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鳩山政権の「地域主権改革」の第一歩となる法案が閣議決定された。
中央政府と、地方政府である自治体の政府間協議と位置づける「国と地方の協議の場」。その議論も踏まえ、方針を決定する「地域主権戦略会議」。両輪となる組織の法制化が柱だ。
それらを舞台に進める「地域主権」の姿も、次第に像を結んできた。
「民主主義そのものの改革」。原口一博総務相は高々と理念を掲げる。
これまでの分権論と何が違うのか。
国が自治体の仕事の仕方を縛る「義務づけ」を見直す。国の権限も移譲する。国の出先機関は原則廃止。そうした内容自体はおおむね、従来と同じ方を向いている。
異なるのは、根っこに置く発想だ。国から自治体に向けて「分権」するのではない。住民が地域で「主権」を行使するのだ、という考え方である。
そのカギとなるのが、住民参加だ。地方選挙に会社勤めの人も立候補しやすくし、議会が民意をより反映するよう改革する。地域住民が予算の使い道を決める。そうした仕組みを検討し、「地方政府基本法」を2013年度までに制定するという。
自治体が多様な姿の議会を選べるよう、議員定数の上限撤廃などを盛った地方自治法改正案も今回決めた。
従来の地方分権は、政府と自治体という「役所」間の縄張り争いと見られがちだった。それを、「住民」を主語に切り替える発想は評価できる。いささか大風呂敷を広げた感もあるが、前向きの姿勢は歓迎すべきものだ。
住民参加が進めば、住民意識も変わっていくだろう。たとえば「大切な保育所整備に関する権限を自治体に任せて大丈夫か」という不安から、「大切な保育所だから自分たちで決めたい」という意欲へ、といった具合である。
原口氏は併せて「地域経済と暮らしの改革」も掲げる。たとえば、域外に依存してきた電力を太陽光発電で地元でまかなう。地域の自給力を増す。「緑の分権改革」である。
地域から力を引き出さない限り、立ちゆかない時代である。国が集めた税金を過疎地などに再分配し、格差解消を図ろうにも、その財源を確保できない。中央集権型の「分配と依存の政治」はもう無理なのだ。
むろん、立ちはだかる壁は厚い。
改革の理念は政権や与党内でも共有されていると言い難い。公共事業の個所付け問題や長崎県知事選の応援で垣間見えたのは、国家予算の配分をてこに票を得ようとする利益誘導体質だ。地域主権とは正反対ではないか。
官僚と手を組み分権に抵抗した族議員は消えたが、閣僚が省益を代弁する「族大臣」化現象もささやかれる。
理念は良い。問題はまず、その方向に足元の意識を固め直すことである。
小さな命がまた奪われた。
奈良県桜井市の5歳の智樹ちゃん。親から十分に食事を与えられずに亡くなった。埼玉県蕨市でも2年前に4歳の力人ちゃんが、親からの虐待で亡くなっていたことが発覚した。
智樹ちゃんの体重は6キロで1歳児の平均に満たなかった。体はやせ細り、紙おむつを着けて寝かされていた。
病院に運ばれ、急性脳症で亡くなった力人ちゃんも歩けないほど衰弱していた。部屋からは大人の怒鳴り声や子の泣き声が響き、「お水をください」と哀願する声が聞こえたという。
育ち盛りの子が両親に見放され、命をそぎ落とされる。そのむごい様子を思うだけで、胸がつぶれる。
育児放棄であり、虐待である。事実であれば許すことはできない。
だが、なぜわが子の虐待が絶えないのか、その背景も考えてみたい。
経済苦や不安定な就労、ひとり親家庭、夫婦間の不和、望まぬ妊娠、育児疲れ――さまざまな要因が、東京都などの実態調査から浮かぶ。そこに共通するのは「孤立」だ。
たとえば、職を失い借金を抱え、生活費や居住費にこと欠いても、かつては親族や友人が頼りになった。
地縁血縁という見えない「安全網」がほころび、相談したり救いを求めたりする場は乏しく、あっても見つけにくい。解消されない苦しみや焦りを抵抗できない子どもたちに向かわせる。そんな姿が浮かびあがる。
虐待された子が成長し、親になったときにまた、わが子を虐待してしまうこともあるといわれる。
親や身近な大人に愛されたり、大切にされたりした記憶がない。信じても裏切られるから信じない。行き場のない孤立感が、わが子への刃(やいば)となる。
親による子どもの虐待が問題になり始めたのは1990年代からだ。その親たちが生まれたのは60年代以降だろう。日本は成長と繁栄を求め、農村から都市へ人が移動し、郊外に住んだ。親と子だけで生活する核家族が増え、地域とのかかわりは薄くなった。
そして、バブルの崩壊と長い不況、格差社会がやってくる。人と人とのつながりはますます細ってしまった。
それにしても、2人の子どもたちを救えなかったものか。自治体や児童相談所がもう一歩踏み出す手立てはないだろうか。近所の人たちの知らせをもっと生かせないか。
虐待を受ける子どもの命は社会が守らなければならない。検証して今後につなげたい。
どんな事情があろうと虐待の罪が軽くなるわけではない。
同時に、相次ぐ親による児童虐待は、日本の社会が長い間に失ったものの大きさを、私たちに厳しく突きつけていないだろうか。