奈良県大淀町立大淀病院で06年8月、同県五條市の高崎実香さん(当時32歳)が分娩(ぶんべん)中に意識不明となり、19病院に受け入れを断られた末、転送先で死亡した問題を巡り、遺族が町と産科医に約8800万円の賠償を求めた訴訟の判決が1日、大阪地裁であった。大島真一裁判長(島村雅之裁判長代読)は遺族の請求を棄却した。しかし、3時間以上も転送を待たされた経緯に触れ「産科救急医療の充実を願う」と付言した。【日野行介】
原告は、夫晋輔さん(27)と転送先で生まれた長男奏太ちゃん(3)。主な争点は、産科医が頭部CT検査を実施せず、死因となった脳内出血ではなく妊娠高血圧症の子癇(しかん)とした診断の過失と、救命可能性の有無だった。
判決は、脳内出血が発生した時刻を、実香さんが頭痛を訴えた06年8月8日午前0時ごろと推認。その上で、「設備の整った医療機関にできるだけ迅速に搬送することを優先させた判断は不適切とは言えない」と産科医の過失を否定した。
転送時期と実香さんの死との関係については「仮に(初期段階で)脳の異常を診断し、(設備の整った)奈良県立医大に搬送したとしても、手術開始は午前3時半ごろと考えられ、救命の可能性は極めて低かった」と述べ、請求を全面的に退けた。
一方、判決要旨の朗読後、大島裁判長は産科救急医療の現状に触れ、「重症患者でも現場で搬送先を探しているケースが多く、『救急医療』とは名ばかりだ。人の命を守ることは国や地方自治体に課された責務で、産科など救急医療の再生を強く期待したい」と述べた。
遺族の願いはかなわなかった。奈良県大淀町立大淀病院で分娩(ぶんべん)中に意識不明となり、19病院に転送を断られた末、死亡した高崎実香さん(当時32歳)の医療訴訟。大阪地裁は1日、町と産科医側への賠償請求を退けた。しかし判決は、実香さんの死後に浮き彫りになった産科救急医療体制の不備を指摘した。夫晋輔さん(27)は「判決は残念で実香に申し訳ない気持ちだが、裁判所の意見は良かった」と複雑な心境を語った。
晋輔さんは法廷の原告席に背筋を伸ばして座り、じっと目を閉じたり、ハンカチで目を押さえたりしながら、判決に聴き入った。
晋輔さんは毎回、裁判に出席する一方、各地で講演会などに参加し、産科医療の改善を呼びかけてきた。訴訟を起こしたことで、インターネットの掲示板でいわれのない批判や中傷も受けた。それでも法廷に足を運び続けたのは、実香さんが亡くなる直前に出産した長男奏太ちゃん(3)に「お母さんのおかげで産科医療が良くなったんだよ」と伝えたかったからだった。
判決後、記者会見した晋輔さんは、請求棄却について「頭が真っ白で言葉が出ない」と唇をかみしめた。しかし、産科救急医療体制の改善を求めた裁判所の付言には、期待を込めた。「実香の命が重いことを改めて感じた。奏太に説明できると思う。医療界が受け止めて、早急に産科医療の体制を整備してほしい」と語った。また、石川寛俊弁護士は「主張が十分、受け入れられなかった。控訴するかどうかはまだ考えていない」と述べた。
一方、西浦公章・大淀病院院長は「審理が尽くされた結果と受け止めている。産科救急医療体制の充実を強く希望するとともに、医療体制充実に努力したい」とのコメントを出した。【高瀬浩平】
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■解説
19病院に受け入れを断られた高崎実香さんの死は、危機的な産科救急搬送システムの実情を浮き彫りにした。賠償請求は棄却されたが、産科医不足や、産科と一般の救急医療システムとの連携の不備など、医療システム全体の問題点に一石を投じた意義は大きい。
実香さんの問題などを受け、厚生労働省は今年1月、産科救急医療を脳神経外科などと連携させるよう都道府県に通知。しかし、厚労省が昨年11月に発表した医療施設調査結果によると、分娩可能な医療施設は08年までの3年間で1割以上も減少した。背景には深刻な医師不足や過重労働があり、連携強化だけでは不十分だろう。
実香さんの遺族は「二度と同じ事故が起きてほしくない」との思いから体験を講演などで訴えているが、医療界には「訴訟が多いから産科医が減る」などと遺族側を批判する意見もあった。救急医療体制の充実に向けて、患者側と医療界が手を携えて動いてほしい。【高瀬浩平】
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■ことば
06年8月7日、高崎実香さんが分娩のため奈良県大淀町立大淀病院に入院。8日午前0時ごろ頭痛を訴え、間もなく意識不明になり、けいれんを起こした。産科医は妊娠高血圧症の子癇と診断。病院は産科救急の転送先を探し始めたが、19病院に受け入れを断られ、午前5時47分ごろ、約60キロ離れた国立循環器病センター(大阪府吹田市)へ搬送。頭部CT検査で血腫が見つかり、帝王切開で奏太ちゃんが生まれたものの、実香さんは同月16日、脳内出血で死亡した。
毎日新聞 2010年3月2日 東京朝刊