インタビュー    中村ひで子                               

  

この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。今月は、メルボルンの平和活動グループ Japanese for Peace (JfP) の発起人であり、設立以来、グループの活発な活動の推進役のひとりでもある中村ひで子さんにお話をうかがいました。

*オーストラリアにはいつ頃いらしたのですか?

最初に来たのは1985年の2月で、タスマニアに行きました。タスマニア大学の学部学生として、子供3人を引き連れての子連れ留学でした。4年間で社会学と心理学を専攻して、無事卒業することができました。

3人ものお子さんのめんどうをみながら! それは大変なことですね。ただ3人育てるだけでも大変なのに。 

実は夫も一緒に来てくれて、4年の間ほとんどの家事と子育ては夫が引き受けてくれました。

*えっ、本当に!? まあ、なんと理解のある、そういう男性が日本にもいらしたのですね。

経済的なこともありますので、日本に仕事をしに帰ったことはありましたけれど。ほとんど80%くらいはタスマニアに一緒にいて家事や子育てをしてくれました。

*ご主人は自由のきくお仕事をされていたのですか?

彼はフリーのロシア語の通訳をしていたのです。当時は幸いなことに報酬も良かったし、仕事も常時順調にあって、多少お金を貯めることもできましたので。私は以前から留学したい、と思っていましたから。でも最初に言い出したのは彼の方で、勧めてくれていたのです。期間も3年半ぐらいですから、まあ、その間は仕事を休んで、私に合わせてくれました。タスマニアでも単発にガイドのようなアルバイトをしたこともありましたけれど、主として私を助ける、ということで家事や子育てを担ってくれました。

*なんと素晴らしい! オーストラリア人の男性でも、そこまでやれる人はあまりいないと思いますよ。

4年で無事卒業して日本に帰りました。帰ってからは翻訳会社で翻訳、編集、コーディネートのような仕事を2年ほどしました。ただ、一番下の息子がまだ小学校1年生だったので、仕事、仕事というわけにもいきませんでしたけれど。まあ、翻訳会社でずっと働いていても、自分の未来があまり見えてこなくて、もう少し勉強したいな、という気持ちがありました。その当時オーストラリアでは女性学が盛んになっていた時で、今度は女性学を勉強したいな、という気持ちになってきまして、91年の初めにモナッシュ大学の修士課程で女性学を勉強するために留学してきました。

*その時もご家族でいらしたのですか?

ええ、子供3人と一緒に。一番上の子は中学3年生になっていました。夫はその時は仕事からあまり離れられない状態でしたので、日本にいて時々メルボルンに来る、という状況でした。経済的なこともありますから、彼は日本で働いて経済的な責任を担ってくれて、私はオーストラリアで子育てをしながら勉強をする、ということにしたわけです。それで、95年に幸いに永住権が取れましたので、学費の心配もそれほどなくなったので、では勉強をもっと続けよう、と考えて博士課程のコースに進みました。

*海外留学を考えられて、なぜ最初にオーストラリアのタスマニアを選ばれたのですか?

まず初めに英語圏を考えていました。するとアメリカ、イギリス、オーストラリアということになりますね。アメリカにはあまり良いイメージがもてなくて。それにアメリカ、イギリスは生活費も高いし、イギリスは寒そうだし。でもオーストラリアは日豪関係もこれから発展しそで、将来的にも面白そうだ、という感じがしました。それでオーストラリアのいくつかの大学に願書を出したのですが、なかなか返事が来なくて、最初に返事が来たのがタスマニア大学だったのです。

3人のお子さんは、最初にタスマニア、日本に帰国してからの2年間、次はメルボルンと10年くらいの間に環境が3度変わったわけですね。ご自身はご自分で考えて行動されても、お子さんは、お母さんについていかなければならないわけですよね。環境の変化に対してのお子さんたちの反応はどうでしたか?

