JUNK

2007-11-29

[]レイシストが「レイシズム」を糾弾するという錯誤

東京で料理店「北京亭」を営みつつ、70年代に華僑仲間と「支那という蔑称を根絶する会」を組織し、会の代表を務めた江頴禅氏が、「有田芳生の『酔醒漫録』」2007年6月4日付の「江頴禅さん逝去の悲しみ」という記事によれば2007年5月31日に亡くなったそうである。83歳であったという。この江という男、朝日新聞1987年10月8日朝刊の「ひと」欄で紹介され、1990年3月6日朝刊には「「支那」の呼称は許されぬ」という文章を発表している。この文章に対しては1990年3月11日朝刊声欄に漢文学者原田種成の投稿が掲載された。

支那」の呼称、自国の古典に

 前橋市 原田種成(大学講師 79歳)

 6日の「論壇」の「『支那』の呼称は許されぬ」で、江頴禅氏は蔑称(べっしょう)だからいけないというが、その中に誤りがある。

 まず「中国」というのは学術的には不確実だ。東晋の僧法顕(ほっけん)著の「仏国記」で「中国」といっているのは、インドガンジス川中流域をさし、幕末の斎藤拙堂著の「海防策」には日本全体をさして「中国」と称している。だから「中国」といったのでは、どこをさしているのか分からない。

 江氏は中国人は古来自分の国を「支那」と称したことはない、と断言しておられるが誤りである。清の乾隆帝(けんりゅうてい)の命で編した「四庫全書総目」の中で「石門文学禅」について「支那著述」と書いている。「中国著述」ではインドと区別がつかないからである。

 清末の大学者康有為はイタリア旅行の詩で「支那来たり遊ぶ者」と詠じている。清末の外交官黄遵憲も「支那」と書いていることを陳舜臣氏が指摘しており、作家の茅盾(ぼうとん)は民国25年に「支那的1日」を出版している。これは解放後に「北京的1日」と改題された。

 だから、江氏が「支那」と日本人が勝手に使ったというのは事実ではない。自国を「支那」といっていたから日本人もそう呼んだのである。

 漢、唐、宋、元、明、清など多くの王朝を総括した学術的表現には「中国」では不適切で「支那」といわなければならないことがある。蔑称ではないことを了解してほしい。

また江は2001年1月23日夕刊社会面によれば「森喜朗首相が訪問先の南アフリカで「支那事変」という言葉を使ったのは中国人への侮辱だと」息巻き、「抗議の手紙を首相あてに送った」という。そして「「北京亭」では、はし袋やマッチ箱に「私たち中国人は、日本の人がわが国をシナと呼ぶとき、耐えがたい抵抗を感じます」と印刷されて」おり、「メンマを「シナチク」と注文しようものならたちまち」客を「追い出」してしまうのだそうだ。

有田氏は先の記事で「温厚な江さんはいつも日本の政治を憂えていた。ただ一度だけ激高したのは、わたしが中国ベトナム侵攻を批判したときのことだった。客がいてもお構いなし」と述懐している。

以上の事象から窺い知れるのは、シナという些かも差別語で無い名称に憤り、日本人に対してのみ使用を禁じて憚ることなく、客を追い出して平気でいられるこの男は「温厚」などでは断じてないということである。日本人漢文学者の懇切丁寧にして的確な教示を無視・蔑ろにし、自らの事実誤認を省みるどころか、「シナと呼ぶ人が後を絶たないのは、日本人が心のどこかで中国に劣等感を持っているからでは」と推測してみせ、挙句「中国ベトナム侵攻を批判」する者に「激高」する江は紛う方無きレイシストであり、覇権主義的な中華思想の持ち主である。ゆえに有田氏の先の言葉は訂正されなければならない。「傲岸な江さんはいつも朝貢国と見做した日本の政治を宗主国人民気取りで憂えていた」と。

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