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撮ったのはアドルフォ・ファルサーリ(Adolfo Farsari)です。過ぎし日の世界を今に伝える写真。息を呑むばかりですね。
写真に劣らず興味が尽きないのが、ファルサーリの生涯でしょう。 北イタリア生まれ。ナポリで陸軍入隊。借金から逃げるようにアメリカに渡り、奴隷制廃止運動に傾倒し南北戦争では北軍に入隊します。書物だけ頼りに独学で写真を覚えて独立、小金持ちの未亡人と結婚。2人の子宝に恵まれながらも離婚。またまた逃げるように単身日本に渡って横浜で写真館を構え、土産物や出版物を手広く扱う会社を起業します。 なんかよくわからないけど、日本初(?)のガイドブックも自分で調べて出してたみたいですよ。晩年はホームシックでイタリアに帰ってしまいますが。 カメラ大国日本で最初に写真が盛んになった街は横浜と長崎。 1860年代から横浜には、同じくイタリア生まれで英国の新聞社の特派員として1963年幕末の日本に来たフェリーチェ・ベアト(Felice Beato)を筆頭に、彼から写真館を買取ったオーストリア人シュティルフリート男爵(Baron Stillfried)、関東初の商業写真館を開いた下岡蓮杖(Shimooka Renjo)、坂本竜馬・高杉晋作の写真を残した上野彦馬(Ueno Hikoma)など、名うての写真家が大勢集っていました。彼らが残した古き良き日本の写真は「Yokohama shashin」と総称されます。 ファルサーリの来日はフェリーチェ・ベアトから遅れること10年(1873年)。シュテルフリート男爵の弟から写真館を受け継いだのは、そのまた10年後の1883年です。1885年には日本人女性との間にキクという女の子が生まれます(晩年イタリア帰国のとき連れ帰って親族を驚かせた)。 やがて日本人写真家との競争が激しくなり、気づいた時には外国人は、技術に定評のある彼ひとりになっていました。 【1880年代日本の彩色写真とファルサーリの物語】 (satomi)
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