タスマニアのときは、子供たちがまだ小さかったので、わりとすんなり適応してくれたと思います。一番上がまだ小学校2年くらいで、一番下は保育園でしたので、最初は泣いたり、早く迎えにいく場合は大学の方の時間を調整したりとか、いうこともありましたけれど。

*最初の時はまだ小さかったのですんなり適応されたようですが、日本に帰ってから、あるいは2度目の來豪の時など、問題はありませんでしたか?

上の娘は思春期の難しい時期にさしかかっていたときでしたから、すんなりとはいえないかもしれません。登校拒否、というような明らかな問題はほとんどなかったのですが。親にあまり心配をかけたくない、というタイプでしたので、外にはあまりだせなかったようですが、心のうちにはだいぶ葛藤があったようです。それは後になってわかったことですが。

*成長期に2つの異なる文化を体験するというのは、良い面もありますが、当人にとってはかなり大変なことでしょうね。自己が形成されていく時期ですから。

そうですね。アイデンティティの問題もありますよね。英語が話せても、肌の色や外見は明らかに異なるし、友達関係もアジア系が多いし、ということもありますし。いろいろ内心の葛藤はあった、と思いますが、私自身も自分の課題がありましたから、配慮が行き届かなかった、ということがあったかもしれません。

*でも、特に大きな問題はなかったわけですね。

いえ、それぞれ、ありましたよ。上は上で、真ん中は真ん中で、下は下で、それぞれ違う悩みがあって、大人になる過程での、それなりの激しい葛藤があったと思います。だからといって、では日本に居たら問題はなかったか、といえば、決してそうとはいえませんし。

*そうですね、今の日本は子供を育てるのも、子ども自身にとってもなかなか難しい社会になってしまったようですね。現在は、お子さんたちは、もう皆さん成長されて家を出られたのですか? 

ええ、おかげさまで、なんとかそれぞれの道を進んでいます。

*ご自身はタスマニア大学で社会学と心理学を学ばれて、モナッシュ大学で女性学の修士、メルボルン大学で博士課程を修得されたのですね。その後は?

2000年にすべてを修得したのですが、私の修めた学問は平和学とか女性学という分野なので、なかなか就職先がみつからなくて、リサーチアシスタント、というようなことをずっとしてきました。現在はモナッシュ大学、人文学部、言語、文化、言語学科で、アリソン・トキタ准教授のアシスタントをしています。

*ところで、中村さんは Japanese for Peace (JfP) の発起人でいらっしゃいますが、そもそものきっかけはどんなことから?

私のメルボルン大学での博士過程の研究テーマは、「日本における女性の平和運動」でしたので、それを土台にして、何か研究なりしてみたい、という気持ちがいつもありましたが、そういう仕事はみつからなくて。でも何かしたい、と思っていました。こうした勉強の傍ら、「メルボルン事件」の受刑者の方を刑務所に訪ねたり、彼らの支援などのボランティアをしてきました。また、ホープ・コネクッション(日本人ボランティアで構成されている福祉団体)には96年の創立時点からかかわっていました。ホープ・コネクションは福祉サービスが主ですが、会員の間では、福祉だけでなく平和問題などを話し合う仲間ができていました。直接のきっかけとなったのは2003年のイラク戦争でした。この戦争、黙って見過ごしているわけにはいかないわよね、と仲間たちと話していました。その年に、ベトナム戦争以来、という大きな反戦ラリーがメルボルンでいくつかありました。私はデモに参加したり先頭に立つ、というようなタイプではないのですが、もうこれ以上黙ってはいられない、という気持ちになって、日本語と英語で反戦のプラカードを作ってデモに参加しました。その日本語のプラカードを見て、「日本の方ですか? 私も同じ気持ちなので一緒に歩かせてください」、という日本人や他にもデモに参加していた日本人に出会いました。その後、「ヒロシマデー・ラリー」に参加したときに、乳母車に小さいお子さんを乗せて参加している日本女性に出会いました。この女性が現在、JfPの代表として活躍している香寿代・プレストンさんです。その後もデモや平和集会に出たりしているうちに様々な出会いがあって、仲間も増えてきました。こんな風にしてできていったネットワークを通して、人権、福祉や平和問題について話あったりしているうちに、グループを創りましょうか、ということになっていったのです。その時、ホープ・コネクションの半分以上の人がメンバーになってくれました。

*それはいつ頃のことですか?

