩代わりさせておけば、個人を犠牲にしてでも診てくれるんだから、自治体は医療システムの構築から手を抜いてもいい(医者にやらせておけばいい)、という悪循環も生じていました。

 でもこんなこと、今まで散々言われてきたことですね。「医療のシステム自体が崩壊している」「医者個人に背負わせている」なんて、テレビでも、雑誌でも、新聞でも。
 自分で合点したことを、言葉にしてみたら、当たり前のように言われて続けてきた事柄でした。

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 そして、職員としての業務の範疇をもはや大幅に逸脱して、個人のレベルで頑張っている医者に対して、報いるものが何もありませんでした。
 気持ちでも、熱意でもいいのですが、何もありませんでした。
 個人にやらせっぱなしになっているということ自体に、誰も気が付きませんでした。(誰も、「個人」がやってると思いませんでした。公共システムが機能していて、その中の業務の範疇でやっていると思って、放置していました) 医者にやらせていると知った後でも、やっぱり何もありませんでした。理解もありませんでした。頑張る人ほど、ただ疲弊するだけでした。

 たとえ医療のシステムが崩壊していても、地域の人の理解とか、人の動きとか、医者個人の犠牲や頑張りに報いるものがあるなら、医者はまだ力を振り絞って頑張っていけるでしょう。周囲からもらった元気が、再び頑張るエネルギーにもなるでしょう。そういう地域にはお医者さんは来るのです(兵庫県みたいに)

 でも、思ったのですが、そういう報いることのできる地域(報いる意識を持った地域)というのは、そもそも、医療のシステムもそこそこ機能するんですね(意識がしっかりしているから) 挙げた2点の両方ともダメ、か、両方とも乗り越えているか、両極端なのです。こうやって、医者が行くところにはますます医者が行き(医療のシステムが機能し)、いない所はますますいなくなる(医療がもっと崩壊する)という格差は広がっていくんだなあと、改めて納得したところです。



<補足>
 医者は一人でも開業できるので、「システムとしての医院」と「お医者さん個人」との線引きがとてもわかりにくくなっています。
 しかしながら、医者一人で開業している医院は、システムとしては、とてもきっちり成り立っているのですね。「職員(=医者)」にできないことはやりません。夕方は17時や18時で必ず終わるし、土日は休みだし、夜間救急は受けないし、入院患者もいないし、救急車は昼間も受けない。きっちり線引きはできていて、システム(医療)の破たんはここにはないです。
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春の鬼  近江寺の鬼やらい

2010-02-24 | 写真
鬼が、満開の桜の枝を持って踊ります。
春だ・・・・。
兵庫県神戸市押部谷町 近江寺にて


 新春に、邪悪なものを吹き飛ばしさわやかな春の風を呼び込む神としての鬼と、「鬼はそと〜」と退治されてしまう鬼の間の線引きが、いまだによくわかりません。どっちも「邪悪なものを祓うと春が来る」という、根っこになっている考え方は同じなのですけどね。

 折口信夫など民俗学の古典を読んでしっかり勉強しなさい、と怒られそうですが、「民俗学的にはこう報告されているけれども〜」「学者はこう体系付けているけれども〜」実際は違う、というのを多々見て来ているので、現実に現地で見て、現地の人々のお話を直に聞いて、それで自分はどう捉えるのか、というのをもうちょっとやってみたいのです。

 私が注意しているのは、もともと『鬼』じゃなかった(らしい)のが、いわゆる『鬼』になっていった経緯が疑われるものです。たとえば、現在「鬼」!!の代表格であるナマハゲも、実際に取材に行ったら、一番昔からの形を伝えている地域のお面はツノがないんだ・・。二組のお面は赤くも青くもなく、金色と銀色で、「おじいさんとおばあさん」なんですよ。それが近代になるに従い、地域によっていわゆるオニらしく、ツノをつけ赤や青に塗られた「赤鬼と青鬼」に移り変わっていったことがうかがえるのです。
 但馬のまいそう祭りも、文献上は「鬼」としか書いてないけれど、実際に見たら(確かに鬼として扱われているけれど)ツノは生えてないです。

 だから、現在世の中で「鬼」の行事として赤鬼や青鬼が暴れ回っている行事でも、その中には、昔は赤でも青でもなく、ツノも生えていなかったものが含まれているかもしれない、ということを、いつも差し引いて考えながら取材しています。