2005年の3月でした。 

*現在、JfPはどのような活動をしているのですか?

会が発足した年の8月、ヒロシマ、ナガサキ被爆60周年のピースコンサートを、フェデレーション・スクエアーで開催したのが最初の活動でした。会が発足してからすぐでしたので準備期間は正味3ヶ月くらいしかなかったのです。まだできたばかりのグループで、実績がなかったものですから、資金集めも大変でした。もう手足と頭を使ってやるしかない、とマーケットで物を売ったり、ミニコンサートや「誰も知らない」という映画を上映して、ファンド・レイジング・イベントをしたり、いくつかの企業から寄付をしてもらったりして資金を集め、ヒロシマ、ナガサキ被爆60周年平和コンサートを実現、成功させました。

*どのようなコンサートだったのですか?

太平洋地域から来た核実験被害者のズピーチや、日本国内を平和巡礼して歩いたオーストラリア人男性のスピーチ、詩の朗読、バレエなどを合間に織り交ぜてのコンサートでした。日豪のパフォーマーの方たち、坂本さん代表のりんどう太鼓やバイオリンリストの角田さん、尺八のアン・ノーマンさんなどが出演協力してくれました。当日は寒くて途中から雨が降ったりしたのですが、おかげさまで1000人ぐらいの人が来てくれました。この最初のコンサートの開催準備の段階で、オーストラリア側のたくさんの平和活動グループとも知り合うことができて、その人たちが私たちのグループをあちこちに紹介してくれたり、つながりを持つことができるようになりました。最初に行ったコンサートが大成功だったものですから、去年も今年も引き続いてコンサートをしました。今年はメルボルン・タウンホールで開催して、大勢の方が参加してくれました。

*コンサートの開催が主な活動ですか?

必ずしもコンサートでなくてもいいのですが、毎年8月のシロシマ・ナガサキ・デーには、なんらかの催しを継続してやっていきたいと思っています。コンサートの他にも様々な活動を考えていますし、「平和の出前」というプロジェクトも始めています。

*「平和の出前」って面白い名前ですね。具体的にはどういうことを?

これはまだ始めたばかりなんですが、オーストラリアの学校やコミュニティーに行って、折り紙、千羽鶴の作り方を教えたりしながら、ヒロシマ・ナガサキに対する私たちの思いを伝え、平和、核廃絶について訴える、ということなのです。ところが、ここはオーストラリアですから、このような活動をする時、第二次世界大戦の戦争責任問題から逃れられないのです。「たしかに、あなた達はいいことをやっているけれど、では、あなたの国の軍隊がやった捕虜虐待や女性たちを強制的に性奴隷とした「慰安婦」問題についてはどうなの?」、と言われた時に、「そのことは知りません」と言うわけにはいきません。そういうことはきちんと受け止めて誠実な対応をしたい、と思います。ですから、日本政府に対しては、「慰安婦」問題も含めてきちんと謝罪してもらいたい、と考えています。

*「慰安婦」問題といえば、安部前総理大臣の発言が、世界中で問題になって、オーストラリアの新聞でも大きくとりあげられましたが、あの時は、JfPとしては何か行動を起こしたのですか?

あの時の安部総理大臣の発言というのは、「女性たちに対して日本軍からの強制はなかった」、という主旨のものでした。「慰安婦」問題に関しては、私自身、関心を持ってそれなりに研究したり調べたり、勉強してきましたから、あの発言は当然受け入れられないものでした。私たちオーストラリアに住んでいて JfPという平和団体で活動をしている者が、このまま黙っているわけにはいかないのではないか、私たちの懸念を表明すべきではないか、ということになりました。それで、日本政府には慰安婦も含めて、戦争責任について、はっきりと内実のある謝罪をして欲しい、という主旨の手紙を JfPして書きまして、当時のメルボルン総領事に手渡しました。

*抗議の手紙を渡されたわけですね。

抗議、といほど強いものではないのですね。もちろん言いたいことはきちんと書きましたが、内容はラジカルなものではなくて、どちらかというと請願書といった方がいいかもしれません。

*安部前総理は証拠がない、といわれたようですが、大体どこの軍隊でも政府でも退散する時、負ける時は、可能な限り証拠は隠滅するものでしょう。敗戦時の日本でも、進駐軍が来る前に証拠を隠滅せよ、という指令が出て、公私を問わず、ものすごい量の書類や、一般家庭でも手紙や書類、本などが焼かれたのでしょう。証拠がない、というのはあまりにも稚拙で卑怯な言い逃れ、と受け取られても仕方がないですよね。

だけど、すべてが隠滅できたわけではなくて、それでも学者の方々が、軍の関与を証明する書類をきちんと見つけています。実際、吉見義明教授は、92年、防衛庁(当時)の図書館で日本軍が慰安所設置を指示した公文書を発見しており、日本政府も認めているのですよ。だから河野前官房長官もあのような「河野談話」を翌年8月に発表しています。ですから証拠がない、ということはないのです。

*では、話を元にもどして、「平和の出前」ですが。

去年の平和コンサートには、オーストラリアで絵本画家として活躍していらっしゃる森本順子さんが、シドニーからスピーチにきてくれました。そのときはご自分の 描かれた「My Hiroshima」という絵本を持っていらして、ご自分の広島の被爆体験を話してくれました。その前日にはメルボルンの土曜校(メルボルンにある国際日本語学校)で、また翌日は JfP のメンバーのお子さんが通学している、オーストラリアの学校に行って子どもたちと絵を描いたり、広島での体験を話したりしています。出前、という言葉のように、こちらから出かけて行って、反戦、反核について訴え、理解してもらう、ということなのですが、その場合、前にもいったように、オーストラリアに住んでいる日本人として、戦争責任の問題を素通りするわけにはいかないのですね。ですから日本政府に対しては戦争責任を取って欲しい、という立場で訴えっていきたいと思っています。

*日本国内では、広島、長崎、東京大空襲の被害が声高に叫ばれても、では、日本軍が海外の侵略した国々でどのようなことをやったのか、ということは一般の人々には知られていないし、知ろうともしませんね。一方、オーストラリアや連合軍だった国々は、捕虜虐待などを追及しますが、原爆投下のもとで日本の市民がどんな目にあったのか、それについては非常に無知で無関心、知ろうともしない。むしろ、戦争を早く終結させた、原爆投下により多くの人々の命を救った、という考え方が一般的なようですから、反対側の立場を知る、理解する、ということはとても大切ですね。

原爆投下が多くの人の命を救った、というは誤った神話です。アメリカは造ったからには使用するつもりで、実行したのです。あの時点で日本は負けることがわかっていて、降伏は時間の問題、という状況だったのですから。それは後から作られたいいわけに過ぎないのです。そのアメリカの言い訳を、多くの人は信じているのですね。ところが、とてもうれしく感じたのは、オーストラリアで反核、反戦運動をしているグループのニュースレターには、もう10年以上も前から原爆投下は仕方がないことだった、というのではなくて、一般人を無差別に殺戮する、明らかに国際法に違反である、ということがきちんと書いてありました。それを知ったときは、オーストラリア人の中にも、そういうことをきちんと認識してくれる人たちがいるのだ、とわかってうれしかったですね。