 写真は神戸市近江寺の鬼やらい(2010.2.11)です。ここでは、赤鬼は毘沙門天の化身、青鬼は不動明王の化身なんだそうです。
 というか、どういう歴史の移り変わりの中で毘沙門天は「赤鬼」になり、不動明王は「青鬼」になりましたかね。
 人々が赤鬼を毘沙門天とし、青鬼を不動明王とする心のベースを、どうかぜひ知りたいと願う次第です。


馬も迫力いっぱいです。

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思えば長く来たもんだ

2010-02-20 | 知床
 先日、町長とお話する機会がありました。
 今までも何度か町長とお話しましたが、自分のことを話すのはまったく初めてです。

「私が一番最初に斜里に来たきっかけを、聞いていらっしゃいますでしょうか?」
「保村さんに紹介されて、嘱託医で来ていただいた時ですか。」
「いいえ、それよりもっと前からです。」
 私が斜里町に来るようになったのは、2005年の夏のことでした。もうすぐ5年になるのですね。当時は医者としてではなく、当時まだ明らかでなかった知床開拓を踏査していく写真家でした。
「ああ、ああ」と町長も合点して下さいました。
「ええ、町議会では門間家を修復保存していただきました。」と私も言いました。
「斜里町の方々が知らなかった斜里町の素晴らしい歴史を、明らかにしたという自負はあります。私財も投じて一生懸命斜里町に貢献したと思います。」
 夜行バスで斜里町に通い、ダニに食われながらレンタカーの中で眠れなくてうんうん言いながら知床開拓の取材を続けていた時のことを思い出します。貯金が数十円になっていたので、フィルムと現像代、交通費で何百万円か使い果たしたと思います。本を出版する時にも何百万円も使いました(今も印税は1円ももらっていません) 今さら、貢献したと言ってもバチは当たらないでしょう。

「斜里町国保病院に嘱託医で来ることになった理由は、聞いていらっしゃいますでしょうか。」
「いいえ」
「それはちょうど、4人いた内科の常勤医が2人だけになってしまうという時でした。当時は私もそんな事情は存じませんでした。当時、最初に集められた非常勤医師の一人だったのです。その時から毎月勤務してきました。もうすぐ4年になります。」

「では、非常勤として斜里町でどのくらい働いているかご存じでしょうか?」
「1回3〜4日くらいですか?」
「いいえ、月に12日間です。ただ、1回来ると24時間勤務ですから、普通の人の12日間というイメージよりはもっと長いです。」
「ええ、そうでしょう。」
「計算してみると、おおよそ月に170時間の勤務でした(移動時間除く) あくまで単純計算になりますが、1日8時間労働とすると、月に21〜22日間斜里町で働いている計算になりました。」
(あくまで単純計算ですけどね。)

 今さらながら、斜里町ではずいぶん長いこと勤務してきたなあと思いました。
 町長とは始終↑こんな感じでおだやかな会話だったですよ。心配する人がいるかもしれないので、念のため。
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古い写真の消息

2010-02-19 | 写真
「斜里町以久科地区泥炭地帯 農家自家湧水状況」(昭和24年)
トリミングなしでは、こんな感じ。


 今年1月14日に「2010年の初買」でブログに載せた写真。昭和24年の「開拓地土壌調査記録 根室支庁・網走支庁管内」というアルバム形式の報告書の中にあった1枚なのですが、

 斜里町に来ると、なんと、「あの写真、うちのお婆ちゃんの若い時!」と、声をかけてくださる方が・・・(@▽@)/

 うわーすごいぞ。あっという間に、写真に写っている方がどなたかも、写真が以久科のどこで撮られたのかも、解明されてしまった! しかも私がよく知っている方々のご親戚だった! さらに、お話を伺っていくと、「あー、あの井戸を掘ったの、オレの親父」と言う方まで・・。

 井戸は4メートルくらい掘ったのだそうです。今は埋められたけれど、まだ地中にあるそうです。背後に写っているのは馬小屋で、すぐ後に見えるのは、たくさん積み上げた薪でした。

 報告書の写真として発見されたのも凄い話ですが、当時の写真はあまり残っていないそうで、ご家族にも喜んでいただけてよかった。

 ほんの60年くらい前、人はみんなうまいこと自分たちで作って生活していたなあ、(自分にはできるのかしら)、見習いたいなあ、現代人だって自分たちで作って生活していける潜在的なエネルギーは持ってるはずだよなあ、などなど思うのです。

 こうやって1枚の写真だけで次々わかってくることがあるというのは、すごいと思いました。
 自分もちゃんと写真を撮ろう(笑)
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