*原子爆弾は、第2次世界大戦が始まった時点では、ナチスも日本もアメリカも造ろうとしていたわけですよね。そのなかでアメリカだけが製造に成功して、ナチスも日本も作る能力がなかったわけですが、もし日本が成功していたら、人道的な見地から使用しない、というこがありえたでしょうか? わたしには、どうもそうとは思えないのですが。そうなると、能力がなかったからできなかっただけで、同じ過ちを犯したかもしれない立場にあった日本が、一方的にアメリカを非難できるのかどうか。

歴史上の問題を「もし」と言う仮定で答えるのは難しいし、どれほどの意味があるか分かりませんが、それを前提とした上であえて言えば、使用していたかもしれませんね。当時の日本はすさまじい軍国主義の国でしたしから。ただ、第2次世界大戦後のアメリカの戦争の関わり方をみると、やはりアメリカは原爆投下を非難されて当然だと思います。ベトナム戦争、アフガン、中南米、イラク戦争など。アメリカ人一般を非難するのでなくて、アメリカ政府のしていることは非難、批判されて当然だと思いますし、原爆投下も含めて現在アメリカがしていることは厳しく批判すべきだと思います。

*中村さんがこういう平和運動に関わりはじめた原点は、どこにあるのですか? 個人的な体験ですか、それとも学問的な立場からとか。

そうですね、個人的な体験というのも若干含まれるかも知れませんが、こちらに来て、博士課程の勉強をしはじめて平和運動などを学ぶうちに、という方が強いと思います。振り返ってみますと、60年代後半からから70年代はじめのベトナム反戦運動が盛んだった頃に青春時代を迎えた、ということもあるかもしれません。でも根本的には女性学、フェミニズムを専攻したからだと、思います。フェミニズムというといろいろ誤解される面もあるのですが、女性が一番抑圧される場面というのは、戦争だと私なりの結論が出て、女性の抑圧をなくすためには、戦争をなくさなければならない、という観点からいろいろ研究していくうちに「慰安婦」問題につきあたり、反戦運動に入っていった、と思います。

*では日本にいらした頃からですか?

「慰安婦」問題に関してはこちらに来てからです。日本で「慰安婦」問題が明るみにでたのは、1990年代の初めことです。松井やより、というジャーナリストの方が、太平洋戦争の戦後処理の東京裁判では、「慰安婦」にさせられた女性についてまったく触れられていない、ということに気づき、被害女性たちの尊厳の回復を何としても図りたいと、松井やよりさんが創立された「戦争と女性への暴力日本ネットワーク」(VAWWネット)が中心になって、2000年の12月に「女性国際戦犯法廷」を東京で開きました。この時は、海外からも法律家や「慰安婦」にさせられた女性も来日、「法廷」期間中は、ジャーナリスト、一般市民など延数で4000人ほどが参加しました。これは「民衆法廷」で法的な拘束力はないのですが、戦時性暴力の実態が明らかにされていきました。

*それについてはオーストラリアでもかなり大きく報道されました。特にオーストラリアには、インドネシアで強制的に「慰安婦」にさせられたオランダ女性がいますから。

そうなんです。海外の方で大きくとりあげられて、日本では朝日新聞とほんの一部の報道だけで、他はほとんどとりあげていませんでした。

*日本の過去のネガティブな部分は知らせなくてもいい、知られたくない、ということなのでしょうかね。最近感じるのは、日本はだんだん右傾していっているようですね。ナショナリズムが強まってきているようですし。ジャーナリズムもそちらに寄り添っているようにみえますね。

そうですね。安部前総理も憲法9条を変えたい、ということで頑張っていらしたようで、国民投票法が通ってしまいましたし。防衛庁は防衛省に昇格、やがては戦争ができる国に変えていきたい、という意図の下に着々と準備が進められていますが、それは国民の右傾化とか保守化という下地があって可能になってきている、ということなのでしょう。大手のマスコミが政府批判をあまりしないから、ということもあるでしょうね。一般の人たちは自分の仕事や毎日の生活が忙しいから、大手の新聞、雑誌にさっと目を通して、テレビのニュースを見てそういうことか、と思ってすましてしまうのではないでしょうか。

*今の日本のジャーナリズムでは、小林よしのり、とか桜井よしこ、というような人がだいぶ活躍されているようですが、あの方々が受け入れられる土壌があるのでしょうか。

歴史教育の問題とかもあるでしょう。否定的な面は教えない方がいい、とか、受験に関係がないからカットしてしまうとか。だから日本軍が中国でどんなことをしたか、オーストラリアとまで戦争をしたのだ、ということは知らないで育つ子供が多くなっていて、日本は経済発展をしたし、いい国だ、美しい国だ、自分の国に誇りをもちましょう、みたいなことになって、、、。それに愛国心を押し付けるような道徳教育がされたりしていますから、よほど自覚的でない限り、そちらの方に流されていくのではないでしょうか。

*私が外から日本を見て感じるのは、バブルがはじけてなかなか立ち直れない、という自信喪失の状態が続いていて、同時に社会の弱点やひずみがが顕になって、それも深く大きくて改善の方法もおいそれとはみつからない。社会も若者たちも閉塞感にとらわれている、そういう状況の突破口としてナショナリズムが台頭してきたようにみえますね。と同時に右傾化や保守化が始まったような気がします。日本が経済的に上り詰めて、Japan as Number One といわれていた当時は、誰も日本がいい国だとか、美しい国だとか言い出しませんでしたもの。金儲けに夢中で、日本のビジネスマンたちは、世界の主要都市で、肩で風きって闊歩していましたから。

そうなんですね。戦争には常に経済問題が背景にあるといわれています。日本でも現在フリーターとかいわれて、定職をもてない若者たちがたくさんいますし、アパートも借りられなくて、ネットカフェなどで寝泊りしているようなその日暮らしの若者が全国に大勢いるようです。もし正式な軍隊ができるようになったら、国のため、という大義名分があって、寝食が得られて給料がもらえるとなれば、真っ先にリクルートされるのはこういう状況のナイーブな若者たちです。今まさにアメリカがそうで、イラク戦争に送られているのは、仕事がなくてリクルートされたり、恵まれない家庭の若者たちですから。だから日本でもそういうことは起こりうるし、ナショナリズムにあおられたナイーブな若者が、真っ先に戦場に送られていくことになるのでは、という危惧があります。

*中村さんは将来そういうことが起きないように、平和活動をされているのだと思いますが、特にオーストラリアで平和活動をするについて、どのような意義があるとお考えですか?

いろいろあると思いますが、そのうちの一つは、メルボルンの日本人コミュニティへの良い刺激になっているのではないか、ということです。いろいろなグループがありますが、それぞれの異なるグループが互いに認め合い、刺激しあうということで、コミュニティー自体の成熟度が増し、協力し合う関係が作られてきているのではないかと思います。もう一つはオーストラリアで日本人が平和活動をする、ということで、日本人の中にも戦争責任まで考えている人たちがいるのだ、と認識してもらえる、ということが非常に大きいと思います。それと運動を通じてオーストラリアの平和活動団体と知り合い、連帯することができた、ということです。Medical Association for Prevention of War というお医者さんたちの反戦グループ、Friend of Earth  などの環境保護団体とも知り合って、仲良く連帯しながら やっています。平和活動をしていきながら、オーストラリアのことを学ばせてもらい、彼らに私たちのことも知ってもらいたい、という思いで活動の輪を広げていきたいと考えています。

    そうですね。産業・経済や軍事面での協定だけでなく、平和活動も日豪連帯でするというのは、素晴らしいことだと思います。どうぞこれからも活動の輪をどんどん広げていってください。世界から戦争がなくなり、日豪がお互いを理解し合い、真に信頼しあえる日が来ることを願っています。今日はいろいろと貴重なお話をきかせていただき、ありがとうございました。

インタビュー:スピアーズ洋子

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